勉学や仕事に打ち込むなかで、必ずどこかでその歩みが止まるときは誰にでもあるだろう。問題集を読めば読むほど難解になり、最早意味がわからず放り出してしまいそうになる。何事も順調で立ち止まることなどないと思っていたの仕事に、不安や自信喪失といった心理的なハードルや己自身の処理能力の限界といった壁を前にしゃがみこんでしまう。勉学や仕事に限ったことではないが、一度や二度はそんなことがあるだろう。いやなに、なるほどどうしてか時に器用に立ち回れる者もあることにはある。しかし長い人生のなかで全くないのかというと、そんなことが一度はあったと回顧する者が殆どだ。
辛いことや悲しいことを前に塞ぎ込んでしまえば、目の前の苦しみから逃れることはより一層の困難といえる。己を守るつもりが逆に痛めつける結果になるのは、周囲の声や様々なヒントやきっかけなどあらゆるものを締め出してしまうことで機会を失うからだ。煩わしく思う人との付き合いも、疎ましく思う会話の中にも脱却のヒントが隠れている。多くの人はそれに気が付けないだけで、その多くを無駄にしてしまっている。作詞家や画家が日常の様々な風景から気づきを得ているのはよく知る話だが、それはそういった一部の人達に限った事ではない。実は我々にとっても、同じように多くの気づきを与えてくれる。世間は、言わばたわわに実る果樹のようなものだ。旨味や甘味がギュッと凝縮している果実を見れば、ひとつと言わず二つも三つもと欲張るものだ。しかし、これは魅力的な形がそこにあるからに過ぎない。そこにあるものが甘くて美味しく、喉を潤わせてくれることを誰でも知っている。故に欲張リ、いくつも欲してしまう。ところが、見たことも無いものや自分の知識の曖昧なものでは興味を示さない。避けて通る者もいるだろう。
勉学において、重要な部分を聞き逃さまいと聞き耳を立てたり必死にノートにとるといったことはごくありふれたことだろう。しかし、ノートの使い方やマーカーの使い分けの一つ一つがとても重要性の高いことであることに気がついていない者もいる。ノートの中で、カテゴライズしてみたりマーカー色の使い分けで強調したい部分を視覚化すると後で見直した時に驚く程に分かりやすい。仕事において、効率を求める際にはパソコンを使う業務ならばソフトやアプリケーションで効率化を図る者もいるだろう。Excelを多用する職務内容であれば、より多くの関数を学ぶだけでなくマクロやVBAを用いる者もいるだろう。しかしここで重要なのは、主観的に物事を考えるのではなく一度立ち返って客観視をしてみるということだ。自分のしていることや、しようとしていることが本当に意味を生すものなのか。効率が上がるのか。成績が伸びるのか。客観的に物事を見つめ直すことで、自分には考え及ばなかったことや、なるほど素晴らしいと思えるアイデアを周囲から見つけることができる。
実際に溢れかえる情報の中から、自分が今必要としているものを見つけ出して掴んだときにその価値をどれだけ見いだせるかは本心次第になる。有用性を引き出し、価値をつけるのは自分次第である。掴んだものの、いやはや時期尚早であったか使い切ることが出来なかったと思うこともあるだろう。人の気分は、様々な情況に忙しなく浮き沈みをする。価値を見いだした掴んだそのヒントやきっかけも、生かさなければ全てが無駄になるだろう。得たりと顔を緩ませている隙に、それは消えてなくなってしまう。しかし掴んだ瞬間に自分のものにして使おうにも思案が足りない、そのタイミングが間違っていればまるで意味が無い。パズルのピースのようなものだが、かといって言うほど難しい問題ではない。主観的に物事を見るだけでなく、客観的に物事を見ることの大切さについて触れた。では、その機会も俯瞰して考えてみよう。角度を変えて多角的に見定めてみれば、案外すんなり嵌め込むことができるものだ。
