『空はくを埋めるように』
「最近よく食べてるね、おでん」
「ほーお?」
応えながら頬張る君はいま、自分の猫舌と格闘している。木でできたマイ箸を持ち上げ、コンビニで買ってきたばかりのおでんを公園なんかで食べている。僕はといえば、日課のジョギング中、ぐうぜん出会った君に『なに持ってるの』とビニール袋をゆび差したら『食べる?』と誘われたから、こうしてベンチにふたり、並んでる。いたずらに空へ投げた息はしろくて、本当になんでこんな寒い中食べてるんだろうと思った。
「好物だけ残しといたよ」
「えっ、割り箸とかないの」
「持ってたし、貰わなかった」
ん、と言って木箸と一緒に差し出されるカップのお椀。残ってたのは、
「もち巾着だ」
「あなた、好きじゃなかったっけ。食べてると思い出す」
「よく覚えてたね」
「冬になるとよく食べてたじゃんか、それこそ私よりも」
「そうだったっけ」
「そうだよ」
だからおでん好きになったんだもん。
そう言って、夜を見上げた彼女の吐く息は、僕の吐いたそれよりしろく。おでんを溶かす湯気にも似ていた。
都会のオフィス街を見下ろす高層マンションの一室で、わたし、橘実乃里は軟禁されていた。
事の発端は、残業で帰りが遅くなった夜のこと。エレベーターでたまたま乗り合わせた社長から、今帰りか? と聞かれた。頷くと、夜道の一人歩きは危険だと制され、家まで送ってもらうことになった。住んでいるアパートから会社までは徒歩10分。そんな短い距離で社長の手を煩わせるのは気が引けて、一度は断った。が、自分も帰るところだと食い下がられては口を噤むしかなく。結局ご厚意に甘えることにした。
道すがら、先日行った社員旅行の話に花を咲かせていると10分はあっという間だった。仕事中の営業スマイルとはまた別の、あどけない笑顔は出逢った頃の面影を感じさせる。夜道への警戒心は自然と解かれて、寧ろスキップしたくなるほど楽しい心地で帰ってこられた。最後の角を曲がればアパートが見えてくる。名残惜しくて、ゆっくりになる足音。途切れない会話のなか、指摘されることはなかった。
いざ曲がってみると、何故かアパートの前に人だかりが出来ていた。周囲はいつもと違う雰囲気で、妙に騒がしい。玄関前に見覚えのある女性が立っている。大家さんだった。少し疲れて見える表情に胸の奥がざわつく。いつも気さくで明るい彼女のあんな顔は初めて見た。嫌な予感がして、慌てて声をかける。
「大家さん! 何かあったんですか?」
「あら、今日は遅かったのね。お帰りなさい。でも、ある意味良かったかも……」
深刻な面持ちで口を開いた彼女は、落ち着いて聞いてね、と前置きしてから事情を説明してくれた。なんでも住民の一人が煙草の不始末からボヤ騒ぎを起こし、つい一時間前まで他の住民の避難と消火作業に追われていたそうだ。幸い、早くに消防車が駆け付けたおかげで誰も大事には至らず、被害は事件の部屋とその上下左右の部屋に留められた。火事になった部屋は、わたしの部屋のちょうど真上。夜だからとやけに暗く感じた建物は、よく見れば焦げ跡の残ったアパートだった。わたしの部屋は聞いたとおり被害に遭い、無惨な状態になっている。説明後、大家さんは今後のことを考え頭を抱えているようだった。
説明を聞く間、途中から血の気が引いていくのがわかった。信じられなかったし、信じたくもなかった。ほんの数分前まで社長と楽しく帰っていたのも、今は遠く感じる。野次馬の声すら聞こえなくなるくらい途方に暮れていた。呆然と立つわたしの手から鞄がするりと抜け落ちる。
「……! ……っ!! 橘!」
誰かがわたしを呼んでいる。ハッ、と気付いて声のする方へ振り向くと、隣に居た社長が焦った顔で肩を叩いていた。
「……いくら呼んでも返事しないから、立ったままショック死したかと」
「やだなあ、社長。元気だけがとりえのわたしを舐めないでくださ……、…っ」
