(生き辛い)
作業着を洗濯機に投げ入れながら思った。
「俺こういうの苦手なんで、やってもらえますか?…うわ、さすが!ありがとう!」
先週の金曜日の同僚の言葉を反芻する。
月曜日、残業をしていた自分には聞こえないように小さな声で、金曜日の夜の居酒屋話を同僚達がしているのが聞こえた。
(せんないこと。どうでもいい)
けれど、素直に笑顔にはなれそうもない心持ちになるのは、あいつなら何も言わずにやるだろう、と見下げられている感じがするからだ。
(今日という日が早く終われ)
風呂上がりに買ってきた惣菜を並べて、YouTubeを観ながら、缶のハイボールを流し込む。
休憩時間に喫煙所で電子煙草を吸い、持ち場へ戻る時に、別部署の同期の子と目があったことを思い出す。
(どんな風に見えているのか)
彼女とは久しく喋っていない。
(勘違いなんかしたら痛い目みるぞ)
もう1人の自分が教えてくれる。
カーテンの隙間から、遠く高い、そして明るい月が見えた。
(…別の生き方もあるだろうか…)
月の下には、窓に映る自分の顔があった。
題:鏡の中の自分
「ママ!れん君ち、すごいんだよ!」
「何がすごいの?」
「おやつにね、たくさん果物がのったケーキが出てきたんだけど、れん君のママが自分で作ったんだって!」
「それはすごいね。よかったね」
「それだけじゃないよ!カップの下にお皿をわざわざ置くんだよ!お店以外で見たことないからびっくりした!」
「ふふ、そうね。我が家じゃ出てこないもんね」
「それにね、紅茶を入れたポットを毛糸の帽子でくるんでた!」
「あら、それならきっと我が家でも出来るわよ」
「ママ、でもうちには紅茶が無いよ!」
題;紅茶の香り
その日、小学生だった僕は居残りでドリルをさせられていた。
平成初期は未だ、昭和の風土が残っており現在のようにコンプラなどの意識は皆無だった。
ちょうど今くらいの、11月にもならない10月の終わり、夕日が差し込む教室で、僕は一人「早く帰りたい」と焦っていた。
ドリルを終わらせ、誰も居ない廊下を走り職員室へ向かう。長い廊下は暗く何処までも続くかのように見えた。
先生に確認してもらい、急いで家路を急ぐ。
夕日が沈みかけて、自分自身の影が長く伸びており、その自分の影を追うように運動場を走る。
校庭の出入り口を目指していると、その時、ふっと自分の影の横にもう一つ影が現れ二つ並んだ。
えっ、と思い立ち止まり振り返る。
誰もいない。
ただただ寂しい校舎が、ぼーっと立っていた。
僕は恐ろしくなり、全身の毛を逆立てながら、文字通り一目散に走った。
息を切らして自宅にたどり着く。
仕事帰りの母と玄関で、ちょうど居合わせた。
叱られると覚悟したが、母は「あれ?誰かと一緒じゃなかった?走ってる姿が二人居たように見えたんだけど」と呟いた。
僕はまたもや全身の毛を総毛立たせ、泣きべそをかきながら母にすがりついた。
その後、おばあちゃんが教えてくれたことがある。
夕刻の黄昏れ(たそがれ)時の語源は「たそかれ」と言い、薄暗くて人の見分けがつきにくい時刻のことで、「誰(た)そ彼(かれ) 、あれは誰? の意味だということを。
題;放課後
30代の大台を超えた頃、唐突に、元彼に振られてから一年が経とうとしていた。
友人達の結婚ラッシュが続いていた時だった事もあり、起伏の激しい感情のうねりをなんとか抑えつけて過ごし、そして疲れ果ててしまい、全てどうでもよくなってきた頃だった。
夜中に眠れず、そこまで名の知れていないゲーム配信者の動画をASMR代わりに眺めていた。
それまで淡々と配信していた彼は、急にうつ病を告白する。
ゲーム配信だけでなく、クリエイターとしてテクノやダンスミュージックなどの曲も作って発表していた彼からは想像も出来なかった。
配信や投稿が時折数週間も空いてしまうのは、そういった理由があっての事だった。
それまで、さほど興味を持たずにただ眺めていただけだったのに、自分自身の深く濃い喪失感とまだらでグラデーションがかった自己否定が共鳴する。
頬に入る縦の皺と笑顔が急に切なく見え、彼の作る音が、どんな人も弱い人であり皆一緒なんだと教えてくれた。
朝、いつものように出勤する。
彼の苦悩を知り、彼の前向きな音を聴いていると、いつもの景色の色彩がワントーン上がって見えた。
初めて「推し」の意味を理解する。
見返りは求めず応援したい。こういう感情のことなんだろう。
正直に。
希死念慮は無いけれど、もう生きることに疲れたとは思っていた。
いつの間にか流れる涙の意味も分からず、これ以上頑張れないとも感じていた。
配信者の彼は、写し鏡で教えてくれる。
「元気になろうとしなくていい。そのままの君でいい。ゆっくり歩こう」と。
題:力を込めて
穴の底から見上げる月はとても明るく、綺麗だった。
ある日、可愛いらしい女の子が覗き込み、僕に向かって「何でそこにいるの?」と声を掛けてきた。
僕は考えてみたけど分からなかったので「分からない。生まれた時からここに居るから」と答えた。
「おいでよ」
そう言われて初めて、穴の外を意識した。
月を掴むように、女の子のそばかすを数えるように、上を見上げながら、ゆっくりと穴の壁面に足と手をかけ登る。
目だけ覗かせて見た穴の外の世界は、月明かりに照らされながら、緑と花々が風に揺れとても良い匂いがした。
柔らかな風に包まれながら緑の中に立つ。胸がどきどきする。生まれて初めて感じた感覚に身体がついていかない。何をどうしたら良いのだろう。
その時、女の子の後ろから巨大な黒い影が、何かを僕に向かって撃った。
大きな破裂音と共に、僕の左足をかすめ血が吹き出す。
僕は恐怖で穴の底に飛び降りた。
見上げる。ギラギラと光る目が二つ覗き込んだ。
穴の外はなんて恐ろしい世界だろうか。
僕はここが良い。この穴の底から見上げる月ほど美しいものは無い。
始めから穴の底にいる者は「其処に」安堵を覚える。
題:静寂に包まれた部屋