なにかに失敗して挫けたり落ち込んだり、なにかに不安を感じて立ちすくみ周りに置いていかれたり自ら後ずさったりする。かと思えば、何事も上手くいき、全力で駆け抜けてみたり、飛び越えてみたりする。その時に不安も何も感じることはなく、強く背中を押されるように前へ前へ駆ける。人生などその繰り返しでしかなく、今生きるこの時間は、そんな繰り返しの中のほんの一瞬に過ぎない。一喜一憂することがあれど、不自由や不満を吐露することはあれど直ぐに過ぎ去っていく。嬉々として歩を進める時が、そんなことを忘れさせる。
人生なんてブランコのようなものさ。怯え挫け慄いて、誰かの後ろに隠れてもからに籠って背中を丸くしていても何かに背中を押されるよう前え飛び出す。誰かがその背を押すのか、自分自身が立ち返って押すのか。それはその時々で違うだろう。だか、後ろに退いたとて必ず前へ進み出す時が来るのが人生だ。仕事も勉強も躓いたって、気づけばそんなことも忘れて打ち込んでいるものさ。
そんなものさ。
今思えばあっという間に駆け抜けていた人生も、決して無駄にならず私の尊い財産だ。一人親元を離れ遠く仙台の町へ越した私は、地場の建築会社に住み込みで就職した。
仙台までの交通費を送金して貰ったあとの行動は、自分でも驚く程に実に早かった。どこにそんなに行動力と決断力が隠れていたのだろうか、それまでの人生の中で経験したことの無いものを私は感じていた。ゆうちょ銀行で交通費を下ろし、後には引けないという思いと大きな期待を胸に家へ帰る。仙台の会社に就職するから、明日の夕方に出発すると母に伝えたが「向こうに行っても家に金入れてね」という一言だけだったが、寂しさや悲しさはなかった。母親は女で一人で私を、兄弟を育ててくれた。看取してはいるが、些か金銭面に堪らしない所を感じていた。がめつさや執着のような、親ではなく人として好きになれないところがあるからだろうか。夜にひとり、バックパックに数着の着替えや日用品を詰めてそうそうに眠りについた。
広島駅には来たことがなかった為、バスプールがどこにあるか分からず交番や道行く人に道を訪ね歩いた。ピンク色のバスが見え、その車体には大きく私が乗るバスの名前が描かれていた。安い夜行バスの旅だ、広くはなく席は軋む。眠れないまま知らない景色が流れていくのを、ただただ呆然と眺めてはため息を漏らした。仙台に行くことよりも、バスを乗り継ぐことのストレスからくるため息だ。一睡もつかぬ内に新宿の停留所につく。案内の地図を見ても、携帯で乗り継ぎの手順を見てもよく分からなかった。「停留所を出て左方向に歩くと、三角のビルがある。その信号を渡り...」と画面に書いてあるが、はてどうしたものか。三角と言えば三角と言えるビルが沢山見え、頭を悩ます私に通勤途中のサラリーマンが声をかけてきた。どの建物のことだろうか、どの道のことなろうかと親身になって考えてくれたが分からなかった。諦めていると、件のサラリーマンがさらに道行くひとに声をかけ気がつけば10人くらいに囲まれていた。
乗り換え場所まで付き添ってくださった人々は、また日常に帰っていった。目の前にバスに乗れば、あとは仙台だ。仙台行きのバスに乗ったら連絡をして欲しいと、就職先の担当者からメールが来ていた。電話をかけようとするが、電池残量が僅かしかなく電話などとてもじゃないが出来ない。勇気を振り絞り、恥を忍んでバスの乗客に電話を借りられないかと頼み込んだ。怪訝そうな表示読まうではあるが、快く貸してくれたので電話を済ませお礼の言葉をかけた。
