僕が一番そばにいた。
迷子のような顔をして道端に転がっていたのを招き入れたのは僕だ。
しかし君は曲がらない性根と礼儀正しい所作を見せ、なんだか殿上人が遊びに来たらうっかり高級車から落ちちゃったというような、そういう印象を抱かせた。
その面影は今も尚いっそう。でもきっとそれは僕だけが感じる幻視だろう。
煌びやかに、まばゆいステージに立つ君を高貴な人と見るにはずいぶんと俗っぽい。チャラチャラとした服装も、ギラギラ射るようなパフォーマンスも、君が地に足を付けて一歩一歩進んだ成果だった。
努力で手に入れたケガレを捨てて、僕だけの美しい、人ならざるほどの何かに戻ってみて──。
「なァんて、ね」
そうしてあの小さな箱庭で一緒にいようなんて言えないので、僕は今日も君の隣に立つ。
この努力家で美しく、低俗に趣味が悪く、されどもやはりかっこ良い人間の隣を手放すのもそれなりに惜しかった。
お前の横顔をじっくり照らしている。
海に近い片田舎の、ボロボロのアパートにとってつけたようなベランダの、そのガラスの向こうにお前がいる。
私が反対側からお前の居るアパートを見つける頃、窓から覗いたって姿はない。早起きをして顔を見せてくれよ。
私がお前が住む町の頭上を通る頃、家屋の屋根や影に紛れて姿は見えない。どこで仕事をしているんだ。
私がお前の横顔を照らす頃、私たちはようやく一筋の光で結ばれる。ひとときの間だけ。
私が星の反対側を通る頃、お前は何をしているの。誰と眠っているの。夢の中で私を待ち望んでくれないか。
星の自転がお前を遠ざけてゆく。
徐々に頬が暖かくなっているのが見て取れる。それだけが嬉しく、そして重要な使命に感じられた。
お前に会いにいきたい。横顔だけじゃなくてたくさん見せてほしい。
地球とかいう歴史の浅い星なんかじゃなくて私の元で生きてくれないか。お前が生きている間に人間がそういう技術を得てくれ。残念なことだがこちらに空気はないから。
※人間の目を間近で見るようなホラーというか少し不思議なよくわからない風味の話です。
虹彩認証のアルバイトを始めた。
急遽作ったんだろうなと見て取れるパーテーションで区切られた部屋の中。折りたためる机とパイプ椅子、それから小さいモニターと専用の機械が仕事場を無機質に飾っている。
僕はその中でパイプ椅子にじっと座って、モニターが映し出した廊下に人が現れて虹彩認証の開始ボタンを押すのを待つ。
大抵は始業後の朝、昼、夕方がピークだ。たまに忘れ物をしたように慌てた人がやってきて、僕は「おやまあ、落ち着いてくださいね」なんて思いながら目を合わせている。
そう、目を合わせている。
といっても専用の機械が向こうとこちらの映像を繋ぐらしいから遠隔──リモート見つめ合いだ。
開始ボタンが押されたら、モニターの向こうの人は虹彩認証を行う。システムは僕の専門ではないし詳しいことはわからないが、認証自体は問題なく行われるらしい。
じゃあなぜこのような見つめるアルバイトがあるのかというと、社内で変革やらなんやらで従業員の意見を取り入れた結果、らしい。ふんわりと直属の上司から聞いた。興味がないのであまり覚えていないが、機械的なものより暖かみのあるシステムが良いとかなんとか……。
試験的に導入して、目を合わせる役はとりあえずアルバイトで募集したという。社員の意見を取り入れる、なかなか面白い会社じゃないか。就職先に考えようかな。
そういえば虹彩認証と聞いて映画で見る緑のレーザーのようなラインが瞳を一往復で認証、というのを思い描いた人も多いだろうが、あれは演出で実際はそういうのじゃあない。いつも見ているからわかる。
それから、このアルバイトの特徴といえばもう一つ。
僕はパーテーションの向こうで書類仕事をしている上司の気配を探り、こちらを気にしていないように、と願って専用の機械を覗き込んだ。
必要外の使用をする悪い従業員である。みんなは目を合わせるアルバイトをするときはちゃんと人が来たときだけ覗き込むように。
モニターに人影はない。向こうにある認証機械周辺をしっかり映しているので、画面外で認証する人はいない。
だけれども、瞳が見えるんだよなァ。
初日に声もなく驚いた不思議な瞳が、じっと僕の瞳を見つめている。
当時慣れない中うっかり人もいないのに覗き込んで気づいて慌てて上司に報告したら、
「えっ?ちょっと失礼、代わって。……うーん、確かに見える。おかしいね。システム部に連絡しておくから、体調に気をつけて続けといて」
と命じられたので、
「ハァ、そんなものですか」
と頷いて業務を再開したのだ。
それが今も変わらないのでシステム部とやらもお手上げなのかもしれない。上司があれから経過を聞くこともないし、うっかり忘れられているような気もするけど。
しかしこの瞳、まばたきもしない。ずっとまんまるい黒目を見せつけている。
僕はすっと姿勢を正して目を離した。あれに付き合っていれば僕の方が乾いて仕方ない。
しかしあと数週間あの瞳と一緒にアルバイトをするのだと思うと、ちょっと楽しみになってきた。彼女と目を合わせたらなんだか胸が踊ってしまうような心地なのだ。
星が一筋残して落ちゆく。
最初に見たそれを皮切りに次から次へと落ちゆく。
「本当に、呑気ね」
五つ数えたところで際限がないと諦めて、首をほぐしつつ声を発した先──対峙した恋人を見やった。
行方も知らぬ星々など微塵も気にせずに彼女は立っている。あの日恋を実らせたようにこのステージに沸き立つ二人であれたらよかったのに、我々はこうして剣を取り、向かい合っている。
あの逢瀬から時を経て、数年前からは肩を並べることもなくなった。好きと言葉にすることも愛を確かめることもやめた。
それでもただ頭上の星のように燃え尽きて、我々はたった二人で宇宙の闇に消えていけたら、ってこの期に及んで往生際が悪いかな。
けれど私はずっと、出会ってからずっと、それがいいって思い続けていたんだ。
あのとき君は最後まで流れ星を数えていたから言えなかったけれど。
今世から来世にひとつだけ持っていけるものがあるとするなら。
『君が好きだと言ったものぜんぶ』抱えて生きていくつもりでいます。