-ゆずぽんず-

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2/24/2023, 2:21:12 AM

私の家族の中には絆や団結力など、血が繋がっている家族が持っているはずのものはなかった。幼い頃から、暴力で物事を解決する長男に殴られて育った。父親のいない家族の中では長子の姉がその役目を担うしかなく、姉は様々な重荷を背負っていた。次男の兄はマイペースだが感情的で、いつも拗ねたり喚いたりやしていた。そんな兄弟を見ていた私は、活発で人になつきやすく好奇心旺盛だがそれでいて至極冷静だった。末子の妹は、幼い頃は甘えん坊だったが男勝りで我の強い内弁慶娘になった。母はというと、若い頃にレディースでやんちゃをしていたりしていたこともあって何かあると怒鳴りあげるような性格だった。叱ることの出来ない親で、感情むき出しで怒鳴り散らしていた。もちろん、普段は優しい。父がいないのは、私が3歳の頃に亡くなったからだ。地元の極道の組員だった父は、カタギに戻ったあとも家族を大事にはしなかった。酒ばかり飲んで、金が尽きれば家のものを質に入れてはまた酒を買った。姉が大切にしていた陶器の貯金箱を壊して、その金でパチンコや競馬にも使った。到底、父とは呼べないような人間だった。それどころか人間としての品格を疑うような、自分勝手でだらしない人間だった。
そんな父は、長男だけはとても可愛がった。だから私たち兄弟には、父との親子らしい思い出などひとつもない。私には1度だけ肩車をしてもらった記憶があるが、あれはきっと気まぐれだったのだろう。家族は誰も父のことを良くは思わない。そして、一人だけ父に大切にされていた長男を家族皆が嫌った。私は人懐こい性格だったため、幼い頃から兄や兄の友達と毎日のように遊んでいた。その中には実の姉のように慕っていた、また実の弟のように可愛がってくれていた人もいた。その人が引っ越して行くことを知った時はとてもショックを受けたが、そんな私を長男は様々な遊びで慰めてくれた。もちろん、兄弟いつも仲良いわけが無く兄と喧嘩した時は殴られたひもした。私も包丁を持ち出して殺してやると暴れたりもした。とはいえ、やはり基本的には長男とは仲良くしていた。
私以外の家族から冷たくあしらわれていた長男は、いつしか非行に走るようになった。否、自分の存在を暴力や危険行為や迷惑行為という形で示したかっただけなのだろう。そうする他、自分自身を見てくれることがないと考えたのだろう。長男は小学生四年生の頃には、授業中に抜け出して学校内で遊び回っていた。学校中で長男のことが噂になり、危険だから関わらないようにしようといった雰囲気が流れていた。ただ、私には心強かった。悪口を言われたり、叩かれたりした時は兄に相談すればすぐに解決した。兄が相手を半殺しにするからだ。もちろん、私はそれが嬉しかったし間違っているとは思わなかった。兄は腫れ物扱いをされるが、私にはヒーローだった。私自身はクラスの中では弟のような立場だったので、普段はみんなから可愛がって貰っていた。
兄成長するにつれて、その行動が派手になっていった。しかし、成長するにつれて兄弟に手を挙げることはなくなった。しかし、小遣いを強請っては煩いと一蹴されては暴れていた。私の家族には、お小遣いなんて贅沢なものはなかった。友達はみんないつも財布をもっていたが、私たちにはそれがなかった。だから、長男の気持ちはよく分かっていた。中学に上がった長男は、女子に暴力を振るったり暴れ回っていたりして生徒指導の先生にボコボコにされることがよくあった。こう書くと、生活指導の先生が暴力野郎のように思うかもしれないが私たちには父のような存在だった。よく家に来ては、お菓子やケーキをくれたり相談に乗ってくれていたからだ。まだ小学生の私にも、中学に来たらよろしく頼むと笑顔を見せてくれていた。
中学を卒業した兄は、高校に通っていたが中退。バイトをしていたがこれも直ぐに辞めてしまった。どこでどのように知り合ったのか、暴走族のメンバーや暴力団に関係のある人間と遊ぶようになっていた。私もよく学校をサボって一緒にカラオケに行ったり、家で遊んだりしていた。皆優しくあたたかかった。きっと長男にとって家族から貰えない温もりや一体感を、彼らといることで得ていたのだろう。母や兄弟は長男のこの行動をよく思わなかった。不良とつるむな! と怒鳴っては長男の話など聞かず、気持ちも考えないで突き放していた。私はこの時には長男の孤独が痛いほどよくわかっていた。長男の抱える寂しさや、心の苦しみ。どれだけ叫んでも誰も耳を傾けてはくれないことへの絶望や苛立ちは、行動や言動を目にすれば明らかだった。不良グループとか変わっていれば、トラブルは付き物だ。リーダーの女に手を出しただのと因縁をつけられて、夜の海浜公園でリンチにされて肋骨を骨折した兄がボロボロで帰ってきた。翌日に病院へ連れていったのだが、その日のうちにいつも遊んでいる不良メンバーが家に来て土下座をして謝罪をしてきた。勘違いだったこと、リンチをして申し訳なく思っていること。今後も遊ばせて欲しいということを謝罪とともに懇願していた。母はこれを拒絶。長男のためではなく、純粋に不良が嫌いだからだ。顔を見せるな!二度と近づくな! と追い出したが、それ以降も長男は彼らと遊んでいたし私も仲良くしていた。
隣町の警察署から家に電話が入ったのは、しばらくしての事だった。物を盗んで通報するで駆けつけた警察から逃げるために、たまたま鍵が着いたままの原付を盗んだのだという。原付は使われていない田んぼに捨てられていたそうだ。家庭裁判所は鑑別所での指導が妥当と判断し、兄は家を去った。家族は皆、兄がいなくなって清々したと口々に胸をなでおろしていた。私にはそれが悲しかった。だから、面会には行かないが手紙は書いたし出所が決まればパーティの用意もした。家に帰ってきた長男は涙を流してありがとうと抱きしめてくれた。保護観察処分もついたので、長男と共に保護士の住職の元へ通った。坐禅をして読経を聞いて、お茶菓子を頂きながら説法を聞いた。こうして兄も穏やかになって行ったが、家族が何も変わらなければ問題は解決しない。結局、家族の態度が長男を硬化させた。
1年後の冬だった。日の出を見てくると言って家を出た長男は、帰ってこなかった。二ヶ月後に朝刊を手にした祖母が家を訪ねてきて、記事の内容を指さした。名前こそ書いては無いものの、長男ではないかと言う。まさかと思っていると、後日警察署から長男を逮捕したと連絡を受けた。拉致誘拐、監禁、暴行、恐喝や強盗で逮捕されたのだという。そして、兄と共に逮捕されたのは私もよく遊んでいたメンバーだった。少年院に送られた兄へ、欠かさず手紙を書いてその日あったことを話し合った。面会には行かなかった。私とは温度差のある家族と面会に行くのが嫌だった。外面のいい家族が嫌いだった。所内でてんかんを発症した長男は医療少年院へ移され、その半年後に家に帰ってきた。帰ってきた兄はグループホームにお世話になるようになって、そこでできた友達のことを楽しく話すようになった。それが嬉しくてたまらなかった。
その後に私は仙台に渡ったので、長男の状況が分からなかった。しかし、3年後に兄から連絡が来た。母から連絡先を教えてもらったと喜んでいた。帰ってきたら遊ぼうと、一緒に酒を飲もうと話した。そして、私は確認をしてみたこれまでの行動やその真意について。やはり、孤独から逃れるためだと言っていた。私がいつも変わらず接していたから、それがいつもいつも嬉しかった。救いだったと言ってくれた。

