それはまったくあり得ない、脈絡のない展開だった。
空気が弾けた音がして、ああしまった力を入れすぎたと残念に思う。そして各地に勢いよく散らばったポテトチップスを拾おうとまずは左を向き、男を見た。
「お久しぶりですね」
ただ流れるのみで目を引く予告シーンよりも数倍あり得ない展開として、半透明の男は慇懃な笑顔でそこに居た。
「おや、見えていませんか? 聞こえていますか?」
かろうじて中身が残っていたのに袋ごと放り出して寝室にドタバタと駆け込み鍵を閉める。扉を背にして座り込んでようやく、その男が記憶の引き出しを開け放った。彼は学生時代に世話になった男だ。どうして忘れていたんだか。自分の心に強烈に刻まれた存在のはず──だからこそ忘れたのだろうか。
「そんなに逃げるなんて」
声に合わせて見上げれば、下手なホラー映画の演出よりも恐ろしい姿でぬっと覗き込まれる。
その行動には音もなく気配もないが、視覚と聴覚は確かに、されども薄く先輩の姿と声を拾っていた。
「し、んだんですか」
「どうでしょうか。よくわかりません、記憶がなくって……」
わかりやすく雑に泣き真似を始めたので、扉から出た半透明の生首はB級映画にすり変わってしまった。
先ほどまでの自分が配信サービスの作品を吟味していたこともあり、非日常の一方で間抜けとも言える画角はスルスルと緊張を解いていく。
今日は長い連勤明けの連続有給休暇の初日だった。だから夕方からお菓子とかピザとかビールとか飲みなれないが憧れたワインだとかを並べて、よし映画だ! と意気込んだ日だった。それはもう二ヶ月くらい期待していたその日だった。
「……先輩は何かやることとか、言うことがあって来たんですか」
「いいえ、特には」
ケロリと泣き止んで生首が軽く振られる。それなら、じゃあ、と言いかけて、浅慮だろうかと一度唇を巻き込んだ。
きっと世間一般的には幽霊っぽい人をそのままに映画を見て食べ飲みするなんて呑気すぎる。
けれどもけれども、と疲労に支配された脳は娯楽を手放せずに堕落を勧めて喚いていく。
でも、ほんとうに、待ち侘びた日なんだ!
「僕は何もすることがなく浮かんでおりましたから。あなたに付き合ってみてもいいですよ」
聡い先輩がそうやって助け舟を出すのは昔と変わらなかったので、懐かしくも慣れ親しんだ舟に勢いよく乗り込むことにする。船頭は幽霊なんてそれこそ映画みたいでワクワクした。
そしてそれが疲労によるぶっ壊れたテンションが肩を押したからなのかは判別がつかなかった。
「じゃあ見ましょう、今すぐにでも選びましょう、だってすごく楽しみにしていたんです! この日を!」
「相変わらずで何よりです」
するりと頭を引っ込めた先輩に、勝手に人の家に入らないでくださいと今更のことを言いながら部屋を出る。
すると、ぐしゃり、と何かを踏み潰した。
それはポテトチップスだった。こんなところまで飛んできてたなんて、やはり疲れというものは動きも思考もブレーキを鈍らせる。
寝室からかリビングからか、ティッシュを取るにはどちらが近いか考えながら先輩の背面を目にして、ひとつ腑に落ちた。
やはり、彼には足がなかった。
「僕としてはこちらがおすすめですよ。馬鹿馬鹿しくって涙も枯れます」
「それってつまんないってことですよね?」
リビングに戻ると、先輩はツンツンとリモコンを触ろうとしてすり抜けていたので代わりに押してやった。道中拾ったポテトたちはゴミ箱へ。ピザの上のチーズがやや冷めていたのでトースターに入れて温め直す。アルミホイルは熱して良かったんだったか。先輩がいるので今更気になるも、仕方ないと被せた。なんとかなるなる。そして良い気分で並べていた酒は一本残して冷蔵庫にしまう。
いくらか片付いたテーブルの上で先輩は自由に浮きまくっていた。不思議そうな瞳でウロウロと。
「昔のあなたなら机に並べるのが楽しみだったでしょうに」