仙台駅近くの停留所でバスが停まった。「定禅寺通り」、そう書いてある標識と高いビルをみて不安が押し寄せてきた。こんな都会の街など来たことがなかった私の目には、この待ちそのものが恐ろしい魔物に見えたのだ。辺りを見れば、担当者がエルグランドで迎えに来ていた。挨拶をして乗り込むと、社長だと言って名乗る背の低い男がいたが一目みて反社の人間だと感じた。社長の事務所兼自宅の隣に社宅の戸建住宅に通され、坊主にされたことに驚いている間のなくたくさんの書類に署名捺印を強いられた。雇用契約書では無く、社長たちも「この後登録しに行くから」という。意味はすぐに理解したのは、派遣会社に連れてこられたからではあるが、それよりも何故ここにいるのか理解が出来なかった。訊けば閑散期は派遣で食いつないでいるからだというが、どこの世界に従業員を派遣会社に登録させる会社があるのだろう。ならば人を雇い増やすなと思いはしたが、もう後には引けない。
二年半だ。毎日見せしめに殴られ蹴られ投げられた。現場で下手を打つと、帰社直後に従業員が全員事務所に呼ばれた。事務所のリビングで、社長の前で全員が円になって正座をして説教された。説教だけで終わるようなことはなかった。毎日誰かが執拗に暴力で虐げられ、私も例に漏れず暴力に為す術なく耐えていた。一度だけ社長が激怒したことがあった。同い年の同僚が、社長の知人が店長を勤める店で窃盗を行ったのだからそれは当然だ。しかし、その店長というのがいけない。社長が世話になっていた人で、その人への迷惑もそうだが顔に泥を塗ってしまったという怒りが社長を鬼に変えていたのだ。大きなガラス灰皿が同僚目掛けて飛んだが同僚が避け、さらに腹を立てた社長がグラスを手にして同僚を蹴り飛ばした。その後は凄惨な光景だった。グラスで顔面を何度も殴りつけ、誰もがあまりに酷い様子に何も出来ないでいた。専務が代表を制止し、同僚が起こされ説教が続いた。そんな日々の中で、抜け出すタイミングを模索していた。もちろん、現場で様々な業種や職種の知人を作った。そうして二年半を耐えて過ごしたのだ。
知人が絵を描いてその通りにガラをかわし、ほとぼり覚めるや知人と共に起業をして人生を再スタートさせた。束の間だった。元請けの代理人が金を持って逃げたのは、仕事を受けて二ヶ月後の事だ。従業員も雇用して、みんなで盛り上げていくぞという時に詐欺の被害に遭ったのだ。もちろん逃がしはしなかった。ひと月かけてヤサを特定して囲みに行って、話をしたが既に借金返済に注ぎ込んでいたため泣く他なかった。そこからひと月は営業活動で瞬く間に過ぎていったが、なかなか決まらなかった。最後の綱と、一度だけお世話になった横浜で会社を運営している社長へ電話をして全てを話した。縁に恵まれたのは、運が向いてきたからなのか仕事が舞い込んできた。
一時は30人ほどの従業員が居たが、業務量が減ってきたことから件の横浜の社長へ面倒を見て貰えるよう頼み込んで紹介した。
起業して6年は思えば長いようで、あっという間だったが濃厚だった。知人と意見や会社の運営方針や方向性が合わず、解散したが後悔はない。普通では経験できないことを若いうちに経験させてもらったのだ、これほど嬉しいことは無い。充実した日々だった。色んな会社の社長達だけで集まりを開いて、食事をしながら今後のことを話し合ったり意見交換をしたりもした。ビジネスの場での振る舞い方をたくさんの人に叩き込んでもらったことは、私のゴミのような人生の中ではもっとも有意義だった。財産そのものだ。
私は辛く悲しく、厳しい人生の旅路の果てに今の人間性を得ることが出来たのだ。生きているだけで儲けもんだ。
旅路の果てに