宮城から帰ってきて何度か顔を合わせたが長男が来る時はいつも出勤前で時間が無く二言三言しか話せなかった。グループホームで知り合った奥さんと、その連れ子を連れてきていた長男は幸せそうだった。だが、母は一方的に縁を切った。疎遠になってしまった長男が、どこでどう暮らしているのか分からない。分からないが、私が彼を想う気持ちはずっと変わらない。

きっと、また私だけでも縁を取り戻して一緒に酒を呑んだり釣りに出かけたりするんだ。


2/23/2023, 6:26:55 AM

仙台で初めて自分で借りて住んだ部屋は、毎日昼夜問わずラップ音なのか音が鳴り響いていた。壁や天井や床が鳴るなら家鳴りで片付けられたが、カーテンレールから音が鳴ったり窓が大きな音を立てたりとおかしなことが続いていた。
照り返しの厳しいむすような暑さに心身ともに疲弊していた夏の日、仕事が早く片付いたので近所のスーパーで酒と夕飯の材料を買い込んで帰宅。駐車場に車を停めて、共用階段を登り左に折れた廊下を月あたりまで進むと私の部屋だ。鍵を開けて部屋に入るとサウナのように暑苦しい空気が立ち込めているが、二階の角部屋でそれも西に面していることがそれを助長していた。手を洗い、リビング奥のガラスの引き戸を引くとカーテンが揺れていた。窓は閉めておりエアコンもプラグを抜いている。引き戸の為、開け閉めしたところで空気の流れは生じない。この時はきっと外から帰ってきて扉を開け閉めしたことで、空気が動いてカーテンを揺らしたのだと考えた。後日、リビングの引き戸を全開にしたまま仕事に出かけた。帰宅して鍵を開けて扉を開き、引き戸の先に垂れるカーテンが目に入る。揺れていない。試しに玄関扉を開け閉めしてみるが、カーテンは揺れるどころか少しもなびくことは無かった。気持ちの悪さを感じながらも特に気にすることなく過ごしていると、やはりたまに揺れるカーテンを目にする。そして、カーテンレールは誰かに強く叩かれたように音を鳴らす。窓ガラスは小石が当たっているかのような高い音を鳴らし、床は人の歩くような音を鳴らしている。下階の同僚からは自室が変だと呼び出され、駆けつけてみれば意味不明な現象を目の当たりにした。社長と打ち合わせの為、恋人を残して部屋を後にすれば帰宅して目にするのは怯える恋人。私の居ない部屋で、シャワーがひとりでに勢いよく流れだし私の歌声が聞こえると訴える。恋人と電話をしていると、恋人が部屋に持ち込んだヘアアイロンの箱が大きな音を立てて弾き飛んだこともある。人が蹴り飛ばしたような凹みまで出来ていた。
私には幼い頃から人と違うことがあった。それは他の人には見えないものが見えるということだが、幼い頃というのは私には当たり前に自然と見えるものだったので特別意識をしたことは無かった。しかし兄弟に指摘されたことで、他の人には見えないものを見ているのだと知った。成長するにつれて見える頻度や度合いは随分と減ったが、いまでも聞こえたり感じたり頭の中のスクリーンに目には見えないものを見たりすることはある。例えば、兄を助手席に乗せて仕事帰りの帰路を運転していると先の横断歩道を人が歩いているのが見えて還俗をする。すると助手席の兄は何事かと疑問を口にする。歩行者が歩いていたことを伝えると、そもそも周囲に人はいなかったという。おかしいなと考えてみれば、そうか確かに人はいなかったのだ。横断歩道を渡る黒い影のような足しか見えていなかったと思い出す。仕事帰り、夕方も日が沈みかけて暗がりが広がる頃。同じく兄を助手席に乗せて運転をしていると、少し先に煙とも霧とも違う白いモヤが立ち込めていた。速度を落としながらそのモヤの中を進むが、視界が悪い。時間にしてみればほんの数秒だがとても長く感じる。白い空間を抜けて兄にあれはなんだったのかと訊くが、やはり何も無かったという。この体験は過去にもあった。あれは夏も終わりが近づき、夕方から少しずつ過ごしやすい気温になってきた頃だった。件のアパート下階に住む同僚と稲川淳二の怪談ナイトを楽しんだあとの事。仙台で怪談ナイトで涼しくなった後、南相馬に向けて車を走らせていた。南相馬市に入ろうかという辺り、暗闇に包まれた34号線を走っていると100メートル程先の右手に民家が見えた。夜遅いがお風呂を沸かしているのだろうか、家の横手に見える煙突から白い煙が上がっていた。更に湯気なのか煙なのか、家周辺も真っ白い空間が拡がっていた。やけに白いし濃いなと同僚に話しかけてもなんの反応もしない。減速して徐行を始めるが、白いものはずっと広がっているようでなかなか抜け出せない。