-ゆずぽんず-

Open App
2/4/2023, 3:29:37 AM

「人間(ヒト)」といういきものが存在する限り、この地球上から例え小さな争いも尽きることはないだろう。人間とは、高度な思考能力で文明を築き栄えて来た。そして、そこには争い事が必ず存在している。それは遥か昔、遠い過去の記録が示している。
今のように防錆特性に長けた便利な調理道具や日用品や、いつでもどこでも簡単に火をつけることのできるマッチやライターなど現代人の生活の中には当たり前に存在するものがなかった時代。人々は日々、または年々と様々な技術を発見し身に付けてきた。今で言うところの「国」や地域ではそれぞれに文明の進む速度は違ったが、人間が地球上の生き物の中で食物連鎖の頂きに登るのはそう長くはかからなかった。もちろん、野に出れば人間の命などひと噛みで葬ることの出来る獰猛な獣や連携をとってで獲物を狩る俊敏な獣。毒や鋭いトゲで身を守り、敵を屠るこのとできる生き物もいる。しかし、人間は今日にかけて持ち前の賢さで様々な生き物を資源に生きている。
石などの投擲による集団の距離攻撃に始まり、弓矢による個人の戦闘距離の増大。剣や刀、槍といった近接距離での戦闘。今や個人でも数キロ先を攻撃することが出来、相手の顔を見ることも無く相手に気付かれず制圧することができる。集団攻撃は、軍隊のもてる兵器を用いて様々な攻撃を敵地または敵に叩き込むことが出来る。
人間だけでなく、この地球上に存在する生き物はみな進化や部分退化などを経て今の姿がある。植物にも進化の過程で、様々な能力を身に付けたものもある。昆虫や節足動物といった身近な存在も、生きる地域や環境で様々な進化を遂げてきた。周囲の環境に擬態するものや、種そのものの姿を他の種の姿へ変えたものもいるが、爬虫類や哺乳類、果ては霊長類に至るまで変わりゆく環境の変化に応じて変化を遂げている。さて、その殆どは身を守るため生き抜くためだ。しかし人間はいつしか、そうして身に付けてきたものを自ら争いに使うようになった。そして攻撃され侵略の危機に備え、同じように力を争いに用いる。強大な武器や暴力を前にして身を守る方法は、やはり同じく持てる限りの武器や暴力でしかない。そこに綺麗事は存在せず、あるのは命の削り合いだけだ。では、全てが無作為な侵略や略奪のための争いであるかといえばそうでは無い。より豊かな暮らしと安心と自由を求めたものもあれば、信じる物事や考えの違いによる戦いもある。思考能力が高いということは、一人一人がそれぞれのの考えや思想をもとに生きているということである。即ちら争いの中にも、この様々な人間特有の部分が如実に現れる。故に、当初そこは身を守る為の武器や暴力もいつしか違ったものへと変化していく。争いからの解放を願い叫び謳うものが現れれば、その苦難の中にあって魅力を感じないものなどいないだろう。遂に解放を目的に武力と暴力で争いを始める者たちが生まれ、さらに過酷で危険な暮らしが始まる。それはひたすら繰り返されていく。では、立ち返って当初の目的や思想に基づいて争っている人間はどれだけいるだろうか。多くはないだろう。人間とは実に弱く脆く稚拙で矮小で身勝手な生き物だからである。自分の意思や思考、思想すらも覆い隠し、或いは消し去ってしまう「大義名分」という兵器を持っているのだから。
地球上に存在する生き物には、地球を維持するための働きがあるというが人間には無いのだという。人間は存在するだけで環境を破壊し、無作為に他の種を狩り、人間というひとつの種だけに都合の良い環境を作っているからであるからだそうだ。例えばある種の昆虫が絶滅すれば自然環境は崩壊し、様々な生き物が死滅するだろうという話も聞く。しかし、人間だけは絶滅しても地球上の野生生物などには影響がないという。人類のいなくなった未来は、大地は再び緑が繁茂しそれまで使役され、家畜化されてきた生き物たちが本来の姿へと戻るという。もちろん、人類が生み出した生き物は人間と共に絶滅するだろう。