生きていれば誰かのあたたかい気持ちを受けることは少なくはないと思うが、同じようにあたたかい気持ちでなにかをしてあげたいと思ったことはとても多異様に感じる。幼少の頃より周囲のあたたかく優しい心に触れてきたが、そのどれもが見返りを求めるものではなく慈悲や慈愛、或いは単に親切心からなるものだったと感じている。そしてどんな言葉も気持ちも、相手を想うという素直なものだったようにも思う。私もまたそう感じて心から嬉しく思ったし、この喜びをほかの誰かにも共有したかった。共感して欲しいという思いと、自分が受けた親切心の心温まる気遣いを誰かにしてあげたいと思った。時にお節介と思われようが迷惑だと思われようが、誰かに喜んで欲しい。私が味わった喜びと嬉しさ、温かさと見返りを求めない優しさを同じように誰かに注ぎたかった。だから毎日誰彼構わず声をかけ、手伝いを申し出たり話を聞くなどしてきた。驚く人、戸惑う人もあったが皆一様に最後は笑顔を見せ「ありがとう」と笑った。
「恩返し」という言葉は、誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。実際に、恩を受けた相手にその恩を報いて返すことを考えたことのある人は多いのではないだろうか。例えばの話になるが、イベント事であるないに限らず、ひとから頂き物をしたときに機会をみてお礼をしようと考えるだろう。それは単なるお礼であるように思えるが、その実は「どんなものを贈れば喜んでくれるだろうか。何をしてあげれば嬉しいだろうか」と相手の気持ちになって考えたりする。相手の喜ぶ顔を思い浮かべ、あれこれ考えては想いをめぐらせる。友や知人から受けたものを以上に、相手の幸福を考えるのはとても素晴らしい事だ。恩返しと言うと難しく考えてしまうかもしれないが、実のところ恩返しというのは自分自身が与えられ、または施された善意に感謝し相手を想うことだと私は考えている。「恩」と言う言葉だけが独り歩きしているが、深く考えることは無い。されて嬉しかった、有難かったというその喜びをそっくりそのまま返すだけなのだ。バレンタインデーに女性からチョコを頂き、それは女性が義理で用意したのだとしてもその心遣いや頂いたという事実は嬉しいものだ。そしてそれを返したい、喜んで欲しいと思うことで相手のことを考えて思案してプレゼントを贈る。このとき胸にあるのは単純な気持ちに過ぎないが、その気持ちが重要である。「喜んでくれるだろうか」というその人に寄り添った心と、喜ばせたいと思うあたたかく優しい想いた。恩というのは押し付けるものでも、押し付けられるものでもない。恩というのは無理に感じるものでもなければ、無理に返そうとするものでもない。義務感を持った途端に、相手を慮る気持ちなどなくなってしまう。ストレスでしかなく、「返さねば」という重い枷になってしまいかねないものだ。
人から受けた親切や気遣い、あたたかい言葉や愛情が受け手の心を豊かにする。「あの先輩にはとても可愛がってもらったし優しくしてもらったから、今度は私が後輩や他の人に優しくしよう」と思うことは誰にでもあるだろう。そして実際にそのように行動する。優しい言葉をかけ、必要に応じて手を差し伸べたり助言をしたりといったサポートをする。これらの言行は、先輩の優しさや温もりを今度は自分が誰かに与えたいという思い。或いはそんな先輩のように、「人のために、自分に出来る何かをしてあげられるような人間になりたい」という思いからなるものだろう。恩というものを何にでも併せて考えるのは、私は少々強引で非常に矮小だと捉えている。しかし、人から受けた優しさを今度は誰かに贈りたいというものを「恩送り」という。
「還著於本人」という言葉がある。これは日蓮宗の法華経(妙法蓮華経)の中で説かれている教えである。「還って本人に著きなん」といういみである。わかり易く言えば、自分の行いは善行悪行にかかわらず巡り巡って還ってくるというもの。つまり、人にやさしくすればいつか誰かの優しさを受けるだろう。人に悪意をもって接すれば、いつか誰かの悪意に晒されるだろうというもの。恩送りというのは非常にこの教えに近いものがある。先程の例えで言うと、先輩に優しくしてもらったから今度は後輩に優しくする。するとその優しさを受けた後輩は優しくしてくれた人だけでなく、その先輩のことも良く思う。恩送りとは、本人に直接恩を返すのではなく受けた恩を今度は誰かに与えることで恩人に音を返す(還す)ことに繋がる。