二十秒ほど徐行しただろうか、後ろから接近していたのであろう車が横をエンジンを唸らせながら走り去る。気がつけば白いものは消えていた。ミラーで後ろを見ても、さっきまで拡がっていた白いそれは忽然と消えていた。同僚に先程のものはなんだったのだろうと尋ねてみるが、そんなものはなかった。私がひとりで変なことを言っているから独り言だと思って無視していたという。今起きていたことを説明すると、気味が悪いから今は忘れようという。この同僚も私と同じく感受性が高いのか人に見えないものを見たりすることがある。そんなふたりでいながら、私には見えて同僚には見えなかったのだから尚更に気味が悪い話だ。次の週末に南相馬での仕事を終えて仙台に向かう際に、あの時に体験したあれはなんだったのか。そこに何があるのか帰りがてら確認をしてみようと二人で話しながら車を走らせていると、二人の記憶通りの場所に到着したが肝心の民家がなかった。民家があったはずの場所は木々が生い茂る林だった。こうなると更に訳が分からないが、謎は深まるばかりで考えるだけ無駄だった。なぜこの二件とも同乗者には見えていなかったのか、そもそもあれはなんだったのか分からない。
仕事場でパチンコやスロットが大好きな職人さんと話をしていると、勝っただの負けただのと毎日一喜一憂しては私に話をしてくれる。そんなある時、いつものように話を聞いていると知らないパチンコ店が頭の中に浮かんだ。そのパチンコ店の場所がどこか分からないが、大手であることは名前で分かった。気になりながらも職人さんの話を聞いていると、今度は入店して行く様子や職人さんがいつも遊んでいるスロット台の椅子に座る様子が主観で見えてきた。気になって訊いてみれば、まさにその店のその席であっていると言っては何故分かるのかとはしゃいでいた。分からないが今見えたのだと言えば、幽霊やらオカルトなんぞは信じないが、目の前でこんなことがあると信じられると目を輝かせている。最近は負けてばかりと話を聞いていたからか、買って欲しいと思っている自分がいたからなのか分からないが続きが見えてきた。それは、どこの何という台で何回転まで遊んでその後にどこの何という台で遊べば当たるというものだ。私自身、俄には信じられないが見えたことをそのまま伝えてみる。疑いもせず、こんなことがあった後だからと喜んでいた。
翌朝、現場で顔を合わせた彼は透視能力ってのは本当にあるんだなと興奮していた。私の言った通りに動いてみれば、その通りの台で回転数で当たったという。それも二十万円ほど勝てた、負けを取り返したと喜んでいた。この話というのは、実はこの不思議な予知能力なのか透視能力なのか分からないが、これが出来なくなるというオチがある。理由は単純なもので、私が欲をかいたからだ。私が言った通りのことをして勝ったなら私にもお小遣いをと欲張ったことから、パタリと見えなくなってしまった。しかし、その後に二度ほど透視のような事を体験したことがある。アプリで青森の方と知り合い、夜な夜な通話をしていた。青森に住んでいる同い年という事しか知らなかったが、その日は色んなことを知ることになった。いつものように通話をしていると、古い民家が見えてきたのだ。二階建ての入母屋造の母屋と、母屋と繋がっている木造のガレージ。恐らく元々は納屋だったのだろうことは、様子を見て分かった。通話をしながらもイメージの中で動いてみると、ガレージの中にあるガラス戸から家の中に入ることが出来た。ガラス戸を入ってすぐ右手に廊下が伸びており、その廊下を歩くと左手に十二畳程の広い和室。その和室に入ると左手に真っ直ぐ二階へ伸びる階段があった。階段を登り切ったところで突き当たりを右に曲がると、扉ではなくカーテンが入口に掛かっていた。カーテンを開けると、通話をしている相手と、何かのキャラクターが散りばめられた黄色いカーテンが見えた。和室のその部屋には大きな布団が一枚敷かれており、黒い猫と白い猫が一匹ずつ寝転んでいた。
今見えたものを話してみると、間違いなく今住んでいる実家だという。不思議なことがあるもんだと驚いていたが、私がそういうものに感が働くと知ったのだろうか相談を持ちかけてきた。聞くと、黄色いカーテンで隠している窓の外にいつも決まった時間に人影が現れるという。何かわからないか、若しくは対処法はないかという。私は感が働くが、所謂霊能者や霊媒師とは違うので適当なことは言えないと断ったが、今も頭の中で見える状況から察するにただの通りすがりの魂だろうと伝えておいた。というのは、窓の外に霊道が走っていたからだ。

