ついていくか、いくまいか、ただそれだけである。
差し出された手を取れば山も海も何もかもを超えていく。二人でやるんだと決意するのは後からでもできるだろうし、今はただ歩くだけで良い。
断れば。後ろを向き、背に問う声が頭へ入らないよう首を振りつつ駆け出すしかない。どうして、なぜ、薄情者、などにこたえる余裕などあろうはずもないから。駆け出さねば、声どころか腕に捕まって答えに窮するだろう。
地獄だと言う。目の前の男の子は地獄になった故郷を見て復讐を誓うのだと言う。やはりそれには応えられず。
失ったものに報いもせず因縁を辿る覚悟もない。さりとて一人静かに死ぬよりは昼も夜もなく歩くほうがマシだと、それだけを理由に手を取った。
滲むほど暖かい肉を想って、それを生きる理由にと決めた。
右隣に大きなぬいぐるみがある。ふわふわだけど短いファーに覆われていて、抱きつくと買ったときから変わらないお店の匂いがするのかしら。鼻を埋めながら次は力一杯ぎゅっと両腕を絞める。詰まった綿の反発が可愛らしい。
私たちの主人はこれが味わえないんだから、人間というのももったいなくて考えものである。
ここには素敵なものがいっぱい。硬い椅子、硬いテーブル、硬い水面のティーカップ。ぬいぐるみと私の豊かな髪以外は何もかもが硬くてチープでサイズが揃ってなくって、でも素敵なものばかり!
あとは私たちの主人がもう一度天井を開けてくれたら。それで遊んでくれたら人形冥利に尽きるんだけど、と。数年閉ざされたドールハウスでため息をつくポーズをとった。
透明とは呼べない窓からはあの子の姿も見えない。ここは安くて軽くて、しかしとっても素敵な狭い部屋。なのに主人はとってもとっても飽き性なの。
本当に、もったいないわ。
欲しいものが手に入らなかった。気になっていた新作アイスクリーム、季節ものだからって買う気になっていたホットスナック。それから最後に、毎回いちケースだけのチョコレートアソート。
俺が頻繁に買うからか、最近は見かけるたびに補充されていたのに紙箱は空っぽだった。……実のところそれはちょっと気恥ずかしかった。店員に「やっぱこれ買うんだ」と思われていそうだし。
けれども無い。無いなら、仕方ない。
伸ばした手を下ろして、そこから冷えていくような心地を味わった。振り返ってみれば執着だったんだろうと客観できる。たぶん恋と呼んでもいい。相手が人間だったなら友人たちだっていけいけ押せ押せと騒ぐような気持ち。
ついには全身へとまわって染まり切った悲しみに委ね、コンビニを後にした。他のところへ探しに行く気にもならない。この店舗のあれが欲しかった。あれが食べたかった。舌で溶かして飲んで胃液に混ざるだろうそれを想像して訪れていた。しかし今日で終わる。
いつかまた見るのなら、ただの消費者の顔ができるといい。
恋を失うって書くのなら、これだって失恋だった。
伸びない髪。増減も劣化もない細胞。減らない腹に排泄のない身体構造。
外側だけをそっくり写し取って私に手を伸ばす。
「触れ合いが恐ろしいと、君が言ったんだよ」
そうだ。確かにそう言った。
人間の皮膚というものは微かに産毛があったりするもので、それがどうも気味悪く感じられた。獣と同じくせに「わたしたちだけは違うのだ」と恐れ多くも君臨しているように思えて。
どうせ肉のくせに。皮袋を擦り合わせて触れるという行為は酷く嫌悪感を掻き立てる。
「わ、たしは、それでもあなたが好きだった」
「より君の好みに変化したんだ」
「それでも……それでも……」
人形の足元に縋る。初めて触れた体は冷たく見えて暖かかった。模しているのだと気づくも指先から侵食するような不快はない。
「前のあなたの方が良かった……」
「やっぱり僕らって相性が悪いんだよね。愛し合っているけれど」
膝を折って私に腕を回す。服の上でいちど止まってから徐々に抱きしめる、あなたの。
