となり

Open App

 とおく離れた場所から声がする。ここまでおいで。潮の騒めきに光の粒が乱反射し、踊る白波は海風を誘惑しながらきらきら輝いていた。おいで、ここまでおいで。手招くような呼びかけに背を押され一歩、また一歩と砂を踏む。ふと、灼けた浜辺から逃げたくなってセピア色に足跡をつけた。海水を吸った地面はひんやりと冷たく、柔く沈みこむ感触が癖になりそのまましばらく歩いた。
 数分後、いつの間にか声は小鳥の囀りに、裸足で踏みしめていた砂浜は伸びた草木に変わっていた。辺りはすっかり森の中で、夏の香りを帯びた薫風が後ろから前へ強く吹いている。若葉を沢山蓄えた木々に見守られ、道なき道を進んでいくと切り株の上で静かに寝息を立てるリスがいた。くるりと巻かれたふさふさの尻尾、焦茶の体毛に埋もれる木の実、殻が欠けているのは食べかけだからだろうか。無防備に眠り続けるリスを見つめ、身近に獰猛な獣がいないとわかるとホッと胸を撫で下ろした。
 しかし、ならばここは一体どこなのだろう。木に生っている果物はどれも見たことのないものばかりで、品種改良に長けた植林地帯など聞いたことがない。そもそも元いた場所とは正反対の景色に状況はどうあれ迷子であることを自覚する。……思わず、大きな溜息が溢れた。どっと疲れが出てきて、服に土が付くのも気にせずその場にへたりこむ。肩を落とし項垂れようとした矢先、突如空気が張りつめたのがわかった。即座に顔を上げ目を凝らすと、今度は全てがまっしろになっていた。
 空が見えないくらい頭上を覆い被さっていた森林は跡形も無く消え、驚いて吐いた息さえ白く染まる事実に眩暈がして意識が遠のく。が、頬を勢いよく叩き無理矢理引き戻した。じんじんと熱を持つ頬も一瞬で冷めるほどの荒んだ風は冷酷で、もし気絶でもしようものなら躊躇いなく命を奪ってくるだろう。そうなれば生きて帰るどころの話ではない。必死に両手で両腕を擦って熱を集め、このおかしな現状の突破口を探すため硬くなった足を動かす。
 まっさらな白銀の大地にはじめてを降ろす喜びよりも、夏の暑さを含んだ白砂の感触が恋しかった。既に脚先は赤裸々に悲鳴を挙げ、紫に変わるのも時間の問題だ。体温が奪われていくのがわかる。感覚が無くなっていくのがわかる。目を瞑ったら終わりだとわかっているのに目蓋が重く降りていく。質量を増した吹雪が襲いかかってきて、途切れた意識の果てに倒れ込んだのはつめたい白牡丹のベッドだった。

 ……おいで、ここまでおいで。とおく離れた場所から声がする。薄桃色の匂いが鼻先を掠めた拍子に再び目蓋を開くと、眩しく広がる青が飛び込んできた。そして、一陣の花風が前髪を攫っていく。額に触れて落ちた花びらは暖かくやわらかで。眼前に誰かが居たはずもないのにどうしてか顔が熱くなった。火照る頬を誤魔化したくて、膝の上の花弁から晴天の青空へ視線を移す。それから左右を見渡し、野花に囲まれた草原の真ん中で寝転がっていたのだと理解した。どこからが夢で、そしてどこからが現実なのか。声はもう聞こえてこない。土で汚れたはずの服も、草と花弁が点々とくっ付いているだけで。春めく零れ桜をぼうっと眺めながら「春眠暁を覚えず」という諺を思い出していた。


#追い風

1/7/2025, 5:39:10 PM