私は今までに数え切れないほど多くの人達と関わって来た中で、同じように数え切れないほどの施しを受けた。時にアドバイスであったり、お叱りであったり。躓いたときは手を、辛い時には肩を何も言わず貸してくれた。そんな人々に、ついに恩を返すことは叶わなかった。しかし、私が受けた慈悲や慈愛。あたたかい心や気遣いを今度は誰かに注げばいいのだ。だから、私はいつも胸に恩人の一人一人の優しい笑顔を大切にしまっている。いつもどんな時も支えてくれた人達と同じように、この想いが誰かの心に届けるために。
そしてまだ見ぬあなたに届けたい、私が受けた愛を。
毎日の暮らしの営みの中にも艱難辛苦は尽きず、難儀することからは逃れられない。しかしながら、それは決してただ自身を責め立てるためにあるものでもない。雨や雪、嵐や吹雪。雷の鳴り止まぬ時もあれば、蒸し返すような時もある。強く照り返す日照りの暑い時もある。自然や植物はこれらの如何に困難な状況の中にあっても、その環境に順応して成長を止めることなく成長を続ける。ひとは、暮らしの中で他人の悪意を真っ直ぐ受けることが往々にしてある。面と向かい悪口を言われ、己の知らぬところで陰口を叩かれる。立場の差や身分の差などによって、圧力をもって一方的に押しのけられることもある。意見を排除され思想を否定され、人格さえも否定され尊厳を踏みにじられることもある。
救いようのない絶望の中に、希望へ続く一筋の細い細い糸を見出すことさえ出来たなら瞬く間に明転するだろう。どこまでも何時までも照らし続ける眩い日差しが、今まさに苦難に伏せていた自分を掬いあげるだろう。雨に打たれ嵐に吹かれ、雪が舞い雷が鳴り響く地獄のような大地に緑豊かな自然が蘇るだろう。目の前には青々とした世界が広がり、生き物たちの声に包まれ命を感じるだろう。足元など気にしなくとも、強く足を踏み出して歩くことの出来る虹色の道が明るい明日へ導いてくれるだろう。
人生の中で意図せず、或いは誰かの力によって険しい谷底へ突き落とされることは誰にでもある。手を差し伸べてくれる人はおらず、叫び声を上げようとも決して耳を傾けてくれる人はいない。虚しく通り過ぎ目の前を去っていく人の流れに、声を上げ救いを求めようとも聞こえていないか声が届かないのか誰も振り返ることすらしない。悲しみや寂しさに暮れ、気がつけば誰でもなく憎んでいる。人を憎むでも世を憎むでもない、「いま」という時そのものを憎む。そうすることで己を守ろうとするのは、本能ともいえるだろうか。悲しいかな、守ろうとすればするほど谷底はぬかるむ。藻掻くほど呑み込まれ、益々苦しくなっていき声も更に届かなくなる。
神仏に身を委ね、救いを求める人や導きを求める人は多い。しかし、重要なのは己の力でヒントを得ることだろう。私の家系は「日蓮宗」を信仰している、いやいや心から信仰しているのは家族の中では私だけだ。日蓮宗のお経のなかに「還著於本人」という教えがあるが、これは「還って本人に著きなん」というもの。わかり易く言えば、「己のしたことは、いつか巡り巡って還ってくる」というもの。
