特別な夜
はぁ、とひとつため息を零す。今日も修行を終える頃には森の生き物たちはすっかりと寝静まっていた。そんな中、ぽつんと光る小さな小屋を目指して重たい足を動かした。
「ただいま戻りました。って、何これ!」
帰宅するとすぐに、普段とは違ったいい香りが鼻をくすぐった。目線をテーブルに移せば、一際目を引く鶏の丸焼きに、香ばしい匂いのガーリックトーストや、生ハムの乗ったサラダ、僕の大好きなミネストローネまで用意されている。
「ああ、おかえり。今日もご苦労さん」
キッチンから珍しくエプロン姿で出てきた師匠は、普段の鬼のような形相がどこへいったのか、柔らかい笑みを浮かべている。
「あの、これって……」
「これすごいだろ? 今日はお前がここに来て五年になるからな。普段はこんな盛大にやったりしないが、今日くらい良いと思ってね」
話しながら目の前に来た師匠は、やはり何もかもがまだまだ大きい。その大きくて優しい手で頭を撫でられると、修行中に張っていた糸がふっと解けるようだった。
「大きくなったな」
「まだまだです」
「ははっ、わかってるじゃないか。さあ、冷めないうちに早く食べようか。まだ肉団子とエビフライがあるんだ。運ぶのを手伝ってくれ」
「はいっ!」
一生忘れられない特別な夜は始まったばかりだ。
海の底
そろそろ考えるのが嫌になってきた。
このまま目の前の海に飛び込んで、深く深くまで沈んでしまえば、理想郷に辿り着けるだろうか。
ときどき同じ夢を見る。
自分は広大な海の中にいて、どこへだって自由に泳いでいける。しばらく気の向くままに、水の心地良さを感じて泳いでいくと、必ず最後には海の底にたどり着くのだ。
そこは現実とは違って、明るい世界。好きな食べ物がずらりと並び、好きな本、好きなゲーム、好きなもので埋めつくされている。毎日小言を言ってくる煩い上司も、嫌味な顔して私を遠ざけてくる同僚も、ここにはいない。
全てが自分にとって都合がいい世界。こんな世界は幻想に過ぎず存在しないと、全てわかっているはずだ。
わかっているのに。
それでも私はこの海の底に希望を抱いてしまう。
君に会いたくて
会いたい。どうしても君に会いたい。
君は今、どこで何をしているのかな。詳しくそれを知ることは出来ないけれど、君が今も同じ空の下で生きていると思うだけで、私も頑張って生きていけるんだ。
お仕事を頑張っているのかな。今頃ご飯食べてるかな。それともお風呂に入っているかな。
毎日仕事で忙しいのもいいけど、頑張りすぎてしまう君だからたまには家でゆっくりしていてほしいな。
週末にはやっと会えるね。
そのために美容院にも行ったし、ネイルも新しくしたよ。新しい服やコスメを買って、メイクもさらに研究して、前会った時よりももっとかわいい私でいられるように。
君は新しくなった私に気づいてくれるかな。周りの子に浮気したら許さないんだからね。
私がかわいくいられるのは全部、君のおかげなんだから。
今日も生きててくれてありがとう、私の推し様♡
私は小学生の時、私含め三人で交換日記をしていた。
なぜか憧れを持っていた交換日記。やろうと決めてからすぐに皆で文房具屋に行き、お小遣いを出し合いシンプルなノートを買って、私たちの交換日記がスタートした。
誰にも秘密でいようという約束で始めたそれは、自分たちだけで内緒のことを共有しているという感覚がわくわくして、楽しくて、自分の番が回ってくるのを待ち遠しにしていた。
そんなある日、いつまで経っても回ってこないと、一人が言い出した。私は次に渡したし、もう一人に聞いてもわからないと言う。全員自分の家や思い当たる所を探したが、ついにノートは見つからなかった。
それから半年ほど経って、部屋を片付けていたら、前に失くしたと思っていたノートが急に出てきた。一番最近のページを見ると、私が書いた誰にも届いていないページ。
失くしてからもう時間も経っているし、一回は探しても無かったと言った手前、今更告げるのもと思い、生まれた罪悪感と一緒にそっと引き出しの奥にしまった。
あれから何年が経っただろうか。もうすぐ成人するというのに、いまだにあのノートは引き出しの中で眠っている。私の昇華しきれない記憶と罪悪感と共に、今日も日記は閉ざされたままだ。
「うわ、寒いー」
木枯らしが吹き、世の中に冬の訪れを告げる。
「もう秋も終わりだね」
「そうだね、そろそろ本格的に寒くなるんだろうなー」
冬は嫌いだ。冷え性だから体は冷えるし、朝にTシャツ一枚選ぶだけの服装で過ごせない。寒いから温かい飲み物を飲みたいところだが、猫舌なので飲むのが億劫で結局体を冷やしてしまったり。
「そうだ! 冬になるってことは、誕生日にもらったマフラー、やっと使えるね」
「あ、ほんとだ。忘れてた」
「あげた本人が忘れないでよー」
「だってあげたの夏だし」
今年の夏、季節外れなのになぜかやっていた冬物バーゲンで、恋人に似合いそうなマフラーに出会ってしまい、どうしてもプレゼントしたくなったのだ。
「もらってから、ずっと冬が楽しみだったんだ。早く着けたところ見てもらいたくて」
そんな反則級の言葉もしれっと言っているようで、決してこちらと目が合わないのがどうしようもなく愛しい。
「僕も楽しみ。君が僕のあげたマフラーつけてるとこ見るの」
耳まで赤くなってる君の頭をくしゃっとなでて、腕の中に抱きしめると、さっきまでの寒さも感じないようだった。