そういう優しさが好きだと伝わらなかった愛を恨んだ。
3000字超えてしまった。人が死ぬ話が出ます。
例えば愛したひとが。
「あなたに会えない間、幾夜となく枕を濡らしていた」
と独白したのなら。それか、そういう苦しく醜くぬるい心の隙を予測させるような、涙を見せるような振る舞いをしたのなら。
空想であっても甘ったるい気持ちの良さが身を包む。
それは、愛したひとが世では健気と呼ばれる性根をしていたのなら、とまで思考を融かす歌声だった。
ゆっくり瞼を持ち上げる。
酒の入ったグラス、ジョッキ、酒瓶たちは相変わらずガタついたテーブルの上で立っている。陽も落ちた薄暗い店内でステージからの光を受けてゆらめいていた。
鼓膜に触れては脳までじんと響くその歌詞が、というよりは、声が。
ふ、と笑って感想をこぼした。
「良い歌だ」
自分の横に座るひとが眉を寄せて腕を引く。野暮ったく俗っぽく、嫉妬とからかい笑ってやろうか迷ってすぐにやめた。その反撃に馬乗りになって襟元を手繰り寄せ、そのうえ凄んで「いまなんつった?」と怒気を滲ませるのが、己の愛するひとなので。
「お前の調子っ外れの子守唄も聞きてェな」
腕に触れていた指が今度は強くひねる。それでも恋人のふれあいを飛び出さない痛みに、今度は堪えきれない笑いが出てくる。
「ふ、ふふ、いや、悪ィ」
「悪ィって思ってないなら言うなよ」
「まさか。心から思ってるさ」
それから少しばかり酒は残っていたけれど心地の良いジャズミュージックをよそに連れの機嫌が悪くなるので、店の者に勘定を済ませて外に出る。
まだまだ宵っぱりには明るい。自分にとっては街灯も店灯も眠ってからが本番であった。
やがて目が慣れた空と街並みから視線を横に映す。
騒がしい夜が始まったばかりの街の中で、豊かな髪も怜悧な顔つきもいっとう好ましい。歳の数だけ嗜んだ遊びを肌に透かし見せつけるように成長している。なんて悪い人間に引っかかったもんだと呆れるには教え込んだ側に立ちすぎていた。とはいえ諸手をあげて「ようこそこちら側に」と迎えるにはかわいがりすぎた自覚もある。
店が見えなくなってもいまだ耳に残るほど良い歌だった。がなるように大きいわけでもないのにずっと昔に下した決断を揺すってくる、力強い歌声だった。たまらず、掻き乱された胸中のままに横の頭に手を伸ばす。
「うわっ、なに」
十や二十そこらのガキの頃からではなく、大人として数年の付き合いであるけれども。このある程度見守った存在を恋人と呼んでいいものか一時期はそれなりに悩んだものだった。
「いいや、なにもねェさ」
しかしまあ、二人は大人で自分の人生に自信と責任を持てるので、恋人と呼ぶことに決めたのだ。
ぐしゃぐしゃになった髪を少しずつ手櫛で直してやる。手のひらで隠れた奥から腑に落ちない文句が飛んでくるがなんてことはない。これも自分たちの間にあるコミュニケーションのひとつだ。
恋をするなら後腐れのない奴が良い。愛ならすでに出会った、そして幾度となく別れもした、気のいい奴らにも向けている。恋人、友人、仲間、相棒、色とりどりの中からどれがマシか選んだだけ。そこに師弟か兄弟のような何か言葉に押し込められない情があろうとも、その名前は都合が良いからという理由であろうとも、自由にやっていい身の上であることもあって。
それらの前置きを砕いて美しく重ね直した瓦礫の上に二人は立っている。
他には向けない言葉でぐるっと包み込む気持ちで、不満げにしつつも甘んじてこの手を受ける愛するひとを、恋人と呼ぶのだ。
もう一度店を訪れにゆく。
「酒を出すとこが朝からやってることなんてある?」
「飲み損ねたジンが惜しい」
「酒好きの奴らって意味わかんねェな……」
ぶつくさとうるさい恋人を引っ張って昨晩も登った坂を歩いていた。
「だいたい、それなら昨日残ってたら良かっただろ。こっちは一人で帰れたぞ」