日頃から人に親切にしているひとは、同じように誰かの親切を受けている。人に悪意を持って接していれば、同じようにいつか巡り巡って悪意に晒される。善行を積めば、些細な幸せに気がつくことが出来て豊かな暮らしを見出すことが出来る。悪行を積めば、不自由や不便ばかりと悪意をもって不平不満をばかりを叫び、些細な幸せに気がつけない。仏教の教えとは、暮らしの中でいかにヒントを得るか。いかにきっかけを掴み、自分の出来るかといったものである。深く考えてしまいがちだが、実はそうでは無い。長いと思える人生も、いつどこで果てるともしれない命。そんな儚く尊いものを前にして、悩みや苦難など大したことではない。下を向いている暇を、いかに有効に使うかは自分次第。とりあえず周りを見てみよう、そこにヒントやきっかけが転がっているが、心を落ち着かせ目を凝らせばハッキリと見えてくる。その後のことは自分で決めればいい。どうしたいどうしていきたいのか、自分で掴み取った財産の使い道は心静かに吟味してみるといい。
私は人生のどん底に堕ちたが、それは人の悪意によるものがきっかけだった。しかし、不甲斐ない自分自身にもその原因はあった。救いを求めて声をかけても一蹴され、ひとを恨み憎んだ。そんな時に、そんな自分がいかに稚拙で情けのない人間なんだと。未熟で他力本願な人間なんだと気が付いた。落ち着いて窮地を脱する方法を考えて、実際に行動に移すまではあっという間だった。その瞬間、私は山々を見下ろすことの出来るほどに雄大な山の頂きで美しい景色を眺めることができたのだ。
考え方など人それぞれだ。私の言葉を鼻で笑う者もあるだろうし、なるほどそうかと手を打つものもあるだろう。それでいい、それでいいのだ。それが人間だ、それでこそ人間だ。
私は、こんな自分のことを愛しているのだ。
「I LOVE...」
山と海に面した自然の恵みが豊富な地元を離れたのは、19際になろうかという時分だった。生まれた頃からこの小さな海の町で育った。田舎とまではいかないまでも、街というには小さすぎる。そんな町で幼い頃から沢山の友人や師に恵まれ、数え切れないほどの思い出を育んだ。そりゃあ私だって人間だ。誰かを疎ましく思ったり、憎んだりしたことだってあった。
小学2年生の頃。時期こそ覚えていないが、道徳かなにかの授業をしていた。みんなで机を丸く並べて、ディスカッションのようなことをしていたのかもしれない。誰かに名を呼ばれたら中心に置いてある机の前に立って、テーマに沿って自分の思いや考えを発言する。クラスの全員が発言するよう、時折、まだ発言をしていない児童に先生から名を呼ぶ声が挙がっていた。物心ついた頃から話すことが大好きな私は、誰よりも早く自分の想いを語っていたと思う。子供の話すことなので、もちろん支離滅裂だったと思う。けれど、クラスのみんなや先生は大きな拍手と嬉しい感想を返してくれた。
彼に興味を持った。否、正確に言えば彼を初めて認識したのはそんな授業中のこと。一際、身長の低い男の子が名を呼ばれて中央の机に向かったのだが、その動きも一際ゆったりとしていた。名は「シュンスケ」くん。クラスでも身長の低かった私よりもシュンスケくんは更に低かったんだ。そんな彼がクラスにいたことも知らなかったのは、授業が終われば無邪気に駆け回る子供だったからであろう。そんな私も、彼のことが気になって仕方がなくなっていた。どんな子なんだろう。何をして遊んでいるんだろう。好きなものはなんだろうと色んなことを考えた。が、考えるよりも動くことの方が早かったかもしれない。彼に声をかけていた。確か一言目は「ねぇねぇ。なんしょん?いっしょに遊ぼうや」だった筈だ。「筈だ」と言ったのには理由がある。私は人見知りをしないので誰にでも簡単に話しかけていくような子供だった。それこそ大人にも躊躇なく。
シュンスケくんと友達になってから、毎日のように彼の家へ遊びに行っていた。彼や彼のお兄ちゃん、お兄ちゃんの友達やその友達の兄弟。大所帯で毎日騒いで「スーパーファミコン」で遊んでいた。笑顔と笑い声で溢れ、それはとても楽しい時間を毎日毎日。シュンスケくんにはイタズラもしたんだ。彼がトイレに行けば、そっと忍び足で近づいて施錠されていない扉を思いっきり開け放つ。すると彼は一瞬驚いた顔をするが、直ぐに満面の笑顔で「もー!しめて!」と怒る。悪いとは思っていてもなにぶん年端も行かぬ子供、また直ぐに同じことをするんだ。