武器や兵器はやがて身を滅ぼすことになるが、捨てるに捨てられぬ現実がある。例え、一斉に「せーのっ!」で処分したとして終わるはずがない。武器を兵器を作ることの出来る技術と文明社会が存在しているうちは、また誰かが暴力に訴える。その暴力から身を守るために武器を持ち戦う。その武器から身を守るために兵器を使用するだ。私とて、武器や平気などの武力があっていいはずが無いと思っている。しかし、思ってはいてもそれは万人の心ではない。万人の考えでもない。誰かが、どこかの国や地域が強大な武力を有している限りは対抗しなければならない。例えば日本には自衛隊など要らないと、武器などいらないと宣う人々がいる。しかし、彼らはその声を上げるだけでなにを成し得たのであろうか。彼はの言葉では、「武器を持っていることは、即ち戦争を許していることと同義である」ということに他ならず、そこに他の考察も何も無い。そして、彼らの言うように自衛隊という集団組織を無くしたとして、災害の多いこの国で一体誰が今までのように救助や支援をするのだろう。重要なのは代替されるものであるが、この場合は自衛隊に変わる集団組織または、団体をNPOで組織することだろう。しかし、解決するものではないことは言い添えておく。国や各省庁隷下では自衛隊と変わらない結果になるだろう。行政の元に組織することも不可能だろう。組織したとして、そこに税金を投入するとなれば住民が許さないだろう。まして、その組織を常設するとなれば職員が足りないが職員を増やして問題が解決する訳では無い。当然だが結局は県独自、或いは町独自にチームを組織するだろう。簡潔にいえば、きりがない。
では何故、NPOで組織することが代替案なのか。では何故、代替案でありながら解決策では無いのか。非営利団体とはその名の通り営利目的を有さず、社会的な目的や使命の為に自主的に活動する組織だ。つまりは、国営でも県営でも市営でも無いことから税金が投入されることは無い。そして、日本では一般的にに民間人が武器等を所持することは出来ない。つまり、活動家の方々が危惧する点については解決している。では、災害などが発生した際はどうだろうか。自衛隊に変わる組織となるには、自衛隊と同じだけの機動力と即応力が必要である。そして、自衛隊という大きな組織だからこそ可能な人海戦術も必須である。これらをNPO法人で用意するには、寄付を募るなどの活動が重要になるだろう。そして、融資や寄付金からなる資金で人を集め需品や関連備品などを揃え組織しなければならない。また、構成要員にはボランティアで参加してもらう、または寄付金や災害時義援金などから手当等を充当することで有償活動が可能となるだろう。常設ではなく、非常時等に発動するものとする。年間に数度、定期的に技能習得のための教育または訓練を行い有事の際には現地対応に当たってもらうというのが考えられる一般論だろう。
さて、そのような事が現実に障害なく進められるだろうかといえば不可能に近いだろう。そして、万が一に他国の侵略による危機に瀕した時はどうして身を守れるだろう。占領され、日本人が築いてきた文化文明は葬られることになるだろう。災害に備えて有志を募り組織することが出来たとして、それを大きな単位で組織することは簡単ではない。大きな組織を管理する人間が必要になるが、それを非常時で正常に的確に制御できるだろうか。年に数回程度の訓練や教育では使い物にはならないだろうが、何よりも重要なのは一般人から構成した組織ではその構成要員が罹災すれば機能しなくなるということだ。そして、他国侵略の折には武器のない者にできることなど何も無い。


