-ゆずぽんず-

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人生を悲観するほどの悲しみに打ちのめされ、何もかもがどうでも良くなったときひとはどのようなことを思い、どのように行動するだろう。
二十代もまだ浅い頃合だったか、昼間は住宅の塗装工事に追われ忙しい時間が過ぎる。夜はパチンコやスロットなど所謂、遊戯台に関わる工事で明け方頃まで作業をしていた。昼間の仕事も請負い件数が一万八千戸と膨大な仕事を抱えていたが、大義であったのは夜間工事である。遊戯店ということもあり、作業のため入店できるのは二十三時過ぎの為とにかく時間に追われていた。遊戯台の入れ替えやサンド機の交換、CPUやランプの交換とそれに付随した配線作業を行わなければならなかった。通常、遊戯台の新台入替や台移動だけなら早ければ二時間から三時間で終わる。しかし、サンド機やランプなど電装工事になるととても時間がかかる。寝るまもなく作業をしていると、不思議なことがよく起きる。三十分ほど意識を失っている時があるが、同僚に言わせれば無言で作業をしていたという。確かに周囲を見てみると、記憶が無い部分も接続作業が完了している。念の為と思い確認してみるが、間違いなく施工しているのだ。その後に同僚も同じような現象に見舞われたが、やはりその時の反応というのは「ごめん、寝ちゃってた」というものである。もちろん同僚は寝てなどいなかった。作業をしていたし会話もしていた。作業の都合上、遊戯台の前に設置された椅子の上を渡り歩くのだが、そこにも特段おかしなところはなかった。だが、同僚にはその記憶が無い。ひとは危機的状況に陥ると、本能が発揮されるという。恐らくこの時の我々は休む間もなく働き詰めであった為、防衛本能が働いて過酷な記憶を消したのだろう。
そんな限界を突き進んだ生活をしていれば、事故というものは必ず起きる。いつものように夜間工事を終えて塗装の工事現場へ移動し、車内で仮眠をとる。朝礼に参加し、各業者の各職長同士ですり合わせを行い作業計画を立案する。流れが決まれば作業開始となる。その日もいつものようにルーティンをこなすように過ごすのだろうと思ったが、それは起きた。私が用意した塗料入りの下げツボが燃えているのを見て、上階を確認すればそこで鍛冶屋が溶接作業をしていた。朝の打ち合わせで取り決めた手順が守られていないための事故だったが、その後に事故が起て続いた。同僚のひとりが脚立に登り、二階の階段手すりを外から施行していたが突然倒れたのだ。すぐに駆けつけるも大事なく、何が起きたか訊くも分からないという。そして、午後の作業で今度は私が事故に見舞われたのだ。三階の共用廊下に脚立を二脚立て、アルミ製の歩み板を渡してその上で作業をしていた。歩み板の上は非常によく揺れる。というのは上下にたわむのだが、普段からこのような作業をしている為に何も感じない。
突然だった。気がつけば一階に墜落していたのだが、これ幸いに足から着地した為大事はなかった。大事はなかったが、着地の際に右脚のみで着地をしてしゃがみ込んだことが原因だろう、靭帯が損傷したのか足が動かない。激痛で苦しんでいるところに同僚が駆けつけてきて、声をかけてくれた。曰く、私は何故か歩み板のない方向へ一歩踏み出したという。この一言で合点がいった気がした。というのは、墜落する間際に何故か分からないが私には今いる場所が地面のように思えていたからだ。命こそ助かったものの、その後半年は右足は思うように動かなかった。
人間の本能の話に触れたが、限界を超えた先にあるのは本能さえも働かせぬ危険性が潜んでいる。自意識の欠如や意識耗弱、注意散漫や放心状態はどれだけ意識して制御しようとも能力その物が働かなければ意味が無い。
事故からしばらく経ち、私は勤めていた会社を去り知人と起業した。そして人に騙され途方に暮れ、何もかもがどうでも良くなった。そんな時期を乗り越えた先にも、不運というのは執拗についてまわった。馴染みのタイヤ屋で冬タイヤから夏タイヤへ交換作業をしてもらった帰り、国道4号線をのんびりと運転していたときだった。先の信号交差点が赤信号だったため信号待ちの車列に加わり、青になるのを待っていた。すると大きな衝撃を受けた。理解するのに数秒も要さなかった。追突されたのだと分かり、正常に動かないタイヤを引きずりながら路肩へと退避させる。見れば私の車は後部が大きく潰れており、追突した車両はエンジンが剥き出しになっていた。あまりの衝撃とショックで吐き気を催したが、何よりも身体中が痛い。救急搬送の後に一週間の療養を余儀なくされたが、具合は良くならない。それでも復職し、いつもの生活に戻るのだが再び追突事故の被害に遭ったのだ。一度目の事故から実にひと月後のことで、症状はより一層の悪化の道を辿っ。
秋から春にかけて私の下腿部は力が抜ける時があるのだが、国立病院で診てもらっても何処に行っても原因が分からないという。強いて言うならば、過去の様々な事故が原因で細かい神経などが損傷している可能性があるのだという。この先、きっとこの症状に悩まされながら生きていくのだろう。これは、私にとっての悲話とでも言おうか。
暴力で支配された会社で休みなく働かされ、事故に遭うも治療の機会は貰えなかった。労災に次ぐ労災。そして立て続いた交通事故によって、私の体はボロボロになってしまったようだ。これまで生きているだけで儲けものだと私は口にしてきたが、これに間違いは何一つないと思っている。なぜなら、こうして語ることが出来る命がここにあるのだから。そして、美味しい食事を楽しみ睡眠を貪り生きているのだから。そして、これらの経験は私にとってかけがえのない財産であり私にはなくてはならない価値を持っている。そう、参考文献が沢山詰まった書棚のようであり情報の詰まった辞書のようである。これ故に、こうした文章を詰まることなく書き出すことができるのだから。