強がりを言ったそばから滲んでいく視界。ほた、ほたと涙が溢れる。自然と下がった目線の先、アスファルトに幾つもの黒い染みが出来上がった。これは、ダメだ。よりにもよって人前でこんな。実家から上京してきて僅か数年、そのうえ突然のアクシデントに弱いわたしは、心細さでどうしようもなくなった。嗚咽まで挙げ始めてしまえば、いよいよ大家さんが心配して頭を撫でてくる。ごめんなさい。大人になっても、こんなに涙って、出るんだ。
泣きじゃくるわたしを見て少し考えた後、社長が優しく言葉を紡ぐ。
「僕の家に住むのはどう?」
それからは、とんとん拍子で話が進んでいった。住む場所が決まるまで居ていい、と言われたあの日から拾ってきた子猫同様、わたしを猫かわいがりする社長。会社での凛々しい彼とは別人過ぎて、別室を与えられているにも関わらず帰ってくると少し身構えてしまう。
「何か欲しいものがあればすぐ買ってくるから。遠慮なく言ってね」
初日に言われたこの言葉は、数日経った今でもよく使われる。意外と過保護な面があったんだろうか。必要なものは自分で買いに行こうとするのだが、その度に生活用品だけでなく最低限以上の衣服や靴、装飾品までもが用意される。これ以上貰わないために外出頻度はかなり減った。面倒見が良いのは知っていたが、あまりにもやり過ぎだと思う。申し訳なくなって物を返そうとすると
「昇進祝い、できなかっただろう? そのときの代わりだと思って受け取って」
と、贈り物に釣り合わない言い訳を添えて押し返された。
昇進祝いと聞いて、ふと社長との出会いを思い出す。わたしが新人のとき、彼はまだ社長ではなくもっと身近な直属の上司だった。今のわたしが在るのは彼のおかげ、そう言っても過言じゃないほどよく目をかけてもらっていた。一人で企画を任される頃には、彼は既に社長の肩書きに就いていて、傍で見守ることが出来なくなった後も気にかけてくれていたらしい。わたしの立場が上がるにつれ寂しさと誇らしさの両方を感じていたとか。
「こうやってまた頼りにしてもらえて嬉しいよ」
そんな社長に手を取られ、心から笑いながら大切そうに言われては無碍にできず。こうしてひと月経った今でもずるずると期間は延び、お世話になり続けている。
ちなみに、冒頭で記した『軟禁されている』という言葉は過大表現ではない。上述したとおり、外出禁止と言われたわけではないが頻度が減った理由は彼が原因だし、まず、家を失った翌日から社長の計らいでリモートで働けるよう手配されていた。仕事内容は少し変わり、細かい雑用も含まれた事務業は全てパソコン一つあればこなせる作業のみとなった。正直、とても快適である。オンライン通話で社員との連絡は問題なく取れるし、書類のコピーや来客時のお茶出しを頼まれたりすることも無いからずっと自分の業務に集中できる。
そうして事件から数日が経ち、冷静になれたところで不動産へ向かおうと予定を立てた。すると、決まってその日に限って夕方仕事量が増えたり、社長の秘書見習いみたいなことをさせられたりと、またもや私用ではなかなか出掛けられずにいた。それでも変わった仕事環境のおかげで大体定時には仕事が終わるので、情報サイトを調べて住みたい場所に目星をつけていた。けれど、やはり実際に見に行かなくては分からないことが多く、早々に行き詰まる。住んでいたアパートの修復工事が終わればすぐ戻ることも可能だろうが……まだまだ見通しが立たない。極めつけはわたしが眉間に皺を寄せ、パソコンの画面と睨めっこしていると
「そんなに急がなくてもいいのに」
なんて言って、やんわりシャットダウンされる。
そして現在、気付けばもう一ヶ月。数日で出ていく予定がどうしてこんなことに。
