都会のオフィス街を見下ろす高層マンションの一室で、わたし、橘実乃里は軟禁されていた。
事の発端は、残業で帰りが遅くなった夜のこと。エレベーターでたまたま乗り合わせた社長から、今帰りか? と聞かれた。頷くと、夜道の一人歩きは危険だと制され、家まで送ってもらうことになった。住んでいるアパートから会社までは徒歩10分。そんな短い距離で社長の手を煩わせるのは気が引けて、一度は断った。が、自分も帰るところだと食い下がられては口を噤むしかなく。結局ご厚意に甘えることにした。
道すがら、先日行った社員旅行の話に花を咲かせていると10分はあっという間だった。仕事中の営業スマイルとはまた別の、あどけない笑顔は出逢った頃の面影を感じさせる。夜道への警戒心は自然と解かれて、寧ろスキップしたくなるほど楽しい心地で帰ってこられた。最後の角を曲がればアパートが見えてくる。名残惜しくて、ゆっくりになる足音。途切れない会話のなか、指摘されることはなかった。
いざ曲がってみると、何故かアパートの前に人だかりが出来ていた。周囲はいつもと違う雰囲気で、妙に騒がしい。玄関前に見覚えのある女性が立っている。大家さんだった。少し疲れて見える表情に胸の奥がざわつく。いつも気さくで明るい彼女のあんな顔は初めて見た。嫌な予感がして、慌てて声をかける。
「大家さん! 何かあったんですか?」
「あら、今日は遅かったのね。お帰りなさい。でも、ある意味良かったかも……」
深刻な面持ちで口を開いた彼女は、落ち着いて聞いてね、と前置きしてから事情を説明してくれた。なんでも住民の一人が煙草の不始末からボヤ騒ぎを起こし、つい一時間前まで他の住民の避難と消火作業に追われていたそうだ。幸い、早くに消防車が駆け付けたおかげで誰も大事には至らず、被害は事件の部屋とその上下左右の部屋に留められた。火事になった部屋は、わたしの部屋のちょうど真上。夜だからとやけに暗く感じた建物は、よく見れば焦げ跡の残ったアパートだった。わたしの部屋は聞いたとおり被害に遭い、無惨な状態になっている。説明後、大家さんは今後のことを考え頭を抱えているようだった。
説明を聞く間、途中から血の気が引いていくのがわかった。信じられなかったし、信じたくもなかった。ほんの数分前まで社長と楽しく帰っていたのも、今は遠く感じる。野次馬の声すら聞こえなくなるくらい途方に暮れていた。呆然と立つわたしの手から鞄がするりと抜け落ちる。
「……! ……っ!! 橘!」
誰かがわたしを呼んでいる。ハッ、と気付いて声のする方へ振り向くと、隣に居た社長が焦った顔で肩を叩いていた。
「……いくら呼んでも返事しないから、立ったままショック死したかと」
「やだなあ、社長。元気だけがとりえのわたしを舐めないでくださ……、…っ」
強がりを言ったそばから滲んでいく視界。ほた、ほたと涙が溢れる。自然と下がった目線の先、アスファルトに幾つもの黒い染みが出来上がった。これは、ダメだ。よりにもよって人前でこんな。実家から上京してきて僅か数年、そのうえ突然のアクシデントに弱いわたしは、心細さでどうしようもなくなった。嗚咽まで挙げ始めてしまえば、いよいよ大家さんが心配して頭を撫でてくる。ごめんなさい。大人になっても、こんなに涙って、出るんだ。
泣きじゃくるわたしを見て少し考えた後、社長が優しく言葉を紡ぐ。
「僕の家に住むのはどう?」
それからは、とんとん拍子で話が進んでいった。住む場所が決まるまで居ていい、と言われたあの日から拾ってきた子猫同様、わたしを猫かわいがりする社長。会社での凛々しい彼とは別人過ぎて、別室を与えられているにも関わらず帰ってくると少し身構えてしまう。
「何か欲しいものがあればすぐ買ってくるから。遠慮なく言ってね」
初日に言われたこの言葉は、数日経った今でもよく使われる。意外と過保護な面があったんだろうか。必要なものは自分で買いに行こうとするのだが、その度に生活用品だけでなく最低限以上の衣服や靴、装飾品までもが用意される。これ以上貰わないために外出頻度はかなり減った。面倒見が良いのは知っていたが、あまりにもやり過ぎだと思う。申し訳なくなって物を返そうとすると
「昇進祝い、できなかっただろう? そのときの代わりだと思って受け取って」
と、贈り物に釣り合わない言い訳を添えて押し返された。
昇進祝いと聞いて、ふと社長との出会いを思い出す。わたしが新人のとき、彼はまだ社長ではなくもっと身近な直属の上司だった。今のわたしが在るのは彼のおかげ、そう言っても過言じゃないほどよく目をかけてもらっていた。一人で企画を任される頃には、彼は既に社長の肩書きに就いていて、傍で見守ることが出来なくなった後も気にかけてくれていたらしい。わたしの立場が上がるにつれ寂しさと誇らしさの両方を感じていたとか。
