-ゆずぽんず-

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毎日の暮らしの営みの中にも艱難辛苦は尽きず、難儀することからは逃れられない。しかしながら、それは決してただ自身を責め立てるためにあるものでもない。雨や雪、嵐や吹雪。雷の鳴り止まぬ時もあれば、蒸し返すような時もある。強く照り返す日照りの暑い時もある。自然や植物はこれらの如何に困難な状況の中にあっても、その環境に順応して成長を止めることなく成長を続ける。ひとは、暮らしの中で他人の悪意を真っ直ぐ受けることが往々にしてある。面と向かい悪口を言われ、己の知らぬところで陰口を叩かれる。立場の差や身分の差などによって、圧力をもって一方的に押しのけられることもある。意見を排除され思想を否定され、人格さえも否定され尊厳を踏みにじられることもある。
救いようのない絶望の中に、希望へ続く一筋の細い細い糸を見出すことさえ出来たなら瞬く間に明転するだろう。どこまでも何時までも照らし続ける眩い日差しが、今まさに苦難に伏せていた自分を掬いあげるだろう。雨に打たれ嵐に吹かれ、雪が舞い雷が鳴り響く地獄のような大地に緑豊かな自然が蘇るだろう。目の前には青々とした世界が広がり、生き物たちの声に包まれ命を感じるだろう。足元など気にしなくとも、強く足を踏み出して歩くことの出来る虹色の道が明るい明日へ導いてくれるだろう。
人生の中で意図せず、或いは誰かの力によって険しい谷底へ突き落とされることは誰にでもある。手を差し伸べてくれる人はおらず、叫び声を上げようとも決して耳を傾けてくれる人はいない。虚しく通り過ぎ目の前を去っていく人の流れに、声を上げ救いを求めようとも聞こえていないか声が届かないのか誰も振り返ることすらしない。悲しみや寂しさに暮れ、気がつけば誰でもなく憎んでいる。人を憎むでも世を憎むでもない、「いま」という時そのものを憎む。そうすることで己を守ろうとするのは、本能ともいえるだろうか。悲しいかな、守ろうとすればするほど谷底はぬかるむ。藻掻くほど呑み込まれ、益々苦しくなっていき声も更に届かなくなる。
神仏に身を委ね、救いを求める人や導きを求める人は多い。しかし、重要なのは己の力でヒントを得ることだろう。私の家系は「日蓮宗」を信仰している、いやいや心から信仰しているのは家族の中では私だけだ。日蓮宗のお経のなかに「還著於本人」という教えがあるが、これは「還って本人に著きなん」というもの。わかり易く言えば、「己のしたことは、いつか巡り巡って還ってくる」というもの。
日頃から人に親切にしているひとは、同じように誰かの親切を受けている。人に悪意を持って接していれば、同じようにいつか巡り巡って悪意に晒される。善行を積めば、些細な幸せに気がつくことが出来て豊かな暮らしを見出すことが出来る。悪行を積めば、不自由や不便ばかりと悪意をもって不平不満をばかりを叫び、些細な幸せに気がつけない。仏教の教えとは、暮らしの中でいかにヒントを得るか。いかにきっかけを掴み、自分の出来るかといったものである。深く考えてしまいがちだが、実はそうでは無い。長いと思える人生も、いつどこで果てるともしれない命。そんな儚く尊いものを前にして、悩みや苦難など大したことではない。下を向いている暇を、いかに有効に使うかは自分次第。とりあえず周りを見てみよう、そこにヒントやきっかけが転がっているが、心を落ち着かせ目を凝らせばハッキリと見えてくる。その後のことは自分で決めればいい。どうしたいどうしていきたいのか、自分で掴み取った財産の使い道は心静かに吟味してみるといい。


私は人生のどん底に堕ちたが、それは人の悪意によるものがきっかけだった。しかし、不甲斐ない自分自身にもその原因はあった。救いを求めて声をかけても一蹴され、ひとを恨み憎んだ。そんな時に、そんな自分がいかに稚拙で情けのない人間なんだと。未熟で他力本願な人間なんだと気が付いた。落ち着いて窮地を脱する方法を考えて、実際に行動に移すまではあっという間だった。その瞬間、私は山々を見下ろすことの出来るほどに雄大な山の頂きで美しい景色を眺めることができたのだ。


考え方など人それぞれだ。私の言葉を鼻で笑う者もあるだろうし、なるほどそうかと手を打つものもあるだろう。それでいい、それでいいのだ。それが人間だ、それでこそ人間だ。

私は、こんな自分のことを愛しているのだ。


「I LOVE...」

1/30/2023, 12:39:16 AM