「学生じゃないので。大人なので」
「ふふふ」
羞恥からの遅くに失した隠蔽も見逃してくれる気になったらしい。
そのまま彼が泳ぐように横に流れた奥から印象的なロゴが現れる。結局言う通りに操作したので曰く刺激的につまらない映画が始まった。
「生身だったら僕も乾杯したのですけれど」
「まあまあ。いいじゃないですか。足の裏が油脂で汚れませんし」
「何の話です?」
それに、先輩が幽霊らしき姿だったから一緒に映画が見れるのだ。人間だったら流石に通報している。
過去の学生のときだったらどうだろうか、自分は驚き・固まり・口を開け、侵入を許していただろうか。瞬きひとつの間にそうしてどんどん記憶の引き出しが開いていく。
そうはならなかったから大人になったはずだった。想像こと記憶に基づいた捏造は理想を隅まで丁寧になぞるので、ああまったくタチが悪い。
「勝手に入ってきたらびっくりするからやめてくださいね、という話です」
ふざけて睨んだ視線を身軽に躱し、先輩はまた、何もかもお見通しですという雰囲気で笑う。それは絶対に繰り返し驚かそうと企む、幾重も重ねられた思い出と数寸違わぬ態度だった。
懐かしい姿の奥に学生時代を幻視しても先輩の濃度は変わらない。だというのに腹の底では不毛な執着が薪を得て、再び燃え盛り始めているのを自覚した。
後輩が毒草を育てていた。それもひとつふたつではなく、何種類も敷き詰めて。
植え替えてしばらく経つのか種子から育てたのか、随分綺麗に生い茂っている。技術的に見ても素晴らしい出来だ。
毒と呼ばれるその脅威も効果は様々だったが、仮にそれらを口にすればたちまち体を蝕むだろう。それだけ見たとしても調和どころか呪物としてあまりにも完成していた。
「よく、育てましたね」
口をついて出たのは賞賛のつもりはない、ただの驚愕だった。
よく集めたものだ。よく育てたものだ。
中には触れるのも避けたい花々があったから、後輩が素手だということに気づいて目眩までし始める。
「……あ、はい」
「はいではなく! まず手袋をしてください。……いえ、そんな軍手ではなく業務用のものをお持ちでないのですか?」
背も高くて迫力のある年上に声を荒げられたからか、それより三分の二の高さにあった頭が話の途中で逃げるように後ろを見やった。その視線をたどると畑の柵に放られたような軍手がかけてあったので焦燥感が目眩の閃光とともにぐるぐる飛び回る。見るからに安い、しかもくたびれて穴すらある軍手には荷が重い作業になるだろう。
「まずゆっくりその鉢を置いて。それから先生に手袋を貸与申請してきてください」
その場で大人しく従う姿に、どうしてこんなことをと疑問どころか好奇心が湧き上がる。
自分より小さくて自分より弱い後輩が、もしかしたら何かの覚悟を得たのかもしれない。ぼんやりと目の前の幼い生き物が誰かの息の根を止めるところを想像した。後輩にはそうするだけの理由があり、その境遇は人を育てるのだ。
現実の瞳は、細く短い指が草花にかすりもしないよう、見張る。
もしその指が誰かの首に沈んだら。もしその指が誰もいないキッチンで密かに毒物を仕込んでいたら。昨日までなら似合わないと思えたアンバランスなそれが、今の己にとって酷く蠱惑的な光景だった。
僕たちは子供だ。学生であり、発展途中の脳ある生物であることを指す。その中で後輩の成長・才能の開花というものは、それが己の領域に向けてなら尚のこと嬉しいので。
「間違っても軍手なんか借りてきてはいけませんよ。最低限、対毒付与されているものを。それと肘まであるものを借りてください。何かあってからでは遅い」
きっとこの子はやり遂げる。自分はそれを見届けたい。
あわよくば、その後ろから手を取って導いてやりたい。
「……」
か弱い生物が己の影の中でただ見上げてくる。流れた髪が鉢の上で揺れている。
きっとこれまでもその顔を見たというのに、想像というものは心を、ひいては視界を豊かにするもので、それはそれは可愛らしく映った。