詰まる話、人間はという生き物が存在するうちは平和などというものは夢見物語でしかないのだ。戦争は到底許せるものでは無い。国家間の争いに罪のない尊い命が奪われるのは涙を抑えきれないほどに悲しく苦しい。憎くて仕方がない。しかし、これが現実なのだ。

人間が存在し続けるならば、例え百年先も千年先も争いは絶えぬだろう。

2/2/2023, 11:51:35 PM

人生を悲観するほどの悲しみに打ちのめされ、何もかもがどうでも良くなったときひとはどのようなことを思い、どのように行動するだろう。
二十代もまだ浅い頃合だったか、昼間は住宅の塗装工事に追われ忙しい時間が過ぎる。夜はパチンコやスロットなど所謂、遊戯台に関わる工事で明け方頃まで作業をしていた。昼間の仕事も請負い件数が一万八千戸と膨大な仕事を抱えていたが、大義であったのは夜間工事である。遊戯店ということもあり、作業のため入店できるのは二十三時過ぎの為とにかく時間に追われていた。遊戯台の入れ替えやサンド機の交換、CPUやランプの交換とそれに付随した配線作業を行わなければならなかった。通常、遊戯台の新台入替や台移動だけなら早ければ二時間から三時間で終わる。しかし、サンド機やランプなど電装工事になるととても時間がかかる。寝るまもなく作業をしていると、不思議なことがよく起きる。三十分ほど意識を失っている時があるが、同僚に言わせれば無言で作業をしていたという。確かに周囲を見てみると、記憶が無い部分も接続作業が完了している。念の為と思い確認してみるが、間違いなく施工しているのだ。その後に同僚も同じような現象に見舞われたが、やはりその時の反応というのは「ごめん、寝ちゃってた」というものである。もちろん同僚は寝てなどいなかった。作業をしていたし会話もしていた。作業の都合上、遊戯台の前に設置された椅子の上を渡り歩くのだが、そこにも特段おかしなところはなかった。だが、同僚にはその記憶が無い。ひとは危機的状況に陥ると、本能が発揮されるという。恐らくこの時の我々は休む間もなく働き詰めであった為、防衛本能が働いて過酷な記憶を消したのだろう。
そんな限界を突き進んだ生活をしていれば、事故というものは必ず起きる。いつものように夜間工事を終えて塗装の工事現場へ移動し、車内で仮眠をとる。朝礼に参加し、各業者の各職長同士ですり合わせを行い作業計画を立案する。流れが決まれば作業開始となる。その日もいつものようにルーティンをこなすように過ごすのだろうと思ったが、それは起きた。私が用意した塗料入りの下げツボが燃えているのを見て、上階を確認すればそこで鍛冶屋が溶接作業をしていた。朝の打ち合わせで取り決めた手順が守られていないための事故だったが、その後に事故が起て続いた。同僚のひとりが脚立に登り、二階の階段手すりを外から施行していたが突然倒れたのだ。すぐに駆けつけるも大事なく、何が起きたか訊くも分からないという。そして、午後の作業で今度は私が事故に見舞われたのだ。三階の共用廊下に脚立を二脚立て、アルミ製の歩み板を渡してその上で作業をしていた。歩み板の上は非常によく揺れる。というのは上下にたわむのだが、普段からこのような作業をしている為に何も感じない。
突然だった。気がつけば一階に墜落していたのだが、これ幸いに足から着地した為大事はなかった。大事はなかったが、着地の際に右脚のみで着地をしてしゃがみ込んだことが原因だろう、靭帯が損傷したのか足が動かない。激痛で苦しんでいるところに同僚が駆けつけてきて、声をかけてくれた。曰く、私は何故か歩み板のない方向へ一歩踏み出したという。この一言で合点がいった気がした。というのは、墜落する間際に何故か分からないが私には今いる場所が地面のように思えていたからだ。命こそ助かったものの、その後半年は右足は思うように動かなかった。
人間の本能の話に触れたが、限界を超えた先にあるのは本能さえも働かせぬ危険性が潜んでいる。自意識の欠如や意識耗弱、注意散漫や放心状態はどれだけ意識して制御しようとも能力その物が働かなければ意味が無い。
事故からしばらく経ち、私は勤めていた会社を去り知人と起業した。そして人に騙され途方に暮れ、何もかもがどうでも良くなった。そんな時期を乗り越えた先にも、不運というのは執拗についてまわった。馴染みのタイヤ屋で冬タイヤから夏タイヤへ交換作業をしてもらった帰り、国道4号線をのんびりと運転していたときだった。先の信号交差点が赤信号だったため信号待ちの車列に加わり、青になるのを待っていた。すると大きな衝撃を受けた。理解するのに数秒も要さなかった。追突されたのだと分かり、正常に動かないタイヤを引きずりながら路肩へと退避させる。見れば私の車は後部が大きく潰れており、追突した車両はエンジンが剥き出しになっていた。あまりの衝撃とショックで吐き気を催したが、何よりも身体中が痛い。救急搬送の後に一週間の療養を余儀なくされたが、具合は良くならない。それでも復職し、いつもの生活に戻るのだが再び追突事故の被害に遭ったのだ。一度目の事故から実にひと月後のことで、症状はより一層の悪化の道を辿っ。
秋から春にかけて私の下腿部は力が抜ける時があるのだが、国立病院で診てもらっても何処に行っても原因が分からないという。強いて言うならば、過去の様々な事故が原因で細かい神経などが損傷している可能性があるのだという。この先、きっとこの症状に悩まされながら生きていくのだろう。これは、私にとっての悲話とでも言おうか。
暴力で支配された会社で休みなく働かされ、事故に遭うも治療の機会は貰えなかった。労災に次ぐ労災。そして立て続いた交通事故によって、私の体はボロボロになってしまったようだ。これまで生きているだけで儲けものだと私は口にしてきたが、これに間違いは何一つないと思っている。なぜなら、こうして語ることが出来る命がここにあるのだから。そして、美味しい食事を楽しみ睡眠を貪り生きているのだから。そして、これらの経験は私にとってかけがえのない財産であり私にはなくてはならない価値を持っている。そう、参考文献が沢山詰まった書棚のようであり情報の詰まった辞書のようである。これ故に、こうした文章を詰まることなく書き出すことができるのだから。

