-ゆずぽんず-

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「人間(ヒト)」といういきものが存在する限り、この地球上から例え小さな争いも尽きることはないだろう。人間とは、高度な思考能力で文明を築き栄えて来た。そして、そこには争い事が必ず存在している。それは遥か昔、遠い過去の記録が示している。
今のように防錆特性に長けた便利な調理道具や日用品や、いつでもどこでも簡単に火をつけることのできるマッチやライターなど現代人の生活の中には当たり前に存在するものがなかった時代。人々は日々、または年々と様々な技術を発見し身に付けてきた。今で言うところの「国」や地域ではそれぞれに文明の進む速度は違ったが、人間が地球上の生き物の中で食物連鎖の頂きに登るのはそう長くはかからなかった。もちろん、野に出れば人間の命などひと噛みで葬ることの出来る獰猛な獣や連携をとってで獲物を狩る俊敏な獣。毒や鋭いトゲで身を守り、敵を屠るこのとできる生き物もいる。しかし、人間は今日にかけて持ち前の賢さで様々な生き物を資源に生きている。
石などの投擲による集団の距離攻撃に始まり、弓矢による個人の戦闘距離の増大。剣や刀、槍といった近接距離での戦闘。今や個人でも数キロ先を攻撃することが出来、相手の顔を見ることも無く相手に気付かれず制圧することができる。集団攻撃は、軍隊のもてる兵器を用いて様々な攻撃を敵地または敵に叩き込むことが出来る。
人間だけでなく、この地球上に存在する生き物はみな進化や部分退化などを経て今の姿がある。植物にも進化の過程で、様々な能力を身に付けたものもある。昆虫や節足動物といった身近な存在も、生きる地域や環境で様々な進化を遂げてきた。周囲の環境に擬態するものや、種そのものの姿を他の種の姿へ変えたものもいるが、爬虫類や哺乳類、果ては霊長類に至るまで変わりゆく環境の変化に応じて変化を遂げている。さて、その殆どは身を守るため生き抜くためだ。しかし人間はいつしか、そうして身に付けてきたものを自ら争いに使うようになった。そして攻撃され侵略の危機に備え、同じように力を争いに用いる。強大な武器や暴力を前にして身を守る方法は、やはり同じく持てる限りの武器や暴力でしかない。そこに綺麗事は存在せず、あるのは命の削り合いだけだ。では、全てが無作為な侵略や略奪のための争いであるかといえばそうでは無い。より豊かな暮らしと安心と自由を求めたものもあれば、信じる物事や考えの違いによる戦いもある。思考能力が高いということは、一人一人がそれぞれのの考えや思想をもとに生きているということである。即ちら争いの中にも、この様々な人間特有の部分が如実に現れる。故に、当初そこは身を守る為の武器や暴力もいつしか違ったものへと変化していく。争いからの解放を願い叫び謳うものが現れれば、その苦難の中にあって魅力を感じないものなどいないだろう。遂に解放を目的に武力と暴力で争いを始める者たちが生まれ、さらに過酷で危険な暮らしが始まる。それはひたすら繰り返されていく。では、立ち返って当初の目的や思想に基づいて争っている人間はどれだけいるだろうか。多くはないだろう。人間とは実に弱く脆く稚拙で矮小で身勝手な生き物だからである。自分の意思や思考、思想すらも覆い隠し、或いは消し去ってしまう「大義名分」という兵器を持っているのだから。
地球上に存在する生き物には、地球を維持するための働きがあるというが人間には無いのだという。人間は存在するだけで環境を破壊し、無作為に他の種を狩り、人間というひとつの種だけに都合の良い環境を作っているからであるからだそうだ。例えばある種の昆虫が絶滅すれば自然環境は崩壊し、様々な生き物が死滅するだろうという話も聞く。しかし、人間だけは絶滅しても地球上の野生生物などには影響がないという。人類のいなくなった未来は、大地は再び緑が繁茂しそれまで使役され、家畜化されてきた生き物たちが本来の姿へと戻るという。もちろん、人類が生み出した生き物は人間と共に絶滅するだろう。