「こうやってまた頼りにしてもらえて嬉しいよ」
そんな社長に手を取られ、心から笑いながら大切そうに言われては無碍にできず。こうしてひと月経った今でもずるずると期間は延び、お世話になり続けている。
ちなみに、冒頭で記した『軟禁されている』という言葉は過大表現ではない。上述したとおり、外出禁止と言われたわけではないが頻度が減った理由は彼が原因だし、まず、家を失った翌日から社長の計らいでリモートで働けるよう手配されていた。仕事内容は少し変わり、細かい雑用も含まれた事務業は全てパソコン一つあればこなせる作業のみとなった。正直、とても快適である。オンライン通話で社員との連絡は問題なく取れるし、書類のコピーや来客時のお茶出しを頼まれたりすることも無いからずっと自分の業務に集中できる。
そうして事件から数日が経ち、冷静になれたところで不動産へ向かおうと予定を立てた。すると、決まってその日に限って夕方仕事量が増えたり、社長の秘書見習いみたいなことをさせられたりと、またもや私用ではなかなか出掛けられずにいた。それでも変わった仕事環境のおかげで大体定時には仕事が終わるので、情報サイトを調べて住みたい場所に目星をつけていた。けれど、やはり実際に見に行かなくては分からないことが多く、早々に行き詰まる。住んでいたアパートの修復工事が終わればすぐ戻ることも可能だろうが……まだまだ見通しが立たない。極めつけはわたしが眉間に皺を寄せ、パソコンの画面と睨めっこしていると
「そんなに急がなくてもいいのに」
なんて言って、やんわりシャットダウンされる。
そして現在、気付けばもう一ヶ月。数日で出ていく予定がどうしてこんなことに。
そこでわたしは思い立った。至れり尽くせりのこの生活に慣れてはいけない。今更ではあるが、引越しが決まるまでの間だけでも家事をして恩を返そうと。……というのも社長は仕事のある日、常に帰りが遅い。ひと月置いてもらってわかったが、休日以外まともに家事をする暇が無いのだ。二週間に一度、家事代行サービスを雇っているがそれも時間のあるわたしがすればいい。洗濯・掃除と、それから食事。特に、食事に関しては元々あまり食べない方なのかエネルギー補給ゼリーなどで済ませているのを何度か見かけたことがある。即断即決とばかりに相談したら予想どおり遠慮されたが『世話になりっぱなしは申し訳ないから、させてもらえないなら今すぐここを出ていく』と言ったらなんとか了承してもらえた。
早速作った今日の夕食はサラダとオニオンスープ、それからカルボナーラ。ここに来て初めて食卓を一緒にする。
「こんな食事は久しぶりだ」
「寧ろよく今までなんとかなりましたね……?」
「子供の頃から体だけは丈夫なんだ。健康診断も引っかかったことがない」
「それはすごい」
「でも、そろそろいつ引っかかってもおかしくないからね。どうにかしないとと思ってたし、助かるよ」
「いえ、こんな事くらいしか出来ませんし」
「橘はいつも謙遜するな。僕には真似できないんだからもっと胸を張って」
「社長もやろうと思えばすぐこなせそうです」
「やろうとしないからなあ」
あはは、と軽やかに笑う男性は30歳という若さでその地位についた。32歳になった今でも、彼は気の良い青年の顔を時折見せる。家で見せる顔のほとんどはそれで、会社では威厳を保つためにわざと引き締めているそうだ。こんなあたたかな食事はいつぶりだろう。誰かのために作る喜びを噛み締める。嬉しくなっていつも以上に頬が緩む。今日だけでなく、社長のくれるものは形がある物も無い物もわたしの救いになっていた。こんな調子だから、この少し、いやかなりおかしな状況から本気で逃げ出す気になれないでいる。
「社長。改めて、ここに住まわせていただいて、ありがとうございます。このご恩は生涯忘れません」
「いいって、いいって。僕が誘って橘は受け入れてくれた。それだけだよ」
「何度お礼を言っても足りないんです」
「本当にいいのに。でも、そこまで言ってもらえると前々から頑張った甲斐があるな」
「……? あ、住むために必要な物全部用意してくれましたもんね。素早い対応でさすが社長! って密かに感動してました」
「はは、全然苦じゃなかったよ」
緩く弧を描く穏やかな眼差しは真実を語っているように思えた。安心したわたしはカルボナーラをフォークに巻きつけ、一口頬張る。彼も同じく頬張ると、何度も美味しいと素直な感想をくれるのだった。
1/24/2025, 11:15:41 PM