30代の大台を超えた頃、唐突に、元彼に振られてから一年が経とうとしていた。
友人達の結婚ラッシュが続いていた時だった事もあり、起伏の激しい感情のうねりをなんとか抑えつけて過ごし、そして疲れ果ててしまい、全てどうでもよくなってきた頃だった。
夜中に眠れず、そこまで名の知れていないゲーム配信者の動画をASMR代わりに眺めていた。
それまで淡々と配信していた彼は、急にうつ病を告白する。
ゲーム配信だけでなく、クリエイターとしてテクノやダンスミュージックなどの曲も作って発表していた彼からは想像も出来なかった。
配信や投稿が時折数週間も空いてしまうのは、そういった理由があっての事だった。
それまで、さほど興味を持たずにただ眺めていただけだったのに、自分自身の深く濃い喪失感とまだらでグラデーションがかった自己否定が共鳴する。
頬に入る縦の皺と笑顔が急に切なく見え、彼の作る音が、どんな人も弱い人であり皆一緒なんだと教えてくれた。
朝、いつものように出勤する。
彼の苦悩を知り、彼の前向きな音を聴いていると、いつもの景色の色彩がワントーン上がって見えた。
初めて「推し」の意味を理解する。
見返りは求めず応援したい。こういう感情のことなんだろう。
正直に。
希死念慮は無いけれど、もう生きることに疲れたとは思っていた。
いつの間にか流れる涙の意味も分からず、これ以上頑張れないとも感じていた。
配信者の彼は、写し鏡で教えてくれる。
「元気になろうとしなくていい。そのままの君でいい。ゆっくり歩こう」と。
題:力を込めて
穴の底から見上げる月はとても明るく、綺麗だった。
ある日、可愛いらしい女の子が覗き込み、僕に向かって「何でそこにいるの?」と声を掛けてきた。
僕は考えてみたけど分からなかったので「分からない。生まれた時からここに居るから」と答えた。
「おいでよ」
そう言われて初めて、穴の外を意識した。
月を掴むように、女の子のそばかすを数えるように、上を見上げながら、ゆっくりと穴の壁面に足と手をかけ登る。
目だけ覗かせて見た穴の外の世界は、月明かりに照らされながら、緑と花々が風に揺れとても良い匂いがした。
柔らかな風に包まれながら緑の中に立つ。胸がどきどきする。生まれて初めて感じた感覚に身体がついていかない。何をどうしたら良いのだろう。
その時、女の子の後ろから巨大な黒い影が、何かを僕に向かって撃った。
大きな破裂音と共に、僕の左足をかすめ血が吹き出す。
僕は恐怖で穴の底に飛び降りた。
見上げる。ギラギラと光る目が二つ覗き込んだ。
穴の外はなんて恐ろしい世界だろうか。
僕はここが良い。この穴の底から見上げる月ほど美しいものは無い。
始めから穴の底にいる者は「其処に」安堵を覚える。
題:静寂に包まれた部屋
定年して間もなく夫は重度の肝硬変が悪化し、肺に水が溜まるようになっていた。
夫はお酒を呑まない。「気の毒だが遺伝的なものだろう」と主治医は言っていた。
11月金沢に旅行に行く計画を立てていた矢先に、肝性脳症により意識が混濁、全身浮腫が強くなり入院となった。
身体を拭いてあげている時に、夫の睾丸が子どもの頭くらいに腫れており驚く。痛みは感じていないのか「悪いな」とだけ黄色みを帯びた顔で言った。
「金沢の美味しいお寿司食べたかったね。秋の兼六園も…」
「…ああ」
夫の眼は虚ろのまま宙を彷徨う。
抜き切ることの出来ない水が肺に溜まり末期の症状を迎える。酸素吸入は毎分6リットルを超えた。
主治医にはこれ以上の治療は必要無いことは事前に伝えてあり、とにかく楽にしてあげてほしいと伝えていた。
夫は無意識に酸素マスクを外そうとしてしまう為、手にはマグネットの拘束具を装着された。
麻薬性鎮痛薬を点滴によりゆっくりと流し入れる。
一瞬はっきりとした眼差しで「これは外せないのか」腕を見て言った。
私は出来るだけ冷静に「疲れたでしょ。ゆっくり眠って。眠ったら外してあげる」
「…そうか…」
夫は悟ったように、その後穏やかに眠り始めた。
私は、二度と握り返される事の無い手を握り続けた。
題:秋恋
「あの人、禿げてるし担当してもらいたくない」
40代半ばの女性上司は言った。
「禿げている事は関係ないのでは?」
つい余計なことを私は言ってしまう。
「私ルッキズムだから。見た目至上主義なの」
上司はルッキズムという言葉を、鼻高々に言った。
「…そうですか。そういう考えもありますね」
諦観と言葉を同時に飲み込む。
上司は確かに美容にとても力とお金をかけており、その労力は賞賛するものがある。「綺麗でいたい」と思うことは素晴らしいと私も思う。
けれど、それが本人の力ではどうしようもない部分で、その人を判断する指標となってしまうことには同意出来なかった。
髪の毛が無いくらいでそう思うなら、きっと上司は五体満足でない人間や何かしら欠如している人間に対してもそう思うのだろう。
私からすれば。
「あなたにかけているのは想像力です」
こういった時、言葉にならない言葉を、たくさんの花びらにして撒き散らす想像をする。
私の汚い感情と言葉も綺麗な物に変わってほしい。
毎日そう願っている。
題:花畑
今、私は迷子だ。だけど怖くはない。迷子になりたくてなっている。暗闇の中、一人でいたい。強くそう思う。
命は「砂時計」のようなもので。
いつの間にか、さらさらと流れ落ちていくもののように感じている。
「燃え尽きる」という表現は、燃料の量や質がその人のパーソナリティによって変化するようなイメージなので、頑張った、とか苦労した、とかそういったものの影響を受けているように感じてしまう。
命は「平等」に、皆、理不尽に不平等だと思う。
どんな入れ物の砂時計も、様々な形の砂も、落ちゆくまでの障害も、最終的には同じ。
砂はあっという間に流れ落ち、時計は止まる。
砂ぞこが見えそうになった今。
私は、光や道を見たく無い。
ただただ彷徨う、迷子のままでいたい。
題:命が燃え尽きるまで