私は見えたり聞こえたり感じたりするが、相談した霊能者の先生によればとにかく連れてきやすい体質だという。いつどこで憑依されてもおかしくないのに、一人しか憑依していないのは守護している存在が龍神様であるからだと言う。そして、この龍神様は白龍様でとても慈悲と慈愛に満ちた存在なのだそうだ。一人憑依しているのは、白龍様が引き込んだからだと。自ら命を絶ってしまった後悔や口惜しさ、寂しさや苦しみに苛まれていたところに私が通りかかったので取り憑いたのだそうだ。私についていけば、浄化されて天国に上がれるからという理由で悪さをする気は全くないことから守護に阻まれなかったという。今まで、夜に誰もいないのに耳元で名前を呼ばれたり話しかけられたりしたのも私に取り憑こうとしたものが寄ってきていたからだという。

霊能者に言わせてみれば、私は太陽のような存在なのだそうだ。私の傍にいれば次第に浄化されていくのだという。暖かくてとても穏やかな温もりと優しさを感じるのだという。白龍様の力もあるそうだが、私のエネルギーの強さが白龍様の姿や力を強くしているそうで合わせてまさに拠り所なのだという。加えて私のお人好しというのか、優しすぎる性格故に私を頼ってきてしまうのだという。私に取り憑いた女性の霊もただ浄化されたいだけで、なにか影響を与えるつもりはなくそっとしておけばいいとの事。しかし、いま彼女の気配はどこにもない。彼女の気配があった時は、定期的に陰湿な夢を見ていたがパタリとみていない。いや、それが昨年末頃に夢で見た。いつも夢の中で見ていた建物は真夜中なのだろうかあかりもなく真っ暗で、カビ臭く湿気が酷くジメジメしており床も軋んでいた。それが、昨年末に見た夢では明るくて暖かい空間に変わっていた。サンルームから見える庭には手入れが行き届いていないのか花や雑草が繁茂しており、雲ひとつない空からは暖かな日差しが差し込んでいた。夢の中でいつも見てきた為、一階も二階も間取りは覚えていた。私は明るく不気味さなどなくなったこの家をひたすら探索していたが突然誰かに呼びかけられたような気がして目が覚めた。私は、あの日から私に取り憑いていた彼女が天国に旅立っていったのだと感じている。どうか安らかに眠って欲しい。