勿忘草には悲話があるという。ドイツの悲話だが私の体験してきたことなど、なんと小さく見えるだろうか。霞んでしまって何も見えやしないのではなかろうか。物事には意味や由来、所以などがある。それは人の人生にもあてはまるだろう。どのように生きてきて、どんなことを体験し経験してきたのか。そして、そこから何を得たのか学んだのか。人を構成するものは、性格だけでは無い深い深い人間味だろう。そして、その経験には浅いも深いもない。肝心なのは、自分がどれだけの想いを持っているかだろう。
ひとつひとつのことに意味を持たせるのも、何かを見出すのも自分次第だ。「勿忘草」という花は青く美しくその名もまた愛おしいが、その悲話はとても胸が苦しく痛む。故に花言葉もまた、とても悲しく寂しいと思える。そして、それが惹き付けてやまない魅力なのだろう。
法華経には「十如是」というものがある。深く語ってしまうと、元々長く退屈な話がさらに長くなってしまう。よって簡単に掻い摘んで話をしてみよう。人には、そのひとの存在そのものの影響というものがある。その人自身がもつものが、主マウイに与える影響というものだ。これは何も悪影響だけを言うのではなく、善い影響についてもそうだ。例えば「長渕剛」という歌手がいるが、長渕剛氏は魂と情熱の込めた歌を力強く歌う。すると、これを聴く人々は感動を覚えたり、勇気を貰ったりと心を動かすのだ。その事で人々は彼に惹かれ、彼をもっと多くの人に知って欲しいと思い方方で目を輝かせ語るだろう。それを聴いた人もまた彼に興味を持ち、その歌声を聴いてその魅力を真に知る。
たくさんの人々の声が歌手「長渕剛」を、とても強く大きな存在として世に生み出す。彼は、更に更に多くの人々の目にその姿を焼き付け、耳に刻み付けるのだ。

さて、存在についての話はこの辺りでやめておくが「勿忘草」という花。その悲話あっての名を冠し、花言葉を持つ。そして、この花を愛するひとはこの背景も含めてその魅力に惹かれている。


さあ、人生とは様々な経験をしていくものである。そしてそれはその人をその人たらしめるものである。このように花や人になぞらえて、表現をすることで人生において悲観するような出来事も無駄ではないとよく分かるだろう。花が花言葉をアイデンティティとするならば、いっそのこと自分の辛い話も自分だけの価値を見出してアイデンティティにしてしまえばいいのではないだろうか。