勿忘草には悲話があるという。ドイツの悲話だが私の体験してきたことなど、なんと小さく見えるだろうか。霞んでしまって何も見えやしないのではなかろうか。物事には意味や由来、所以などがある。それは人の人生にもあてはまるだろう。どのように生きてきて、どんなことを体験し経験してきたのか。そして、そこから何を得たのか学んだのか。人を構成するものは、性格だけでは無い深い深い人間味だろう。そして、その経験には浅いも深いもない。肝心なのは、自分がどれだけの想いを持っているかだろう。
ひとつひとつのことに意味を持たせるのも、何かを見出すのも自分次第だ。「勿忘草」という花は青く美しくその名もまた愛おしいが、その悲話はとても胸が苦しく痛む。故に花言葉もまた、とても悲しく寂しいと思える。そして、それが惹き付けてやまない魅力なのだろう。
法華経には「十如是」というものがある。深く語ってしまうと、元々長く退屈な話がさらに長くなってしまう。よって簡単に掻い摘んで話をしてみよう。人には、そのひとの存在そのものの影響というものがある。その人自身がもつものが、主マウイに与える影響というものだ。これは何も悪影響だけを言うのではなく、善い影響についてもそうだ。例えば「長渕剛」という歌手がいるが、長渕剛氏は魂と情熱の込めた歌を力強く歌う。すると、これを聴く人々は感動を覚えたり、勇気を貰ったりと心を動かすのだ。その事で人々は彼に惹かれ、彼をもっと多くの人に知って欲しいと思い方方で目を輝かせ語るだろう。それを聴いた人もまた彼に興味を持ち、その歌声を聴いてその魅力を真に知る。
たくさんの人々の声が歌手「長渕剛」を、とても強く大きな存在として世に生み出す。彼は、更に更に多くの人々の目にその姿を焼き付け、耳に刻み付けるのだ。

さて、存在についての話はこの辺りでやめておくが「勿忘草」という花。その悲話あっての名を冠し、花言葉を持つ。そして、この花を愛するひとはこの背景も含めてその魅力に惹かれている。


さあ、人生とは様々な経験をしていくものである。そしてそれはその人をその人たらしめるものである。このように花や人になぞらえて、表現をすることで人生において悲観するような出来事も無駄ではないとよく分かるだろう。花が花言葉をアイデンティティとするならば、いっそのこと自分の辛い話も自分だけの価値を見出してアイデンティティにしてしまえばいいのではないだろうか。

2/2/2023, 11:51:35 PM