2/20/2023, 12:01:27 PM

どうしようもなく傷ついたり、些細なことで塞ぎ込んだりしたことは誰でも一度や二度あるのではないだろうか。自身に向けられた悪意や、挫折や躓きから気持ちが下向いてしまう。そして、そこに追い打ちをかけるように辛いことが重なり心を苦しめる。私の人生はまさにそうであった。しかし私の周囲には相談を出来る人というのがなかなかいなかったが為に、自分の力だけで乗り越えることしか出来なかった。乗り越えられたのだからいいのだろうが、人の真っ直ぐな善意や協力でもって共に乗り越えてみたかったのだ。気持ちによりそう人間すらいなかったのだから、私の人生とは実に情けのないものだとしみじみと感じる。
友人や知人が方を落とし、目を伏せている時というのはどうしたものかと自分も気持ちが落ち込んでしまう。なんと声をかけると良いのか、なんと励ませば良いのかまるで分からない時がある。もちろん、簡単に声をかけることは誰でも出来るだろうし、今までもそうしているだろう。私もそうだ。しかし、相手が真っ直ぐ気持ちや想いを伝えてくれればいいのだがそうもいかないといというのはあれものだ。相手が深く塞ぎ込んで閉まっているときや、心を抉られるように傷ついているとき。紛らわせることの出来ない苦しみや悲しみに苛まれているとき。なんと言葉にして良いのか分からないあ程に追い詰められているとき。そんな状況では、どれだけ親しい仲であろうと解決することは実に難儀な事だろう。かと言え、何も声をかけない訳にもいかない。これが恋人同士であれば、こうしたことから喧嘩に発展することもあるだろう。なぜ声をかけてくれなかったのか、心配もしてくれないのかなどと責め立てられてしまうこともあるだろう。誰も見な人間だ、そうした時冷静に話し合える人というのはなかなかいない。人というのはむき出しの感情に敏感に反応するからである。そして、恥ずかしながら私もその一人だ。故に、普段は心を無にするように心がけているが、いやなに簡単なことではない。未熟な人間なもので、ついと反応してしまうのだ。
人というのは我儘なもので、放って置かれるとそれはそれで腹が立つが干渉されることも嫌う。人には適度な距離感であるパーソナルスペースがあるように心のパーソナルスペースも存在する。そしてその上で適度な接点というのがある。人の気持ちというのもここに触れるか触れないかというのが実はとても重要で、たとえどのような言葉や気持ちもこの距離のどこからかけられるかで大きく変わってくるものだと考える。人それぞれに心地の良い距離感というのが物理的にも、精神的にも存在している。その距離の遠いところからかけられる言葉というのはまるで響きもしないが、触れられたくないというギリギリのところからかける言葉や伝えた想いはズシンと響く。簡単に言えば人は欲張りなのだ。もちろん、これは本人の無意識の中でのことで、責めるというのは間違いであることは言うまでもない。
例え仲の良い気心知れた人間から情を寄せられようが、見ず知らずの人間から情を寄せられようが人というのはその一時というのはか心が動く。嬉しくなったり、憤慨したりする。自身の情緒を察して、或いは気持ちを汲んで同じ思いで寄り添おうとしてくれる人間は少ないよりは多い方がいい。というのは、誰も見向きもしないよりは一人でも多い方な気持ちの面では有意義だからだ。もちろん、意に反する言葉もあるだろうがこれはとても大事な事だ。いちいち余計なところへ気持ちを向けることができるからである。いつまでも一点に集中し続けると上手くいかなくなるのは、何事も共通している。しかしながら人というのは寄り添われるとありがたくも感じるが、ときに疎ましくも感じるもの。自身の情緒に同調し寄り添おうとされると、それが意にそぐわないということもある。つまりどっちつかずで我儘で勝手なのだ。いやなに、それは何も悪いことではない。大事なのはそういった人間の単純さと面倒な所を意識していけことだ。その上で上手く付き合うことに他ならない。

恋人が機嫌を悪くしている時、なんと声をかけたらいいのだろうと悩んだことはあるのではなかろうか。なぜ機嫌が悪いのだろう、具合が優れないのだろう。これは考えても仕方の無いことだ。何故ならば、恋人であれ家族であれ所詮は他人で、一人の人間なのだ。では、できることはなにか。 簡単な話だ。聞けばいい。まずは聞くのだ。それが自信に向けられた文句や恨み節でもまずは耳を傾け、相手の心情に寄り添うのだ。その上で、自分自身の感情や勝手な気持ちは置いておいて相手の立場になって客観的に考えてみる。そうすることで、なかなか見えないものがみえてくるものだ。