2/1/2023, 11:09:53 PM

勉学や仕事に打ち込むなかで、必ずどこかでその歩みが止まるときは誰にでもあるだろう。問題集を読めば読むほど難解になり、最早意味がわからず放り出してしまいそうになる。何事も順調で立ち止まることなどないと思っていたの仕事に、不安や自信喪失といった心理的なハードルや己自身の処理能力の限界といった壁を前にしゃがみこんでしまう。勉学や仕事に限ったことではないが、一度や二度はそんなことがあるだろう。いやなに、なるほどどうしてか時に器用に立ち回れる者もあることにはある。しかし長い人生のなかで全くないのかというと、そんなことが一度はあったと回顧する者が殆どだ。
辛いことや悲しいことを前に塞ぎ込んでしまえば、目の前の苦しみから逃れることはより一層の困難といえる。己を守るつもりが逆に痛めつける結果になるのは、周囲の声や様々なヒントやきっかけなどあらゆるものを締め出してしまうことで機会を失うからだ。煩わしく思う人との付き合いも、疎ましく思う会話の中にも脱却のヒントが隠れている。多くの人はそれに気が付けないだけで、その多くを無駄にしてしまっている。作詞家や画家が日常の様々な風景から気づきを得ているのはよく知る話だが、それはそういった一部の人達に限った事ではない。実は我々にとっても、同じように多くの気づきを与えてくれる。世間は、言わばたわわに実る果樹のようなものだ。旨味や甘味がギュッと凝縮している果実を見れば、ひとつと言わず二つも三つもと欲張るものだ。しかし、これは魅力的な形がそこにあるからに過ぎない。そこにあるものが甘くて美味しく、喉を潤わせてくれることを誰でも知っている。故に欲張リ、いくつも欲してしまう。ところが、見たことも無いものや自分の知識の曖昧なものでは興味を示さない。避けて通る者もいるだろう。
勉学において、重要な部分を聞き逃さまいと聞き耳を立てたり必死にノートにとるといったことはごくありふれたことだろう。しかし、ノートの使い方やマーカーの使い分けの一つ一つがとても重要性の高いことであることに気がついていない者もいる。ノートの中で、カテゴライズしてみたりマーカー色の使い分けで強調したい部分を視覚化すると後で見直した時に驚く程に分かりやすい。仕事において、効率を求める際にはパソコンを使う業務ならばソフトやアプリケーションで効率化を図る者もいるだろう。Excelを多用する職務内容であれば、より多くの関数を学ぶだけでなくマクロやVBAを用いる者もいるだろう。しかしここで重要なのは、主観的に物事を考えるのではなく一度立ち返って客観視をしてみるということだ。自分のしていることや、しようとしていることが本当に意味を生すものなのか。効率が上がるのか。成績が伸びるのか。客観的に物事を見つめ直すことで、自分には考え及ばなかったことや、なるほど素晴らしいと思えるアイデアを周囲から見つけることができる。
実際に溢れかえる情報の中から、自分が今必要としているものを見つけ出して掴んだときにその価値をどれだけ見いだせるかは本心次第になる。有用性を引き出し、価値をつけるのは自分次第である。掴んだものの、いやはや時期尚早であったか使い切ることが出来なかったと思うこともあるだろう。人の気分は、様々な情況に忙しなく浮き沈みをする。価値を見いだした掴んだそのヒントやきっかけも、生かさなければ全てが無駄になるだろう。得たりと顔を緩ませている隙に、それは消えてなくなってしまう。しかし掴んだ瞬間に自分のものにして使おうにも思案が足りない、そのタイミングが間違っていればまるで意味が無い。パズルのピースのようなものだが、かといって言うほど難しい問題ではない。主観的に物事を見るだけでなく、客観的に物事を見ることの大切さについて触れた。では、その機会も俯瞰して考えてみよう。角度を変えて多角的に見定めてみれば、案外すんなり嵌め込むことができるものだ。
なにかに失敗して挫けたり落ち込んだり、なにかに不安を感じて立ちすくみ周りに置いていかれたり自ら後ずさったりする。かと思えば、何事も上手くいき、全力で駆け抜けてみたり、飛び越えてみたりする。その時に不安も何も感じることはなく、強く背中を押されるように前へ前へ駆ける。人生などその繰り返しでしかなく、今生きるこの時間は、そんな繰り返しの中のほんの一瞬に過ぎない。一喜一憂することがあれど、不自由や不満を吐露することはあれど直ぐに過ぎ去っていく。嬉々として歩を進める時が、そんなことを忘れさせる。


