世の中には善悪の判断ができないひとが、一定の割合で存在する。それは単に「これはしてはいけない」、「これはしてもいい」などの区別だけでは無い。物事の本質やその言行が及ぼす影響や結果といった想像を伴うものである。物心ついた頃から様々なことを体験しながら成長する。その過程で経験したことなどを元に、善し悪しや影響が及ぼす事柄を考えます。つまるところ、ひとは幼い頃から物事の善し悪しや是非を学ぶ以前に想像力を養って育っていく。その想像の及ぶ範囲というのは人それぞれであり、イメージの仕方にも十人十色の違いがある。事細かに細部までイメージをする人もいれば、漠然とした全体像だけをイメージする人もいる。
例えば絵を描く時、遥か遠くに見える山々の木々や緑豊かな葉の一枚一枚まで繊細に描く人がいれば、雄大で壮大な山と太く幹を構えた大樹を描く人もいる。これはどちらかが優れていて劣っているというものではなく、描くひとが何を思って絵を通して何を伝えたいのかによる。例えば木を描く時、その生命力の強さや春夏秋冬、様々な天候の中逞しく生きる姿から「命」を意識して太くどっしり構えた木を力強く描く人。例えば、木の枝枝や木の葉の一枚一枚に命の尊さ儚さ切なさを見出して優しく温かく描く人。
想像の域や程度はひとりひとりに差であったり、度合いに違いがある。しかし、自分の行うことの結果や及ぼす影響などは親や周囲の大人、それこそ同世代のひとたちと過ごす中で学んでいく。何をすれば嫌がられ、なにをすれば喜ばれるのか。それは、人と接していく中で実際に経験していくことで自分自身の判断材料になっていく。人とのかかわり合いの中でより豊かな想像力を育んでいき、これにより物事の善悪や影響と結果を意識して行動するようになる。
しかし残念ながら、幼少期や成長期に家庭の事情や状況から、そうした基本的には教えなくても学んでいき、養い育んでいくはずの人間性を身につけることなく成長してしまうひとがいる。物事の判断基準に人の喜怒哀楽や気持ちなどはなく、あるのは自分自身の願望や欲望。そして、それをしたいからするという本能的な思考と動機である。
「優しさ」というお題に対して、長々と口弁を垂れたのには理由がある。例えば家族内など身内同士では割と間違いや誤解、常識に欠ける部分を指摘し合うことは一般的でしょう。しかし、これが友人同士となるとなかなかに話が変わってくる。というのは、友人同士とはいえ他人同士でありながら気を同じくして付き合っている関係。「気分を害してしまうのではないか」、「指摘したら仲違いするのではないか」と要らぬ気を遣ってしまうでしょう。ところが、この気遣いは相手を思ってのものではなく自分自身の保身の為に過ぎない。
「言われるうちが華」という言葉があります。これは「ひとが注意をしてくれるうちは、気にかけてくれている証拠だから、よく耳を傾けなさい」というもの。では、注意をする人は好き好んで口酸っぱく指摘をしている訳ではありません。相手が成長してくれるなら嫌われ者になっても構わないという気持ちがそこにはあります。相手を想うからこそ厳しいことを言う。相手を想うからこそ言いづらいことも言う。相手を想う優しさとは、得てして時に自分の心苦しさをも伴うのです。
「人にやさしく」、「環境に優しく」というと温かく包容力のあるイメージをするものです。しかし実際には包容力だけでなく芯の強さや逞しさと強さを持ち合わせています。人にやさしくできる人というのは自分を律して、自分自身に厳しくなれるのです。環境に優しく行動できる人は、生活の中でもそのストイックさや自身への厳しさは目を見張るものがあります。
冒頭に触れた、善悪の判断が出来ないひとが一定数いるというもの。SNSが普及して「自分」というものを発信し易くなった現在、様々な方法でアピールをするひとがいます。その中で俗に言う「バカッター」や「バイトテロ」はひとりで撮影している方もいれば、同僚や友人同士で撮影しています。では、この時にもしもその場のノリなどというものに支配されず、相手の気を害してしまうと思っても注意をするなどしていれば過ちを未然に防ぐことは出来たはずです。もちろん、その場では未然に防いでも本人に迷惑や自分の行動が及ぼす影響についてなにも意識をしていなければ、どこかで誰かの注意を受けることなく過ちを犯してしまうかも知れません。しかし、注意をしたことによって意識を芽生えさせることができるかもしれません。意識を持たせることができるかもしれません。
相手のことを想うなら、その場のノリや雰囲気などに構わずその場で注意をしてあげることが本当の優しさなのではないでしょうか。それで嫌われて離れていくならその程度の関係だった。その程度の友情だったということです。しかし、そこに本当に友情があるならば、注意に耳を傾けてくれます。優しさとは心を鬼にするということにほかなりません。また、これは自分自身にも言えることです。自分のことを心から大切にしてあげるためには自分を律する厳しさや、自分を労ってあげることのできる温かくて大きな心が必要です。
「優しさ」とはなにも親切なものでは無いということを胸の片隅にでも置いておくことができれば、人生はもっと豊かになるのではないでしょうか。
#優しさ
「ミッドナイト」と聞いてふと頭に浮ぶのは、日本の俳優「大沢たかお」主演の映画「ミッドナイトイーグル」。この作品は小説家「高嶋哲夫」の小説が原作で、2007年に日米同時公開された映画です。北アルプスに墜落した、たった一機のステルス爆撃機をめぐって繰り広げられる手に汗握る熱い戦い。次々に展開されるハラハラドキドキとした物語に、最後まで気の抜くことは出来ない。心を鷲掴みにされること間違いなし。最高にスリリングなスペクタクル映画なので、興味がある人は一度は観てみる価値が十分にあると言える。
話は大きく変わってしまうが、「ミッドナイト」と聞いてもうひとつ思い浮かぶものがある。ミッドナイトは日本語で「真夜中」を意味する。私には真夜中の静かな時間に、特別な思い出がある。
私がまだ15歳の頃の話になるので、今からもうだいぶ遡る話になろうか。真夜中にテレビ放送されていた米国のテレビドラマ「LOST」。私が観始めた時には、既に幾らか話が進んでいたため最初こそ話が見えず、訳が分からない状況だった。主人公達が、大海原にぽつんと存在する島でサバイバルライフを送る。自分たち以外の人間の存在を感じ始めたり、脱出方法を探してヒントを得るが、それが潰えるなど、どこまでも先の読めない作品となっている。アメリカのテレビドラマでは割とメジャーなドラマ「LOST」。そして、同じく話題に登ることの多い「プリズン・ブレイク」や「24 -TWENTY FOUR-」は日本にもファンは多いのではないだろうか。
昨今のテレビドラマには、新鮮味や斬新さというものが少し物足りなくなっていて食傷気味だ。こういう時こそ、過去の素晴らしい作品に改めて触れてみるのも気晴らしになっていいかもしれない。今、改めて観てみることで、違った視点や考察で作品を楽しむことが出来るかもしれない。
#ミッドナイト