簡単に言えば、人というのは同情されることに良くも悪くも敏感だ。それでいて無関心を貫かれるとへそを曲げるのだ。上手く付き合うには無責任な干渉を避け、寄り添うこと。場合によっては突き放すということがとても大切だ。


私の人生、周囲に情を分かった人は余りいないが
いつもどんな時も寄るも離れるも上手く付き合いをしてくれた大人たちがいた。今思えば、これは彼らなりの同情故の行動だったのだろう。

2/18/2023, 3:59:04 AM

生活している中で好きな物や嫌いなもの、大切にしていきたいものや大して興味のないものなど様々だ。楽器演奏者であれば楽器や、それこそマウスピースやチューナーのようなものまで拘りを持つ。スポーツ選手であればシューズやサポーター、インナーや道具。歌手や配信者はマイクや素材、イラストや世界観。色んな人がそれぞれに熱い思いをかけるが、仕事や趣味にとどまらず生活の一部のなんてことの無いものにまでこだわりを見せるひともいる。そして、その中には単に好き嫌いというものがあるのではない。特別な思いがあって、一際大切にしているものがある。これはなにも物理的なものばかりではなく、思想や理想、思考や気持ちの面も含まれる。
私は私を構成するこの人格その物が尊くてならないが、俗に言うナルシストでは無いことは先に述べておく。しかし、ナルシストを否定する意味でもないということも併せて伝えたい。というのは自分自身を大切にして愛してあげられるのは、やはり他の誰でもなく何者でもなく自分自身であるからである。自分の容姿や外見など客観的なものよりも、自分だけの考え方や想いというのが何よりも重要で尊く、大切に持っていなければならない。生きてきた中で経験しできたことに基づいて形成されてきたものは、性格や考え方といった深層心理からなるものだけでない。人と接する上で他人に向けるもの全てが、それまでに培い共にしてきた自分そのものである。いやいや繕っているだけだと、理想の自分を演じているだけだと考える者もいるだろう。周囲に合わせて生み出した虚構に過ぎず、素の自分は無様なものだと言う者もいるだろう。しかし、その虚構さえ身につけてきたカムフラージュの能力だ。周囲に合わせることができる協調性や共感性。その適応能力をなぜ自分自身が否定するのだろう、拒絶するのだろう。寧ろ胸を張って誇っていいものだと私は考えているが、それは私自身がそう感じてきたからである。素敵な人だとか穏やかで優しくて誠実な人だとか評価されてきたが、そのどれもは外面でしかなく外向きに作り上げた理想の自分だ。しかし、ある時にふと気がついた。その姿さえも作り出せるということは、本島はそういう人間なのだと。振る舞えるということは、知っているということ二他ならない。知らないことを知っているように装ったところで、いつか綻びが見え始めるだろう。他人から見れば滑稽に映るだろう。なぜなら、人は自身の経験のないことを語り演じる時というのは大きさに関わらず穴が目立つのだ。つまり、その穴を作らず自然体で自分を演じられるということは既に自分が理想の自分になっているということである。あんな風になりたい、こんな風になりたい。あの人みたいになりたい、あの人のように思われたい。様々な思いの中で理想とする自分の像を作り上げていくが、そこに至るまでの強い思いがある。これは誰にも真似できることではなく、その人の力でその人だけのものなのである。
簡単に言えば、なりたいと思った姿というのは気がつけばもう手にしている。本人が気がついていないだけで、いつまでも自分を過小評価して卑下しているに過ぎない。自分というのはなかなか客観的に捉えることは出来ない為、至極当然と言えるが何も知らないのと知ろうとしないのでは大きな違いがある。今こそ自分を客観視してみようということだ。では、そんなことどうやればいいのかと。できるならとっくにやっていると憤慨することなかれ、案外簡単にできるものだ。振り返ること、思い出すことでもできる。学生であれば友人との会話など日常の些細なことを思い出して、最初は漠然と俯瞰していく中でゆっくりとフォーカスしていく。どの様な状況でどの様な会話をして、相手はどの様な反応を見せたのか丁寧に見つめていく。イメージは何となく分かるけど、そんなことではいまいち掴みどころがない。便利な時代になったものである。スマホで通話をする時に録音をしてみると驚く程に、自分というものを客観的に見てとることが出来る。
歌手や演者、実況者や解説者。様々な媒体で活躍する配信者などは自身の声や話し方などを熟知しており、それを熟知して最大の魅力として武器にしている。そして聴き手の求めるものを探究し、追求してさらに磨きをかける。エゴサーチをしてどう見られているのか、どう感じているのか何を求められているのか。何を拒絶され否定されているのかを、時には心無い言葉で心を抉られながらも試行錯誤して成長している。表舞台に立てる人はそうかもしれないが、目立たず生活している自分に同じようなこと
できるわけが無い。そういうひとは、友人や知人に自分のことを包み隠さず 評価して欲しいと言ってみると有意義な答えが返って来るかもしれない。但し、どのようなことを言われても務めて冷静に受け止めるつもり出いなければならない。人に評価を仰ぐということは、自分にとって都合の良い返答を求めることではない。人から見て改善して欲しいなと思えるのだと伝えられたなら、これ好機とみて自己研鑽に邁進すればいい。何くそと反骨精神でもって、自分を変えることに必死になってもいい。いずれにせよ、自分の勝ちに直結するのだから。但し、そうか分かったと不貞腐れて下を向いてはならない。その時点で、それがその人の全てということだ。


