胸の鼓動が静まるのを期待している。何もかもが素敵で最高で、けど憎らしいので、相対してなお騒ぐときめきを殺したくなる。
「今日も僕に負けて泣くの?」
「うるさいな」
「悔しいならそう言えばいいのに、意地っ張りだね。マ、僕が勝つのは当然なことだから。研鑽怠る日々にはスポットライトも届かない!」
そう自信満々に胸を張る姿ばかり目に入る。眩く愛らしく、恨めしい。ついこのあいだは、うちで鏡を見た時にいくつか叩き壊してしまった。焼きついた光と自分の姿が違いすぎて。
それでも馬鹿で間抜けなアンチファンを「アイドルが見せる傷にしては痛々しすぎる」と両手で救うのだから、もう、愛すか憎むかしかなかったのだ。
いま、強欲に両方を選んでいる。強欲だけは彼の者に勝る自負がある。
そして何も思わなくなる日々すら望んでいる。
「うん、うん、わかるさ。苦しくてしんどくて、すべて手放してしまいたくなるんだろう」
また真っ白な手が救い上げる。君の両手は愛憎で埋まっているのだからと、3つめの欲は似合わないのだと、静かに体の輪郭をなぞり落とす。取り出して握りつぶしたい心臓を、柔らかく体内へ押し留めながら。
「でもね。君には及ばないけれど、僕だって欲があるんだ」
僕を忘れてどこかに隠れないで、と。忘れさせてもくれない傲慢さごとうっとり微笑むと、やはり、胸の鼓動は跳ね回る。
昼間は潮騒に程遠い。日差しとカーテンが手を取り合って眠気を送るので、おれはそれに逆らわず目を閉じる。でも程遠い。
夜。部屋の明かりを消すと知らない闇が広がる。夕飯を終え、歯を磨き、明日の準備をして、それから飛び込む。ぬるい空気は慣れた水温みたいに肌を撫でた。
おれの海はここにある。
一面だけの窓は山側を向いている。街灯にそっぽを向いて網戸で飛ぶ虫を隔てば、波のような風だけ。気まぐれな寄せ引きだけがくらい部屋に訪れる。
いくらか味わったあとにしずかに目を閉じて、耳の奥で音を聞いた。
ぐう、ごお、さあ、ざあ。カーテンは闇色と海色の間ではらむ。
さあ、ざあ、ざあん、ざざん。波の音がつぎはぎの幻に染みわたる。
朝日がおれを打ち上げるまでくらいゆりかごで眠った。
足を鳴らす。もしくは手を鳴らす。それか口笛も。「ヒューヒュー」と言ったとて、まるごとすべてが彼のための音楽だった。
なァんにも知らない顔をして、麦色のひさしの下でゆっくり口角があがる。わたしの頭を茹で上げるのは炎のような紅だ。焼かれることのない真白の指先がそっと燃える唇に触れ、そのままこくりと美しくとぼけた顔をする。
「いま、なんて?」
答えることはできない。朝から暑くて仕方ないから喉が渇いていたのだと言い訳を用意してみても、使う場面は与えられない。
つばを飲み込んでただの置物になったわたしに、やらかい地獄が弧を描いて近づく。作り物じみたカーブを描く頬には玉の汗が浮いていて、腰を折ってうつむいたせいでほかは麦わら帽子に遮られ、口元以外の、たとえば瞳は奥へ消えてしまった。
ふと邪な欲がよぎる。もし視線が合うことがないのなら、ずっと隠れていて欲しいとわがままが。切なく眺める瞳はわたしに向いていてくれ、と。でなければ平静でいられない。
「じゃあ、元気で」
けれど裾の出たシャツを翻す高い背中を黙って見送った。わたしは一度も言葉も発せない意気地なしである。麦わら帽子が去っていくのが憎らしく、愛おしい。振り返ってほしいのにそれはあの人のすることじゃないと思い出たちがわたしの頭を揺らした。
一番長くいた幼いばかりの記憶とは違って、背も伸びた、美しい人はわたしを待たずについて来られる人だけを背負っていく。意気地なしとせっかちであるから、「さようなら」も「またね」も交わさず行ってしまうので、こちらは麦わら帽子だけを覚え続けていた。夕暮れ、海、冬の山と雪原、それから今日みたいな夏真っ盛りの日。いつどこでも陰った中の視線を覚えていたくはなかった。
丘向こうに消えた麦わら帽子に一息ついて、わたしだって踵を返す。
ついでにこめかみに掠った帽子の感触も、頬に残る地獄の炎のあつさも、夏の温い風にまぎれるので、覚えてやらないのだ。
あとは犯人を指し示すだけだ。名探偵の汚れ一つないきれいな手袋が一本の道標を立てる。純白に沿って空中を辿れば解答に至る。
「犯人はあなただ。執事のフィックスさん」
「まさか! 私がお嬢様を手にかけるなど……」
否定を更に否定して、名探偵が朗々と解答を告げていく。執事にとっては都合の悪いことに、事態は幕引きまであとわずかに残すのみでひとつに収束しようとしていた。警官も屋敷の面々もじっと執事を睨んでいる。髭の一本からでも自白を聞き出さんと耳目を駆使していて、俺はと言うと、やはり駄目だったのだと静かに大きな溜息を落とした。誰も聞き咎めない。馬鹿野郎ばかりだ。
「私は、私は……そんな……」
哀れなヤギが逆襲して俺を暴いてくれるというのならぜひそうしてもらいたいのだが、ついに執事の両脇に警官がついたので諦める。
この国で一番の名探偵すら俺を暴かないのだからそういう運命にあるのだと。全部諦めてしまった方が良いかもしれなかった。
「犠牲者が増えることもなく解決できたってことはやっぱ天才なんだよな! また評判が上がる!」
幼馴染が笑っているなら、まあいいかと、思ってもいいだろうか。いいか。田舎のファミレスはすっかり空いていて老人たちばかりコーヒーを飲んでいる。昼間の暗がりを残す店内に派手なファッションで向かい合って座り、俺たちは感想会を開いていた。
依頼帰りのパフェ食ってる名探偵に、次はどんな事件を贈ろうか、考えるだけで頬が緩む。
俺たちの最後はいつになるんだろうか。そのとき俺たちはどんな形をしているんだろうか。こうやって向かい合っていたい。それで、チョコレートがついてしまったからとテーブルに放られた純白の手袋が俺を指し示していれば。それはこの上ない終点だと、胸が震えた。