そこでわたしは思い立った。至れり尽くせりのこの生活に慣れてはいけない。今更ではあるが、引越しが決まるまでの間だけでも家事をして恩を返そうと。……というのも社長は仕事のある日、常に帰りが遅い。ひと月置いてもらってわかったが、休日以外まともに家事をする暇が無いのだ。二週間に一度、家事代行サービスを雇っているがそれも時間のあるわたしがすればいい。洗濯・掃除と、それから食事。特に、食事に関しては元々あまり食べない方なのかエネルギー補給ゼリーなどで済ませているのを何度か見かけたことがある。即断即決とばかりに相談したら予想どおり遠慮されたが『世話になりっぱなしは申し訳ないから、させてもらえないなら今すぐここを出ていく』と言ったらなんとか了承してもらえた。
早速作った今日の夕食はサラダとオニオンスープ、それからカルボナーラ。ここに来て初めて食卓を一緒にする。
「こんな食事は久しぶりだ」
「寧ろよく今までなんとかなりましたね……?」
「子供の頃から体だけは丈夫なんだ。健康診断も引っかかったことがない」
「それはすごい」
「でも、そろそろいつ引っかかってもおかしくないからね。どうにかしないとと思ってたし、助かるよ」
「いえ、こんな事くらいしか出来ませんし」
「橘はいつも謙遜するな。僕には真似できないんだからもっと胸を張って」
「社長もやろうと思えばすぐこなせそうです」
「やろうとしないからなあ」
あはは、と軽やかに笑う男性は30歳という若さでその地位についた。32歳になった今でも、彼は気の良い青年の顔を時折見せる。家で見せる顔のほとんどはそれで、会社では威厳を保つためにわざと引き締めているそうだ。こんなあたたかな食事はいつぶりだろう。誰かのために作る喜びを噛み締める。嬉しくなっていつも以上に頬が緩む。今日だけでなく、社長のくれるものは形がある物も無い物もわたしの救いになっていた。こんな調子だから、この少し、いやかなりおかしな状況から本気で逃げ出す気になれないでいる。
「社長。改めて、ここに住まわせていただいて、ありがとうございます。このご恩は生涯忘れません」
「いいって、いいって。僕が誘って橘は受け入れてくれた。それだけだよ」
「何度お礼を言っても足りないんです」
「本当にいいのに。でも、そこまで言ってもらえると前々から頑張った甲斐があるな」
「……? あ、住むために必要な物全部用意してくれましたもんね。素早い対応でさすが社長! って密かに感動してました」
「はは、全然苦じゃなかったよ」
緩く弧を描く穏やかな眼差しは真実を語っているように思えた。安心したわたしはカルボナーラをフォークに巻きつけ、一口頬張る。彼も同じく頬張ると、何度も美味しいと素直な感想をくれるのだった。
窓硝子越しに映った顔に透明の涙が滴り落ちる。外は曇天。次第に雨音は激しくなり、どれが本当のそれかは分からなくなった。
この仕事に勤めてから数百年。未だ顧客が途絶えないのは死んだ者の救いになるからだろう。星の人となった彼らは魂の一部を分け、この機関車の燃料として提供してくれている。今までどんな人生を歩んだかに問わず、平等に役立てる機会が得られるのは一定数の人間にとって需要がある。更に、実際に機関車に乗り御客として旅を楽しむことも出来るのだ。
惑星と惑星の間を行き来しながら自らの一部を燃やして走る機関車からは、蒸気の代わりに星のかけらが舞い上がる。この星のかけらが重要で、夜空を彩る星座に光を与える役割を担っている。元々星座は何億光年も先の星々だ。そのため、光の限界が来ると定期的に星のかけらの輝きを吸収し、作り変わることで形を保っている。
この機関車を走らせる主な理由はこれだ。こちらが私の本来の仕事であり、宇宙旅行はそのついでだ。車窓から見える金粉をまぶしたような細かい煌めきは、命を燃やすだけあって地上ではお目にかかれない程に綺麗なもので。一人二人だけで独占するのは勿体無いと考えた先代のおかげで、こうして名物となった。運転士にとっても、車掌にとっても、御客にとってもやり甲斐のある行事で、中には犠牲になることで輝ける喜びに魅入られ、ぎりぎりまで魂を削ろうとする者も居る。