人生なんてブランコのようなものさ。怯え挫け慄いて、誰かの後ろに隠れてもからに籠って背中を丸くしていても何かに背中を押されるよう前え飛び出す。誰かがその背を押すのか、自分自身が立ち返って押すのか。それはその時々で違うだろう。だか、後ろに退いたとて必ず前へ進み出す時が来るのが人生だ。仕事も勉強も躓いたって、気づけばそんなことも忘れて打ち込んでいるものさ。


そんなものさ。

2/1/2023, 3:48:26 AM

今思えばあっという間に駆け抜けていた人生も、決して無駄にならず私の尊い財産だ。一人親元を離れ遠く仙台の町へ越した私は、地場の建築会社に住み込みで就職した。
仙台までの交通費を送金して貰ったあとの行動は、自分でも驚く程に実に早かった。どこにそんなに行動力と決断力が隠れていたのだろうか、それまでの人生の中で経験したことの無いものを私は感じていた。ゆうちょ銀行で交通費を下ろし、後には引けないという思いと大きな期待を胸に家へ帰る。仙台の会社に就職するから、明日の夕方に出発すると母に伝えたが「向こうに行っても家に金入れてね」という一言だけだったが、寂しさや悲しさはなかった。母親は女で一人で私を、兄弟を育ててくれた。看取してはいるが、些か金銭面に堪らしない所を感じていた。がめつさや執着のような、親ではなく人として好きになれないところがあるからだろうか。夜にひとり、バックパックに数着の着替えや日用品を詰めてそうそうに眠りについた。
広島駅には来たことがなかった為、バスプールがどこにあるか分からず交番や道行く人に道を訪ね歩いた。ピンク色のバスが見え、その車体には大きく私が乗るバスの名前が描かれていた。安い夜行バスの旅だ、広くはなく席は軋む。眠れないまま知らない景色が流れていくのを、ただただ呆然と眺めてはため息を漏らした。仙台に行くことよりも、バスを乗り継ぐことのストレスからくるため息だ。一睡もつかぬ内に新宿の停留所につく。案内の地図を見ても、携帯で乗り継ぎの手順を見てもよく分からなかった。「停留所を出て左方向に歩くと、三角のビルがある。その信号を渡り...」と画面に書いてあるが、はてどうしたものか。三角と言えば三角と言えるビルが沢山見え、頭を悩ます私に通勤途中のサラリーマンが声をかけてきた。どの建物のことだろうか、どの道のことなろうかと親身になって考えてくれたが分からなかった。諦めていると、件のサラリーマンがさらに道行くひとに声をかけ気がつけば10人くらいに囲まれていた。
乗り換え場所まで付き添ってくださった人々は、また日常に帰っていった。目の前にバスに乗れば、あとは仙台だ。仙台行きのバスに乗ったら連絡をして欲しいと、就職先の担当者からメールが来ていた。電話をかけようとするが、電池残量が僅かしかなく電話などとてもじゃないが出来ない。勇気を振り絞り、恥を忍んでバスの乗客に電話を借りられないかと頼み込んだ。怪訝そうな表示読まうではあるが、快く貸してくれたので電話を済ませお礼の言葉をかけた。
