-ゆずぽんず-

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今思えばあっという間に駆け抜けていた人生も、決して無駄にならず私の尊い財産だ。一人親元を離れ遠く仙台の町へ越した私は、地場の建築会社に住み込みで就職した。
仙台までの交通費を送金して貰ったあとの行動は、自分でも驚く程に実に早かった。どこにそんなに行動力と決断力が隠れていたのだろうか、それまでの人生の中で経験したことの無いものを私は感じていた。ゆうちょ銀行で交通費を下ろし、後には引けないという思いと大きな期待を胸に家へ帰る。仙台の会社に就職するから、明日の夕方に出発すると母に伝えたが「向こうに行っても家に金入れてね」という一言だけだったが、寂しさや悲しさはなかった。母親は女で一人で私を、兄弟を育ててくれた。看取してはいるが、些か金銭面に堪らしない所を感じていた。がめつさや執着のような、親ではなく人として好きになれないところがあるからだろうか。夜にひとり、バックパックに数着の着替えや日用品を詰めてそうそうに眠りについた。
広島駅には来たことがなかった為、バスプールがどこにあるか分からず交番や道行く人に道を訪ね歩いた。ピンク色のバスが見え、その車体には大きく私が乗るバスの名前が描かれていた。安い夜行バスの旅だ、広くはなく席は軋む。眠れないまま知らない景色が流れていくのを、ただただ呆然と眺めてはため息を漏らした。仙台に行くことよりも、バスを乗り継ぐことのストレスからくるため息だ。一睡もつかぬ内に新宿の停留所につく。案内の地図を見ても、携帯で乗り継ぎの手順を見てもよく分からなかった。「停留所を出て左方向に歩くと、三角のビルがある。その信号を渡り...」と画面に書いてあるが、はてどうしたものか。三角と言えば三角と言えるビルが沢山見え、頭を悩ます私に通勤途中のサラリーマンが声をかけてきた。どの建物のことだろうか、どの道のことなろうかと親身になって考えてくれたが分からなかった。諦めていると、件のサラリーマンがさらに道行くひとに声をかけ気がつけば10人くらいに囲まれていた。
乗り換え場所まで付き添ってくださった人々は、また日常に帰っていった。目の前にバスに乗れば、あとは仙台だ。仙台行きのバスに乗ったら連絡をして欲しいと、就職先の担当者からメールが来ていた。電話をかけようとするが、電池残量が僅かしかなく電話などとてもじゃないが出来ない。勇気を振り絞り、恥を忍んでバスの乗客に電話を借りられないかと頼み込んだ。怪訝そうな表示読まうではあるが、快く貸してくれたので電話を済ませお礼の言葉をかけた。
仙台駅近くの停留所でバスが停まった。「定禅寺通り」、そう書いてある標識と高いビルをみて不安が押し寄せてきた。こんな都会の街など来たことがなかった私の目には、この待ちそのものが恐ろしい魔物に見えたのだ。辺りを見れば、担当者がエルグランドで迎えに来ていた。挨拶をして乗り込むと、社長だと言って名乗る背の低い男がいたが一目みて反社の人間だと感じた。社長の事務所兼自宅の隣に社宅の戸建住宅に通され、坊主にされたことに驚いている間のなくたくさんの書類に署名捺印を強いられた。雇用契約書では無く、社長たちも「この後登録しに行くから」という。意味はすぐに理解したのは、派遣会社に連れてこられたからではあるが、それよりも何故ここにいるのか理解が出来なかった。訊けば閑散期は派遣で食いつないでいるからだというが、どこの世界に従業員を派遣会社に登録させる会社があるのだろう。ならば人を雇い増やすなと思いはしたが、もう後には引けない。
二年半だ。毎日見せしめに殴られ蹴られ投げられた。現場で下手を打つと、帰社直後に従業員が全員事務所に呼ばれた。事務所のリビングで、社長の前で全員が円になって正座をして説教された。説教だけで終わるようなことはなかった。毎日誰かが執拗に暴力で虐げられ、私も例に漏れず暴力に為す術なく耐えていた。一度だけ社長が激怒したことがあった。同い年の同僚が、社長の知人が店長を勤める店で窃盗を行ったのだからそれは当然だ。しかし、その店長というのがいけない。社長が世話になっていた人で、その人への迷惑もそうだが顔に泥を塗ってしまったという怒りが社長を鬼に変えていたのだ。大きなガラス灰皿が同僚目掛けて飛んだが同僚が避け、さらに腹を立てた社長がグラスを手にして同僚を蹴り飛ばした。その後は凄惨な光景だった。グラスで顔面を何度も殴りつけ、誰もがあまりに酷い様子に何も出来ないでいた。専務が代表を制止し、同僚が起こされ説教が続いた。そんな日々の中で、抜け出すタイミングを模索していた。もちろん、現場で様々な業種や職種の知人を作った。そうして二年半を耐えて過ごしたのだ。
知人が絵を描いてその通りにガラをかわし、ほとぼり覚めるや知人と共に起業をして人生を再スタートさせた。束の間だった。元請けの代理人が金を持って逃げたのは、仕事を受けて二ヶ月後の事だ。従業員も雇用して、みんなで盛り上げていくぞという時に詐欺の被害に遭ったのだ。もちろん逃がしはしなかった。ひと月かけてヤサを特定して囲みに行って、話をしたが既に借金返済に注ぎ込んでいたため泣く他なかった。そこからひと月は営業活動で瞬く間に過ぎていったが、なかなか決まらなかった。最後の綱と、一度だけお世話になった横浜で会社を運営している社長へ電話をして全てを話した。縁に恵まれたのは、運が向いてきたからなのか仕事が舞い込んできた。
一時は30人ほどの従業員が居たが、業務量が減ってきたことから件の横浜の社長へ面倒を見て貰えるよう頼み込んで紹介した。

起業して6年は思えば長いようで、あっという間だったが濃厚だった。知人と意見や会社の運営方針や方向性が合わず、解散したが後悔はない。普通では経験できないことを若いうちに経験させてもらったのだ、これほど嬉しいことは無い。充実した日々だった。色んな会社の社長達だけで集まりを開いて、食事をしながら今後のことを話し合ったり意見交換をしたりもした。ビジネスの場での振る舞い方をたくさんの人に叩き込んでもらったことは、私のゴミのような人生の中ではもっとも有意義だった。財産そのものだ。

私は辛く悲しく、厳しい人生の旅路の果てに今の人間性を得ることが出来たのだ。生きているだけで儲けもんだ。


旅路の果てに

2/1/2023, 3:48:26 AM