鉢の上では一輪が噛みつこうと歯を鳴らしていたが届かない距離であるしどうでも良い。きちんと鉢の真ん中に植えているあたり、栽培のノウハウも熟知しているようだ。計画性がある。
「証拠が残ることが不安ですか。心配しなくとも、僕にお任せください」
胸に手を当ててにっこり笑う。なんせそういうものはウチの専売特許と言っても過言ではないのだ。
後輩はまだ身じろぎもせず瞬きもなく見つめてくるので、うっかり頬を染めてしまいそう。淡い感情が出てこないよう顔を無理やり引き締めて、今度はギラリと歯を見せつつ凶暴に笑った。
「あなたは安心して事を進めたらよろしい。後始末も、事後の追及からの逃亡も、僕が手解きしてみせましょう」
恭しく膝をついた姿はまるで騎士か執事。それでもすっぽり影に覆われたままの幼い魔女が、どうか子供のままで花開くようにと願ってその手を取る。
さあ、この僕に背中を預けて。共犯者にして。
「誰を殺したいんです?」
夏の始まりにのんきに風に揺られる毒草の上でふたりの密会が始まった。
楽園と呼ばれる土地の存在は知っていた。ゴミ臭くて腐り落ちかけたようなところにいる俺達には、まったくもって縁がない場所だ。
「そうか?」
すると右耳に酷く冷たい声が届いた。それに相槌は打たないけれど背後の大男はそのまま続ける。
「まあたしかにここも酷ェ場所だが、お前らが楽園とやらに縁がねェとまでは……。いいか、死ぬ気ってのは人をなんにでも変えるんだぜ。どこにだって連れてってくれる」
ふたたび無視を決め込んだ。なんと驚くことにこの大男は幽霊で、生きた人間との会話が楽しいらしく、俺が返事をすれば嬉々として語り続ける存在だ。二度ほど経験したのでそう理解している。
それから数時間。俺は黙々と手前のスクラップの山から光沢に特徴のある金属を探し出していく。ついでに大した値打ちはなくとも屋根代くらいにはなる工業品も。
これらは鋭利な欠片も混ざっているから慎重に探らなければいけなかった。作業用の手袋すら買えないし傷口から広がる病気に対処する余裕はない。
「なァ、おい、国の外に出ねェか」
手を止めた。
「外にはもっとデカい国もある。あの楽園なんて目じゃねェほどの楽しい場所だってある。俺がいるんだ。煩いだろうがお前より経験もある。子供ひとりくらい外に出してやれる――」
「いい、いらない」
日も落ちてきて手元が覚束なくなるまで残り少ない時間帯だったから。おおよその収集物のキリが良かったから。
俺はいくつか理由を付けて大男を振り仰いだ。少し色づいた太陽が向こうに透けて見えていて、ああ、こいつって本当に幽霊なんだなと思った。
「いらない。妹も一緒に出られないなら、俺はここで生きて死ぬ。楽園なんてどうでもいい」
「……妹がいるのか」
大男が知らないのも無理はなかった。俺はこの得体の知れない、憑いてくる存在を妹の前に連れて行こうとは思わなかったし、今も思ってない。
だって彼女は、どうしてこんな場所に生きているんだと縋りつき、詰りたくなるほど、美しかった。
まさに掃き溜めに鶴。
近所の頬がこけた奴が言っていた、その言葉が俺の手足の指針だ。飢えた鼠たちに見つかった鶴がどうなるかは考えたくもなかった。そいつは死んだから、もう妹の顔を知る者は俺しかいない。俺だけが妹を守れる。
「お前、兄貴なんだな」
大男は煙草をつけようとして一度固まり、それからやめた。
「じゃあ、妹も連れていく計画を立てなきゃな。正念場だぞ! 死ぬ気で、絶対、やり遂げろよヒーロー」
俺は目を見開く。ぴったり大男の顔の向こうに太陽が見えていた。普段なら眩しくて直視できないそれが幽かに光度を落として、血も滴るいびつな笑顔を明るく発光させている。
「……妹の前でその怖い顔したら許さねえから」
「なんでだ!? 笑顔だったろうが!」
