NISHIMOTO

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 なァんにも知らない顔をして、麦色のひさしの下でゆっくり口角があがる。わたしの頭を茹で上げるのは炎のような紅だ。焼かれることのない真白の指先がそっと燃える唇に触れ、そのままこくりと美しくとぼけた顔をする。
「いま、なんて?」
 答えることはできない。朝から暑くて仕方ないから喉が渇いていたのだと言い訳を用意してみても、使う場面は与えられない。
 つばを飲み込んでただの置物になったわたしに、やらかい地獄が弧を描いて近づく。作り物じみたカーブを描く頬には玉の汗が浮いていて、腰を折ってうつむいたせいでほかは麦わら帽子に遮られ、口元以外の、たとえば瞳は奥へ消えてしまった。
 ふと邪な欲がよぎる。もし視線が合うことがないのなら、ずっと隠れていて欲しいとわがままが。切なく眺める瞳はわたしに向いていてくれ、と。でなければ平静でいられない。
「じゃあ、元気で」
 けれど裾の出たシャツを翻す高い背中を黙って見送った。わたしは一度も言葉も発せない意気地なしである。麦わら帽子が去っていくのが憎らしく、愛おしい。振り返ってほしいのにそれはあの人のすることじゃないと思い出たちがわたしの頭を揺らした。
 一番長くいた幼いばかりの記憶とは違って、背も伸びた、美しい人はわたしを待たずについて来られる人だけを背負っていく。意気地なしとせっかちであるから、「さようなら」も「またね」も交わさず行ってしまうので、こちらは麦わら帽子だけを覚え続けていた。夕暮れ、海、冬の山と雪原、それから今日みたいな夏真っ盛りの日。いつどこでも陰った中の視線を覚えていたくはなかった。
 丘向こうに消えた麦わら帽子に一息ついて、わたしだって踵を返す。
 ついでにこめかみに掠った帽子の感触も、頬に残る地獄の炎のあつさも、夏の温い風にまぎれるので、覚えてやらないのだ。

8/12/2023, 8:10:37 AM