そうか。思い出した。彼と出会った道徳の授業、あれは春だ。二年生になってすぐに道徳の授業。将来の夢や目標をテーマにして、併せて自己紹介をしたんだ。それで彼のことを知って興味を持った。何故ここで、こんな大事なことを思い出したのか。それは私にとって、この先いつまでもずっと忘れることが出来ない出来事が記憶を曖昧にしているからだ。とても切なくて悲しい、胸が張り裂けるような辛い出来事だった。
彼と出会った道徳の授業から、夏休みまではあっという間だった。毎日重い瞼をこじ開け、眠い目をこすりながら登校した。授業は楽しかったし、小休憩や大休憩には友人たちと沢山お喋りをした。昼休憩には、美味しいご飯をみんなと一緒に笑顔で頬張った。夏休みまであっという間に感じたのは、そんな毎日を送っていたからだろう。夏休み中は、宿題や友達との約束で忙しなかった。50円玉を握りしめて市民プールに急いでは、兄弟や友人たちとじゃれあって、沢山泳いだ。シュンスケくんと遊ばなかったのは、夏休み前に風邪をこじらせて休んでいたからだった。いつ治るか分からないし、治っていても遊びに行っていいのかわからなかった。あんなに非常識なくらい、毎日遊びに行っては騒いでいたのにどうしていいのかわからなかったんだ。「シュンスケくん、風邪が治ったらまた一緒に遊ぼうね」そんな内容の手紙を書いた。長くはないが、彼を心配して筆を走らせた。大事に手に持って彼の家に届けに行ったが、郵便ポストがどこにあるか分からなくて窓や玄関に挟めないかと試してみたものの、無理だった。それで諦めて帰ったんだ。彼に会えなくて寂しくて泣きながら帰った。
夏休みが終わった。みんな思い思いに学校へ足を運ぶ中、私はシュンスケくんのことだけを考えていた。風邪は治っただろうか、元気になったのだろうか。はやる気持ちと不安の両方を胸に抱え宿題で重くなったランドセルを背負って歩いた。校門を過ぎて校舎が見えて気持ちを抑えられなくなった私は、シュンスケくんに早く会いたくて教室までなりふり構わず走った。
とうとう彼に会えなかった。教室に飛び込んだ私の目に映ったのは、彼の机に添えられた花瓶だった。教室に入ってきた先生が挨拶を早々に、「みんなに大事なお話があります」と言った。先生は何を話すのだろう。彼の机に花瓶があるのは何故だろう。なぜ彼はいないのだろうと、考えをめぐらしていた私の耳に先生の言葉が飛び込んできた。「シュンスケくんは、ご病気で夏休み中にお亡くなりになりました」と震える声が教室の喧騒を吹き飛ばした。ずっと病気と闘っていたという。苦しいのに、痛いのにいつも笑顔でいた彼は兄弟や友人には一切、そんな苦しそうな姿を見せなかった後になって聞かされた。「楽しく遊んでいたいから、心配をかけたくないから」と彼なりの精一杯の思いやりと強がりだったそうだ。
今は同級生や友人とは縁が離れてしまった。それでも彼、「シュンスケ」くんのことだけはいつまでも色褪せない記憶として胸に焼き付いている。19歳になる前に地元を離れ、遠く宮城は仙台にひとり移住をした。地元が嫌になったとか、嫌いだからとかそんなことではない。もっと広い視野で世の中を見てみたかったから。新しい自分に出会いたかったからだ。
今私は新しい自分になって大きな街「杜の都 仙台」で彼のことを思い出して冬の澄んだ空を眺めている。いつまでも彼と過ごした時間は忘れることはないだろう。彼の笑顔を忘れることは無いだろう。
ネオン輝く宮城の大きな街へ、白い息を吐きながら改めて彼を強く想う。
彼はいつも私の記憶の中で、永遠に。
#街へ