仙台駅近くの停留所でバスが停まった。「定禅寺通り」、そう書いてある標識と高いビルをみて不安が押し寄せてきた。こんな都会の街など来たことがなかった私の目には、この待ちそのものが恐ろしい魔物に見えたのだ。辺りを見れば、担当者がエルグランドで迎えに来ていた。挨拶をして乗り込むと、社長だと言って名乗る背の低い男がいたが一目みて反社の人間だと感じた。社長の事務所兼自宅の隣に社宅の戸建住宅に通され、坊主にされたことに驚いている間のなくたくさんの書類に署名捺印を強いられた。雇用契約書では無く、社長たちも「この後登録しに行くから」という。意味はすぐに理解したのは、派遣会社に連れてこられたからではあるが、それよりも何故ここにいるのか理解が出来なかった。訊けば閑散期は派遣で食いつないでいるからだというが、どこの世界に従業員を派遣会社に登録させる会社があるのだろう。ならば人を雇い増やすなと思いはしたが、もう後には引けない。
二年半だ。毎日見せしめに殴られ蹴られ投げられた。現場で下手を打つと、帰社直後に従業員が全員事務所に呼ばれた。事務所のリビングで、社長の前で全員が円になって正座をして説教された。説教だけで終わるようなことはなかった。毎日誰かが執拗に暴力で虐げられ、私も例に漏れず暴力に為す術なく耐えていた。一度だけ社長が激怒したことがあった。同い年の同僚が、社長の知人が店長を勤める店で窃盗を行ったのだからそれは当然だ。しかし、その店長というのがいけない。社長が世話になっていた人で、その人への迷惑もそうだが顔に泥を塗ってしまったという怒りが社長を鬼に変えていたのだ。大きなガラス灰皿が同僚目掛けて飛んだが同僚が避け、さらに腹を立てた社長がグラスを手にして同僚を蹴り飛ばした。その後は凄惨な光景だった。グラスで顔面を何度も殴りつけ、誰もがあまりに酷い様子に何も出来ないでいた。専務が代表を制止し、同僚が起こされ説教が続いた。そんな日々の中で、抜け出すタイミングを模索していた。もちろん、現場で様々な業種や職種の知人を作った。そうして二年半を耐えて過ごしたのだ。
知人が絵を描いてその通りにガラをかわし、ほとぼり覚めるや知人と共に起業をして人生を再スタートさせた。束の間だった。元請けの代理人が金を持って逃げたのは、仕事を受けて二ヶ月後の事だ。従業員も雇用して、みんなで盛り上げていくぞという時に詐欺の被害に遭ったのだ。もちろん逃がしはしなかった。ひと月かけてヤサを特定して囲みに行って、話をしたが既に借金返済に注ぎ込んでいたため泣く他なかった。そこからひと月は営業活動で瞬く間に過ぎていったが、なかなか決まらなかった。最後の綱と、一度だけお世話になった横浜で会社を運営している社長へ電話をして全てを話した。縁に恵まれたのは、運が向いてきたからなのか仕事が舞い込んできた。
一時は30人ほどの従業員が居たが、業務量が減ってきたことから件の横浜の社長へ面倒を見て貰えるよう頼み込んで紹介した。