私は、この考え方が割と好きでいる。この考え方や捉え方で人に大切にされてきたからだ。もちろん、私も精一杯の気持ちで接してきたからこそだとも自負している。


そう、私は私自身がお気に入りなんだ。

2/16/2023, 2:42:33 AM

小学生の頃に学校の授業のなかで、10年後の自分に届くハガキを書いた。慣れの大仏様のもと保管され、大人になった自分へ届くと言ったものなのだ。しかし、いざ届いてみると何の気持ちも湧いてこなかった。それはきっと実感というものが、その時分の私にはなかったからだろう。その当時というのは、先の記事でも触れているが元々は反社の人間だった主要メンバーが営業をしていた会社に勤めていた。毎日怒鳴られ殴られ蹴られる日々、職長になってからは管理不行き届きだと絞められた。部下のミスは全てが責任者が背負うものだと、ケジメをつけさせられた。痣私の身体からが絶えることはなく、時には見せしめとして皆の前で殴られることもあった。そんな環境のなかにあって、きっと同級生やそれこそ同世代とも違う時間を生きていた私には自由も娯楽も何もなかった。外出を許された時には同僚と公園に行きバスケをしたり、喧嘩ではないがスパーリングとも言えないようなゲームをしたりした。たまに公園や外出先で同世代を見かけては、その自由を羨んだ。
求人を出していたのであろう、確実に少しづつ従業員は増えていくが私たちの環境に変化が訪れることはなかった。新しく加わった従業員は、住み込みだが別のアパートを用意されており給料も貰っていた。それ故に、同じ会社の仲間とは思うことが出来なかった。仕事ではそんなもの関係がないことは心得ている為、協力し合い笑いあっていたが仕事外では一切の絡みを持つことは無かった。私たちとは違う世界に住んでいることが羨ましく憎くもあったこと、現場では私たちはペットボトルに入れた水を飲んでいたが自販機で買った炭酸ジュースを美味しそうに飲む姿が目に写ることも要因ではあった。社長に私たちの現状を口止めされた訳では無いが、新規メンバーに話せばいつか社長の耳にも伝わるだろうことは容易に想像できた。暗黙の了解とでも言うか、古参メンバーは内々だけで愚痴を吐いては慰めあっていた。しかし、私の中では古参メンバーも仲間という意識はなかった。私がこの会社の体制に疑問を持ち、給料未払いや暴力について異議を唱え退職を申し出たところで彼らもまた私の敵に回っていたことがあったからだ。それはまるで一種の洗脳のような状態にあったのかもしれないと考えるのは、彼レから言わせてみれば住む家とあたたかい風呂や食事があるだけ幸せなのだそうだ。また、彼らの境遇もその思考に加速をかけていたのだろう。中年のメンバーは元々ホームレスやそれに近い状態にあった者がおり、若いメンバーでは親に捨てられた者や事情が会って地元を離れた者がいた。そんな彼らからしてみれば、暴力という力で支配された環境も生きていくには何ら不自由のないものだったのかもしれない。
一度職長を任せられてからというもの、社長をはじめ幹部から評価されたのか行く先々で職長や責任者を任せられた。当初は名ばかりで責任の押しつけのようだったそれも、次第にしっかりしていった。現場の状況報告もそれまでは日に何度も連絡しなければならなかったが、帰社したタイミングや夕食のタイミングでながら伝えでも済むようになった。作業人員を増やしたいときは連絡をして状況を伝えだが、怒鳴られることもなくなり二つ返事で快諾されるようになっていた。責任者として半年ほど過ごした頃、部長が事件を起こした。夜勤専従でプラントに入ることになったとき、そのメンバーを決めるのも社長は私に意見を仰いでくれた。そして部長が他の現場でポカをやって仕事がないから助けてやってくれと社長に頼まれた為、部長もメンバーに加えた。それまで日勤で入っていた私たちも夜勤専従ということで初めての夕方出勤に備え、生活リズムを変えるなど環境整備を徹底した。急な生活リズムの変化は体に不調や事故や怪我のリスクが高いことから、3日ほど順応期間を設けた。もちろん、夜勤になって加わるメンバーや日勤でやってきたメンバーにも通達した。部長にも三日間の順応期間を経て夜勤の作業に入る旨、備えて万全を期すようにと添えておいた。