武器や兵器はやがて身を滅ぼすことになるが、捨てるに捨てられぬ現実がある。例え、一斉に「せーのっ!」で処分したとして終わるはずがない。武器を兵器を作ることの出来る技術と文明社会が存在しているうちは、また誰かが暴力に訴える。その暴力から身を守るために武器を持ち戦う。その武器から身を守るために兵器を使用するだ。私とて、武器や平気などの武力があっていいはずが無いと思っている。しかし、思ってはいてもそれは万人の心ではない。万人の考えでもない。誰かが、どこかの国や地域が強大な武力を有している限りは対抗しなければならない。例えば日本には自衛隊など要らないと、武器などいらないと宣う人々がいる。しかし、彼らはその声を上げるだけでなにを成し得たのであろうか。彼はの言葉では、「武器を持っていることは、即ち戦争を許していることと同義である」ということに他ならず、そこに他の考察も何も無い。そして、彼らの言うように自衛隊という集団組織を無くしたとして、災害の多いこの国で一体誰が今までのように救助や支援をするのだろう。重要なのは代替されるものであるが、この場合は自衛隊に変わる集団組織または、団体をNPOで組織することだろう。しかし、解決するものではないことは言い添えておく。国や各省庁隷下では自衛隊と変わらない結果になるだろう。行政の元に組織することも不可能だろう。組織したとして、そこに税金を投入するとなれば住民が許さないだろう。まして、その組織を常設するとなれば職員が足りないが職員を増やして問題が解決する訳では無い。当然だが結局は県独自、或いは町独自にチームを組織するだろう。簡潔にいえば、きりがない。
では何故、NPOで組織することが代替案なのか。では何故、代替案でありながら解決策では無いのか。非営利団体とはその名の通り営利目的を有さず、社会的な目的や使命の為に自主的に活動する組織だ。つまりは、国営でも県営でも市営でも無いことから税金が投入されることは無い。そして、日本では一般的にに民間人が武器等を所持することは出来ない。つまり、活動家の方々が危惧する点については解決している。では、災害などが発生した際はどうだろうか。自衛隊に変わる組織となるには、自衛隊と同じだけの機動力と即応力が必要である。そして、自衛隊という大きな組織だからこそ可能な人海戦術も必須である。これらをNPO法人で用意するには、寄付を募るなどの活動が重要になるだろう。そして、融資や寄付金からなる資金で人を集め需品や関連備品などを揃え組織しなければならない。また、構成要員にはボランティアで参加してもらう、または寄付金や災害時義援金などから手当等を充当することで有償活動が可能となるだろう。常設ではなく、非常時等に発動するものとする。年間に数度、定期的に技能習得のための教育または訓練を行い有事の際には現地対応に当たってもらうというのが考えられる一般論だろう。
さて、そのような事が現実に障害なく進められるだろうかといえば不可能に近いだろう。そして、万が一に他国の侵略による危機に瀕した時はどうして身を守れるだろう。占領され、日本人が築いてきた文化文明は葬られることになるだろう。災害に備えて有志を募り組織することが出来たとして、それを大きな単位で組織することは簡単ではない。大きな組織を管理する人間が必要になるが、それを非常時で正常に的確に制御できるだろうか。年に数回程度の訓練や教育では使い物にはならないだろうが、何よりも重要なのは一般人から構成した組織ではその構成要員が罹災すれば機能しなくなるということだ。そして、他国侵略の折には武器のない者にできることなど何も無い。


詰まる話、人間はという生き物が存在するうちは平和などというものは夢見物語でしかないのだ。戦争は到底許せるものでは無い。国家間の争いに罪のない尊い命が奪われるのは涙を抑えきれないほどに悲しく苦しい。憎くて仕方がない。しかし、これが現実なのだ。

人間が存在し続けるならば、例え百年先も千年先も争いは絶えぬだろう。

2/4/2023, 3:29:37 AM