「……間もなく終点、地球です。お忘れ物の無いようお支度ください。本日も星群エクスプレスをご利用いただき有難うございました」
車掌のアナウンスが聞こえ、終着駅に向けてブレーキ弁を操作する。星の人は再び地球の上で瞬き、数年に一度のこの機会をまた楽しみに待つのだろう。この仕事に携われることを誇りに思う。失われた心臓の位置にそっと手を当て、車両から降りていく彼らを静かに見送るのだった。
#星のかけら
とおく離れた場所から声がする。ここまでおいで。潮の騒めきに光の粒が乱反射し、踊る白波は海風を誘惑しながらきらきら輝いていた。おいで、ここまでおいで。手招くような呼びかけに背を押され一歩、また一歩と砂を踏む。ふと、灼けた浜辺から逃げたくなってセピア色に足跡をつけた。海水を吸った地面はひんやりと冷たく、柔く沈みこむ感触が癖になりそのまましばらく歩いた。
数分後、いつの間にか声は小鳥の囀りに、裸足で踏みしめていた砂浜は伸びた草木に変わっていた。辺りはすっかり森の中で、夏の香りを帯びた薫風が後ろから前へ強く吹いている。若葉を沢山蓄えた木々に見守られ、道なき道を進んでいくと切り株の上で静かに寝息を立てるリスがいた。くるりと巻かれたふさふさの尻尾、焦茶の体毛に埋もれる木の実、殻が欠けているのは食べかけだからだろうか。無防備に眠り続けるリスを見つめ、身近に獰猛な獣がいないとわかるとホッと胸を撫で下ろした。
しかし、ならばここは一体どこなのだろう。木に生っている果物はどれも見たことのないものばかりで、品種改良に長けた植林地帯など聞いたことがない。そもそも元いた場所とは正反対の景色に状況はどうあれ迷子であることを自覚する。……思わず、大きな溜息が溢れた。どっと疲れが出てきて、服に土が付くのも気にせずその場にへたりこむ。肩を落とし項垂れようとした矢先、突如空気が張りつめたのがわかった。即座に顔を上げ目を凝らすと、今度は全てがまっしろになっていた。
空が見えないくらい頭上を覆い被さっていた森林は跡形も無く消え、驚いて吐いた息さえ白く染まる事実に眩暈がして意識が遠のく。が、頬を勢いよく叩き無理矢理引き戻した。じんじんと熱を持つ頬も一瞬で冷めるほどの荒んだ風は冷酷で、もし気絶でもしようものなら躊躇いなく命を奪ってくるだろう。そうなれば生きて帰るどころの話ではない。必死に両手で両腕を擦って熱を集め、このおかしな現状の突破口を探すため硬くなった足を動かす。
まっさらな白銀の大地にはじめてを降ろす喜びよりも、夏の暑さを含んだ白砂の感触が恋しかった。既に脚先は赤裸々に悲鳴を挙げ、紫に変わるのも時間の問題だ。体温が奪われていくのがわかる。感覚が無くなっていくのがわかる。目を瞑ったら終わりだとわかっているのに目蓋が重く降りていく。質量を増した吹雪が襲いかかってきて、途切れた意識の果てに倒れ込んだのはつめたい白牡丹のベッドだった。
……おいで、ここまでおいで。とおく離れた場所から声がする。薄桃色の匂いが鼻先を掠めた拍子に再び目蓋を開くと、眩しく広がる青が飛び込んできた。そして、一陣の花風が前髪を攫っていく。額に触れて落ちた花びらは暖かくやわらかで。眼前に誰かが居たはずもないのにどうしてか顔が熱くなった。火照る頬を誤魔化したくて、膝の上の花弁から晴天の青空へ視線を移す。それから左右を見渡し、野花に囲まれた草原の真ん中で寝転がっていたのだと理解した。どこからが夢で、そしてどこからが現実なのか。声はもう聞こえてこない。土で汚れたはずの服も、草と花弁が点々とくっ付いているだけで。春めく零れ桜をぼうっと眺めながら「春眠暁を覚えず」という諺を思い出していた。
#追い風