四日後の夕方。現場まで二時間の道のりである為、17時過ぎに会社で借りている駐車場で集合した。ダブルキャブトラックのダイナとトヨタのカルディナの二台に、道工具を積み込み出発した。私はカルディナの助手席でメンバーにプラントの説明を済ませ談笑をしていた。すると現場まであと三十分という所で、後方を走るダイナのメンバーから連絡が入った。聞くに、部長が酒臭い気がするという。あと二十分も走れば右手に自販機が5台ほど並んだ空き地があるので、そちらに停車して確認してみようと伝え電話を切る。直ぐに社長へ連絡し状況を報告、二十分後に再度連絡する旨を伝えた。
泥酔していた。空き地に到着し、ダイナが来るのを待つ間というのは様々なストレスで吐きそうになっていた。夜勤移行の初日であり、人員を欠くことは出来ないという状況であるにも関わらず部長が酒臭いという。管理不足だと社長に絞められるかもしれないと思うと、気分がずんと重くなるのを感じた。というのも、評価され信頼を得たのかここのところはとても可愛がられていた。社長が買い物に行く時には付き添いを命じられ、酒などを好きなだけ与えてくれていた。それがまた元通りの過酷な日常に戻るかもしれないと思うと、立っているのも辛かった。
ダイナが遠くに見えた時、どんな状況なのかと無意味な想像してはどうしようかと考えを巡らせた。ダイナが停車して、運転していたメンバーや乗り込んでいたほかのメンバーが降りてくるなり臭いという。部長は後席で横になって眠っていた。ドアを開けた瞬間に酒の臭いがする。恐らく日本酒をたらふく飲んだのだろう車内に充満したなんとも言えない臭いに吐き気がしたが、躊躇わず部長を起こしにかかる。起きたは起きたのだが、やはり酔っ払っていた。「寝てるんだ、起こすなよ。お前後で覚えてろよ」と捲し立ててくる。ストレスがグッとのしかかってくる。殴り掛かりたい気持ちを抑えて、務めて冷静に社長へ電話をかけた。「はいよ」と社長が電話に出た声を聞いて直ぐに謝罪と説明をした。しかし、「おめーは悪くねぇよ。むしろ俺が悪い。面倒を見てくれって言ったのに、こんな事になって申し訳ない。いま、俺らも向かってるから気にせず仕事してくれ。元請けには頭下げといてくれ。着いたら電話する」と社長は電話を切った。
二時間後に電話がなる。着いたから迎えに来て欲しいという連絡を受け、ゲートまで十五分の道のりを全力で走った。社長をダイナまで案内すると、全てのドアの鍵が施錠されていた。このプラントのプールで車の施錠は禁止されていることは全メンバーが知っているが、念の為運転をしていたメンバーに確認するとしてめいないという。鍵もグローブボックスにあるという。そこからは、社長や専務。常務や本部長とともに車体を揺すったり叩くなどしてぶちょうを起こした。鍵を開けろとさけぶ社長に驚いたのか部長は直ぐに鍵を開ける。ドアを開けた社長が部長の息の根を止めるのでは無いかと緊張したが、そのまま社長の車に蹴り飛ばして攫っていった。
翌日、夜勤明けに帰社して食事をしていると社長が目の前の席に座って「おはようさん。お疲れさん。大変だったな」と笑った。そして「車の中で五発くらい、たぐったから今は顔面がボコボコで合わせられないからまた今度詫びを入れさせるな」とサラッととんでもないことを口にした。以降は部長を現場に入れることはなくなったのは言うまでもない。
ここまで話すと最後には気を許してくれた社長の元で楽しく過ごしているように思えるかもしれないが、そんなに甘くはない。外出は近所の公園までで、いい大人がボール遊びをしに行くだけなのだから情けない。その辺の小学生の方がお金を持っているほどだ。そんななかで、心から楽しめるわけも安らげるわけもない。誰にも言わず、抜け出す計画を着々と進めていたのである。そのために信頼を築いてきた。二年と半年ほど、そうして心の中であれやこれやと考えて過ごしてきたのだ。


例えば、今私が十年前の私に声をかけるとするならば。手紙をあてるとするならば「なるようになる。なるようにしかならないから、今できることをできるだけしとけ」だろう。そして、きっ十年後から届いた私からの手紙にも同じことが書いてあるのだろう。私はこの生き方で生きてきた。この考え方で生きてきた。そしてどんな時も、結局は何とかなってきたのだ。その積み重ねの上に生きていて、十年後の私はその更に高いところで笑っているだろうさ。

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