そうか、この大男は俺をヒーローにしてくれるんだ。遠い昔に感じたことのあるような、ないような、そんな懐かしい歓喜が湧き上がってくるようだった。覚えてもいない両親が背中を押してくれるような。まるで普通の家族のような。
そしてそれと同時に恐れと悲しみが身を包む。
笑って手を貸してくれるこの幽霊こそ、死ぬ気でヒーローになったんだなと悟ったからだ。それで死んだんだ。きっと、間違いなく。
どうかこの優しい大男の向かう先が楽園でありますようにと、俺は初めて太陽に祈った。
死んだ人は風になる。空の果てへも、海の上へも、深い森の中へも、どこにだって自由に行けるようになる。それを与太話だと、まさかそんなことあるわけないって鼻で笑ったこともあったっけ。
しかしいま、私はそよ風だった。
春のそよ風は魂を運ぶゆるやかなくだり坂である。
「どうかな、私の背中は」
私の腹の下ではいろんな頭がうごめいていた。私の背に乗るあの子と同じ名前を樹を見て、酒を飲み、笑っている。たまにそういう騒ぎの横を通っていく。あの子と仲の良い誰かがいれば少しは楽しいかと、親切心からだった。
あの子は何も言わない。魂ってそういうものらしい。
「それじゃあ、そろそろ下に行こうか」
私もすでにいろんなことが曖昧だった。人間だった頃はなにひとつ思い出せない。
このあいだ、もしくは先日、いや、昨日? 一時間前? なんとなく、昔は風になることを馬鹿にしていたなァと、考えた事実を覚えていた。それだけで前述のとおり、斜に構えた人間だったと自覚している。
ではどうして寡黙な魂の名前を知っているのだろうね。私の産んだ子供だったかもしれない。それとも気の置けない友人だったかしら。
「なんにせよ、ちゃあんと運んであげるとも」
魂は震えたように感じた。私の腹の中で笑っているようにも思えた。
ひとしきり動き回って満足したので春の風は魂を天まで運んでやった。
地下深く、土の合間、つぶての脇、そういうものの奥に天がある。風はくだってくだって、底の奥。
もし君が生まれ変わって私の子、風の子供になったならもう一度一緒に飛び回れるかしら。
背中に乗ることがそんなに好きなのか、魂はまた暖かく震えていた。
意味もなく俺の手を取る男じゃないと知っていた。
ちか、ちか。短い閃光が瞬いて。
「信じているからな」
俺は何を返せばいいかは頭に浮かばなかった。
その期待に応えられない。やめてくれよ。そんな、大切な物を預けるような力強さで見ないでくれ。きらめかしい瞳をこっちへ向けないでくれ。応えられない。無理だ。絶対に、応えられないんだって!
いま心から溢れるがままにそう怒鳴っても良かったけれど、しない。できない。
「お前にしか頼めないんだ」
「や、やめてくれよ――」
もう一度骨がきしむほど握りしめられて閉口した。
じっとりとかいた汗が冷えていく。別れの予感が忍び寄り、俺たちの手を解いて彼を攫って行ってしまう。
「なあ、頼むよ、親友」
うるさい! 動けない俺を置いて、大事な約束も託して、一人で行ってしまう奴が親友でいてたまるか。お前なんかただの知り合いだ!
聞き入れたくない。嫌だ。耳を塞いで体を丸めて、一人泣いていたかった。
けれど結局いつものように諦めを口にする。
「……わかった」
俺に誰よりも深く楔を打ち付けて、あいつは俺の元を去りながら満足そうに頷いた。そして背中を向けたら二度と振り向かない……。
その記憶を十数年のうちに何度も夢に見ていた。
もう少し経てばこの夢は終わる。きっと俺は湿っぽい布団から起き上がって、朝食を用意する。その頃にはこの夢も微かになって、しかしなお掌に残っているような温もりを追いかけようとして、あの子を起こしに行く。知り合いの忘れ形見は体温が高いから。
強い閃光はもうずっと昔の思い出だ。唯一覚えていた刹那すら夢は朧気で、何一つあいつのことを語り聞かせられない俺は、もう親友には戻れなかった。
戻りたいと思うことすら許せなかった。