起業して6年は思えば長いようで、あっという間だったが濃厚だった。知人と意見や会社の運営方針や方向性が合わず、解散したが後悔はない。普通では経験できないことを若いうちに経験させてもらったのだ、これほど嬉しいことは無い。充実した日々だった。色んな会社の社長達だけで集まりを開いて、食事をしながら今後のことを話し合ったり意見交換をしたりもした。ビジネスの場での振る舞い方をたくさんの人に叩き込んでもらったことは、私のゴミのような人生の中ではもっとも有意義だった。財産そのものだ。

私は辛く悲しく、厳しい人生の旅路の果てに今の人間性を得ることが出来たのだ。生きているだけで儲けもんだ。


旅路の果てに

1/30/2023, 11:26:28 AM

生きていれば誰かのあたたかい気持ちを受けることは少なくはないと思うが、同じようにあたたかい気持ちでなにかをしてあげたいと思ったことはとても多異様に感じる。幼少の頃より周囲のあたたかく優しい心に触れてきたが、そのどれもが見返りを求めるものではなく慈悲や慈愛、或いは単に親切心からなるものだったと感じている。そしてどんな言葉も気持ちも、相手を想うという素直なものだったようにも思う。私もまたそう感じて心から嬉しく思ったし、この喜びをほかの誰かにも共有したかった。共感して欲しいという思いと、自分が受けた親切心の心温まる気遣いを誰かにしてあげたいと思った。時にお節介と思われようが迷惑だと思われようが、誰かに喜んで欲しい。私が味わった喜びと嬉しさ、温かさと見返りを求めない優しさを同じように誰かに注ぎたかった。だから毎日誰彼構わず声をかけ、手伝いを申し出たり話を聞くなどしてきた。驚く人、戸惑う人もあったが皆一様に最後は笑顔を見せ「ありがとう」と笑った。
「恩返し」という言葉は、誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。実際に、恩を受けた相手にその恩を報いて返すことを考えたことのある人は多いのではないだろうか。例えばの話になるが、イベント事であるないに限らず、ひとから頂き物をしたときに機会をみてお礼をしようと考えるだろう。それは単なるお礼であるように思えるが、その実は「どんなものを贈れば喜んでくれるだろうか。何をしてあげれば嬉しいだろうか」と相手の気持ちになって考えたりする。相手の喜ぶ顔を思い浮かべ、あれこれ考えては想いをめぐらせる。友や知人から受けたものを以上に、相手の幸福を考えるのはとても素晴らしい事だ。恩返しと言うと難しく考えてしまうかもしれないが、実のところ恩返しというのは自分自身が与えられ、または施された善意に感謝し相手を想うことだと私は考えている。「恩」と言う言葉だけが独り歩きしているが、深く考えることは無い。されて嬉しかった、有難かったというその喜びをそっくりそのまま返すだけなのだ。バレンタインデーに女性からチョコを頂き、それは女性が義理で用意したのだとしてもその心遣いや頂いたという事実は嬉しいものだ。そしてそれを返したい、喜んで欲しいと思うことで相手のことを考えて思案してプレゼントを贈る。このとき胸にあるのは単純な気持ちに過ぎないが、その気持ちが重要である。「喜んでくれるだろうか」というその人に寄り添った心と、喜ばせたいと思うあたたかく優しい想いた。恩というのは押し付けるものでも、押し付けられるものでもない。恩というのは無理に感じるものでもなければ、無理に返そうとするものでもない。義務感を持った途端に、相手を慮る気持ちなどなくなってしまう。ストレスでしかなく、「返さねば」という重い枷になってしまいかねないものだ。
人から受けた親切や気遣い、あたたかい言葉や愛情が受け手の心を豊かにする。「あの先輩にはとても可愛がってもらったし優しくしてもらったから、今度は私が後輩や他の人に優しくしよう」と思うことは誰にでもあるだろう。そして実際にそのように行動する。優しい言葉をかけ、必要に応じて手を差し伸べたり助言をしたりといったサポートをする。これらの言行は、先輩の優しさや温もりを今度は自分が誰かに与えたいという思い。或いはそんな先輩のように、「人のために、自分に出来る何かをしてあげられるような人間になりたい」という思いからなるものだろう。恩というものを何にでも併せて考えるのは、私は少々強引で非常に矮小だと捉えている。しかし、人から受けた優しさを今度は誰かに贈りたいというものを「恩送り」という。
「還著於本人」という言葉がある。これは日蓮宗の法華経(妙法蓮華経)の中で説かれている教えである。「還って本人に著きなん」といういみである。わかり易く言えば、自分の行いは善行悪行にかかわらず巡り巡って還ってくるというもの。つまり、人にやさしくすればいつか誰かの優しさを受けるだろう。人に悪意をもって接すれば、いつか誰かの悪意に晒されるだろうというもの。恩送りというのは非常にこの教えに近いものがある。先程の例えで言うと、先輩に優しくしてもらったから今度は後輩に優しくする。するとその優しさを受けた後輩は優しくしてくれた人だけでなく、その先輩のことも良く思う。恩送りとは、本人に直接恩を返すのではなく受けた恩を今度は誰かに与えることで恩人に音を返す(還す)ことに繋がる。
私は今までに数え切れないほど多くの人達と関わって来た中で、同じように数え切れないほどの施しを受けた。時にアドバイスであったり、お叱りであったり。躓いたときは手を、辛い時には肩を何も言わず貸してくれた。そんな人々に、ついに恩を返すことは叶わなかった。しかし、私が受けた慈悲や慈愛。あたたかい心や気遣いを今度は誰かに注げばいいのだ。だから、私はいつも胸に恩人の一人一人の優しい笑顔を大切にしまっている。いつもどんな時も支えてくれた人達と同じように、この想いが誰かの心に届けるために。


そしてまだ見ぬあなたに届けたい、私が受けた愛を。

Next