『Ray of Hope』
空が見えた。
平和の象徴が三羽、まっすぐにこちらを見下ろしている。感情の読めない黒眼には何が見えているのだろう。およそ平和とは云えない風貌に、いよいよ迎えが来たのかと馬鹿げた考えが頭をよぎった。囲むように建ち並ぶビルは空を突き刺す勢いで鎮座している。重厚感のある佇まいを比較的穏やかにするのは、雲ひとつない大空を背に燦々と照らす太陽だ。ビル窓全体に覆い被さるほどの明るい日差しを浴びせ、真ん中で寝そべる自分を高みから眺めている。光の強さに反して熱さを感じないのが不思議だ。
近くで飛んでいる鳩達も今のところ危害を加えてくる様子はない。しかし、長く続いた沈黙と何かを訴えるような視線には段々恐ろしさを覚え、気付けば重い腕を持ち上げ、変化を求めて手を伸ばしていた。幸い、少し翳す程度で触れられる距離だ。出来るかぎりそっと撫でると羽の部分が、ざり、と音を立てる。──ささやかな違和感。もう一度撫でてみようと手を動かす。すると、突如空気がざわめき、目の前を一瞬で黒い幕が降りた。疑問を口にする暇もなく衝撃と痛みが走って勢いよく飛び起きる。
「痛ッ、て〜〜〜!!」
大声を挙げながら目を覚ますと、そこはいつものアトリエだった。椅子から転げ落ちたらしく、強く打ってしまった腰が痛い。軽く摩りつつ、周囲へ目を向ける。傍にはパレットと絵筆、使いかけの絵の具が散らばっていた。誰もいないアトリエは、窓からふりそそぐ月光だけを頼りに静寂を据えている。その中でぽつんと一つだけ、布の掛かっていないキャンバスがあった。気になって近付くと、先程見たままの光景が絵になっている。
「完成……してる」
三羽の鳩と、高くそびえ立つビル、晴れやかな空が広がる絵は、思い返せば自分が描いたものだった。何日も徹夜で仕上げていたため、完成後すぐ達成感と疲労で力が抜け、そのまま夢に見たんだろう。妙に重く感じた体は睡眠不足のせいだった。生まれたばかりの作品を心から愛でるように、木枠の部分へ手を添えて確かめる。
「よかった。よかった、間に合ったんだ」
喉奥からツンと込み上げてくる感動を押し殺し、心からの安堵を繰り返し言葉にすることでじわじわ実感していく。
明日が期日だった。間に合わなければ、今度こそ絵を描くこと自体辞めようと思っていた。数ヶ月前から丁寧に丁寧に手掛けてきたものが、こうして出来上がってみると現実味は薄くて。それでも、今すぐ駆け出して世界中へ叫びたい気持ちになった。喜びで震える手をなんとか抑え、大切に布を掛ける。まるで最期の瞬間に思えたあの景色は、己の希望を形にした瞬間だったのだ。
クジラすらも歌うシャンパンの海で踊ろう
おろしたてのグラスから覗く黄金の向こう
百万ドルの夜景より煌めく笑顔を見つけた
拙い夕食もふたりならスペシャルディナー
その後はベッドの上で最高のサプライズを
誰にも負けないいちばん特別な愛を贈ろう
ナイトライトの明かりが幸せを照らしたら
橙色に染まる瞳の奥に零れた愛を拭わせて
『タルトタタンの鎮魂歌』
「この前。足音みたいな名前のタルトを初めて食べたけど、あれがかつての失敗から生まれたなんて、信じられない美味しさだったよ。お行儀良く乗った林檎が仲良しの姉妹みたいでさ。ひとつひとつフォークを刺すことすら勿体なかった」
まるで謳うように足音を立てながら、あいつは館の階段を降りてきた。焦げた紅色のフォークを弄び、笑う仕草は悪魔みたいだ。視線が合うと、俺の顔から僅か数センチ横を飛んできたフォークが壁に刺さった。
「帰るぞ」
一言だけ伝え、返事も聞かないうちに踵を返す。
「はーい」
間延びした応答と共に、任務を終えてご機嫌の相方はゆるい足取りで後ろをついてくる。今宵の標的は姉妹だった。はじめに片割れを射抜いたのは俺だが、部屋の奥に逃げ込んだ妹の方はこいつに頼んだ。やけに静かだったが、表情を見るに上手くやったのだろう。外に出て、夜の静寂に紛れて紫煙を燻らせる。
「あ。禁煙期間もう終わったんだ」
「バカ言え、任務後は別だ」
「見苦しいオッサンの言い訳〜」
鬱陶しい野次は右から左へ。先についた火の灯りと、揺れる白が空へと浮かぶ、この光景と最初の一口が至福でなかなかやめられない。
「仕事より煙草に殺されそうだね」
うるさい笑顔を手刀で叩くと間抜けな声が挙がった。
「それで。その美味いタルトの店ってどこだよ」
「聞いてたんだ! 駅前の……」
少し赤くなった額の痛みも一瞬で忘れたんじゃないかってくらい目を輝かせ、聞いて聞いてと尻尾を振る彼は、フォークを持って笑っていた彼とは別人のようだった。甘党同士のスイーツトーク(主に喋っているのはこいつ)は、苦い任務後の帰り道、既にひそかな娯楽となっていて。こちらも暫くはやめられそうにない。
『愛の無い心』
欠落したものはなんですか。取りこぼしたものは大事なものでしたか。いつも苦い顔で笑って頷くハカセ。過去に起こした間違いを忘れないため、毎日問いかけるようプログラムされたワタシ。肝心の答えは聞けないまま、ハカセは昨日から動かなくなった。いつもどおりから、変わってしまった明日へ問いかける。ワタシは、ハカセの大事、なもの、に、……自動停止作業に移ります。この機械は初期化されました。おつかれさまでした。
息をしている。息をしている。あてのない広野に向かい、根強く地に足をつけて、私はいつも息をしているのだ。毎日、心臓が全身に血を送る作業をくだらないと嘲笑うことなどないように。只只、呼吸を繰り返す。
たまに、心臓の代わりにでもなった気でいる他人は、生きているだけだと他人を嘲笑う。生きているだけ、のなんと惨たらしい言いよう。しかし私は敢えて選んでいるのだ。息をすること、生きること、その意味を模索すること、意味なんて無くてよかったこと、全ては自分が決めていいこと。
嘲笑っていた者は、気づいたら遠くの後ろで、息をするのをやめていた。彼の選択に正誤はない。当たり前のむつかしさにぶつかって倒れたんだ。あれはいつかの私のすがた。ありえたかもしれない未来。息をしている。息をしている。私は今日も息をしていく。