その言葉がアルコールに強いことや飲みすぎない自制ができる意味だとしても、少し気に食わなかった。
からかいには敏感で怒鳴るような奴だがやり返し自体はすんなり通る奴でもある。だから握った腕に込める力を強めて振り返った。けれどやはりその痛みは恋人のふれあいの範疇になるように。
相変わらず眉間に皺があるが、その下の目はバツが悪そうに脇道のキジトラを追いゆく。自分が原因で酒が飲めなかったから今度は邪魔をしたくない、なんて心の隙は涙を見せずとも十分わかりきってしまった。
「悪いと思ってないなら言わなくていいぜ」
「……くそ」
「はは」
夜の吐息もない空気をさいて手を振り払われる。乾いた瞳がキッと睨みつけてくるのを心から可愛らしく思う。
恋人はもう一息の坂を駆け上がって一番上で青白い空を背に立った。
「ばーか!」
「はっ、ガキかよ」
でもこの街に来てから一番の笑顔だったから、ガキに戻ってしまった恋人に再び倣わせるのも、きっと脳を焼く喜びの予感に満たされるだろう。
清々しさとは裏腹に嗜めるために追いつくかと足を早める。どこに居たとしてもよそ者が目立つとすぐに要らぬやっかみを買うから。
現に酒場が見えた頃で道すがら幼い罵倒を耳にして出てきた住人の顔に、すかさず片手を振って問題ないことを告げる。
「痴話喧嘩かい」
「まあそんなところだ」
ほら、便利だ。
「仲が良いならそっちには行くんじゃねェぞ、楽しくねェ」
「なに?」
「真夜中に向こうの店で騒ぎが起きたんだ。警邏の連中がいるぜ。歌い子が死んじまった」
嫌な世の中だ。あんなに上手な子が。ああ、しみったれた通りに戻っちまう。
老人にさしかかった男はどんどん呟き落としてついには肩も曲げて「よそ者は出て行った方がいい」と言ったきり無言で軒先に戻っていった。
熱が冷めたわけではないのに楽しみが消えたように、二人は穏やかに日常に戻っていく。揃って静かに踵を返す。
「ジン、悪かった。ほんとうに」
もう一度捉えていた腕の先では同じように話を聞き拾っていた。
「いや、いいさ」
「歌も聞きたかったんだろ」
「別に」
誤魔化しや諦めではなかった。
長い旅路の中では別れはつきものだし、こうやって隣に立つ奴を選んだ以上、出会っただけの人間を強く惜しむ気持ちは湧いてこないままだ。
「ボトルの名前さえ聞けりゃあ良かった。そっちはもう飲めねェわけでもなし。歌もだ」
行きよりずっとゆったりと歩き、キジトラのいなくなったほかは変わらない路地も通り過ぎた。
「あの子の名前さえ聞けりゃあ良かった?」
そして愛しいひとも変わらず腕を触ってくるので本当に悪く思っているのかと疑問が頭をもたげてくる。しかしもうどうとでもなることだ。悋気もどきの相手が没したならやりようはいくらでもあった。
元々朝っぱらから酒が飲めるとは思ってない。多めに支払って釣りも要らないとしてきたなら、その恩でボトルやちょっとしたことくらいは教えてくれるだろうという算段だったのだが。
「歌のコツだけ聞けりゃあ良かった。お前の子守唄は寝るもんも寝れねェよ」
「……嘘だろ、そんなに?」
街の境を超える頃にはあくびを一つ。
のん気な街だと飽きてくるし、そこに名も知らぬ歌い子の悲劇が加わったとして自分たちには些事。突然の別れなんてものはありふれて、さらに言うなら悲劇ですらない。
次の街でも恋人として楽に過ごせたらいいと笑って肩を組む。のど元をくすぐる髪からは染みついた悪い人間の香りがした。
「だがまあ、恋ぐらいならしても良かったな」
「この誑しがよォ……そのうち痛い目に遭うぞ」
誑し込まれた被害者本人が恨めしく顎を狙うことであるし、まったくなんて信憑性のある言葉だろう。それからしばらく無言でお互いの脇腹をつつき合う。
すっかり姿を現しきった太陽を向いて、時々場違いなメロディを練習しながら二人は出立した。