あなたにもらった本が捨てられない。
布のカバーは端がほつれ、2本あったスピンは片割れしか残っていない。
昔、あなたが読んだところには青のスピンを、僕が読んだところには赤のスピンを挟んだ。僕は読むのも遅くて機会も少なかったから周回遅れで、あなたは繰り返し短時間で読むから頻繁に位置が変わる。
リビングのテーブルに置かれた表紙の鮮やかなデザインが目に入るたび、そっと横から目をやって、今はどこのあたりだろうと気にしていた。
それも今はもう動かない。
自分が読み切った時に赤色を外へ垂れたままにしていたら、いつのまにか引っ掛けてボロボロになったので、それを切った。
あなたが挟んだ青色を何度も何度も追い越して、慣れているからスピンがなくとも一冊読み切れるようになって、あなたの速度に追いつけただろうか。中を誦じれるくらいになっただろうか。
次、会えたら、あなたの前で覚えている限り暗唱してやろう。
それだけ読んだのだと驚いてほしい。
それから、「伏線になるところに挟んで遺すんじゃないよ」と言ってやりたい。
「なるほど、ずいぶん大切にしてくれたんだなぁ、きみ」
って言ってくれるかい。
遠目に見ても笑えてしまうほどだったけど、近くで見るとたった一人で子供達に囲まれているのがさらに面白かった。
「笑ってないで助けてくれませんか」
「いやぁ申し訳ない。しかし、珍しいね」
彼の太ももほどしかない背丈が右に左に、たまにはぐるぐると周囲を駆け回っている。
子供たちとの付き合いも長くてお手製のおもちゃまで授けていたのに、妙な、今まで見たことない騒ぎだ。喜びの興奮が場を包んでいた。
中心にいる彼はというと、腰を下ろすタイミングをはかりつつその長身を変に屈めたままだ。
賑やかに暖かい世界がそこにあった。彼は子供好きで、優しいのだ。
「素敵なオオカミさん、今日はどうしてこんなことに?」
「夜空を見る会を開こうかと伝えれば、このように」
嬉しくも困り顔で、こんなに喜ばれるとは、と続けてこぼしたのを子供たちが先に拾い上げる。
「そりゃあね!」
「だってさ、夜更かししてもいいってことじゃん」
「ホットミルクは一杯まで?お菓子は?毛布は?」
口々にわあわあと言葉が踊り舞う。静まらないのでやがて大人たちは座るのを諦めた。
低い背を押して流れるようにいつもの広場へ向かいつつ、小さな人間たちが袖やらを引っ張るのに合わせて耳を傾ける。
「ねえ、ねえ、夜空から星が落ちたら夢が叶うって本当?」
「シスターの本に書いてあるって言ってたもん。嘘なわけないよ」
丘の上が見えてきた頃に姉妹が両脇から追い越し、追い越され、楽しみに胸を膨らませて行く。春の風のように駆け抜けて。
自分はと言うと、いったん一番年下の子の柔らかな手のひらをズボンから開き離す。その足ではつらい坂なので抱き上げるのだ。ミニサイズの丸い頭が近くなってこどもの匂いがする。
「夢が叶うって、それはどうかなぁ」
姉妹はとっくに丘と空の境で手を振っている。届きもしないのに呟いてしまうのは、背中が向こうに見える彼のことを考えていたせいだ。
両腕に年長の子を抱いてもびくともしない姿に、よかったねェとこっそり微笑んだ。
『子供達が幸せに生きられる世界にしたい』なんて夢は大きすぎて、星でも叶えられそうにないね。
マァでも、君は叶えちゃうんだろう。それと、そう、あとは、子供じゃなくなったこの身も幸せにしてくれないかなァ、と漂う木々の匂いに欲を溶かした。
君に見つめられると、どうも僕は夏を思い出すらしい。
笑いかけられるとその瞳がぐいっと曲がるので、なだらかな山の稜線を思い描く。
あの夏、突発的強行キャンプは小さな騒ぎが起きてずっとてんやわんやしていた。誰某の物がなくなったとか、見えない犬がいるとか。
君がすべての事象を説明し終える頃には夜の焚き火もいい雰囲気になっていたっけ。
悲しんで涙を流す瞳を見ると雨の中走り回った日が蘇る。蛙が追いかけてきて二人で逃げ惑い、飛び込んだ先で事件が起きたことを。
君は痴情のもつれも何もかもをすっかり解決してなお、雨粒を鬱陶しそうに払っていた。
瞼を伏せて思考に沈む時、そこには穏やかな午後が広がる。
大学図書館で足を組み替える姿。薄暗い電灯と外の強い日差しのコントラストが君をいっそう引き立てていた。
そして理解した瞬間、「見てくれよ」とでも言うように強く輝く瞳が僕に向けられる。
インドア趣味なくせにキャンプをしたがるのも、両生類が苦手なことも、経済誌だけを読むところも、好ましかった。
だからふいに君の瞳がまばゆい思い出をそっと照らしていく。
良き日々だった。輝く刹那の欠片ばかりが燦々と胸を焼く──などと語れば「今の俺は見えないって言うのか?」と言葉だけで拗ねられるほど親しくなったので、僕は大人しく君を見つめて口をつぐむのだった。
これほど長く隣にいるってことはそういうことなのだと、瞳が伝えることを願って。
「君の心臓はどこにあるのか教えてほしい」
「動物の心臓を模した構造は存在しません」
いいや、そういう答えが聞きたいんじゃない。
深く長い溜息をついてがっしりと相手の両肩を掴んだ。
「いいかい、僕はロマンチックがわからないんだ。そう言われて何度も別れを切り出された!」
「それは残念でしたね。もしお望みでしたらこちらにコミュニケーション能力向上プログラムが――」
「いや、いい。もうやったから」
相手は自分が作ったロボットなので、経験したものは既にインプット済みであった。
気を取り直してちいさい咳ばらいをひとつ。それから「何度でも受けることができます」と加入連絡先を並べ立てる口をさっくりコマンドで閉じて、本題を提示する。
「僕と一緒に君の心臓を探そう。ロマンチックってのは、つまり、だいたい、おおよそ、ハートの問題だからね。それから物質的に存在しないものを探すのもロマンチックだ。たぶん」
妙に不確定な物言いに規定通り眉をしかめられたが大丈夫だ。学習プログラムは会話を通じてロマンチック理論を導き出せるはず。
僕はそれを使って、鼓動が跳ねつつも愛しさが溢れるらしい、心地よいひと時を過ごしてみたいんだ。
「承りました。それではロマンティック議論を開始します」
「ああ、よろしく」
どうやらロマン『ティ』ックの方が良いらしい。まあ譲ってもいいだろう、そこは主たる論点ではないからね!
そうして話し合うこと一ヶ月後。
「俺の心臓はあなたです」
と微笑みながらロマンティックを体現されて僕のハートが暴れ出すのは、また別の話である。
放課後のカーテンは自由に波打つ。日中は生徒の邪魔だからと、まとめられるか窓を閉じられ静かに佇むだけだから、心なしか今の方が楽しそうだった。
「あっ、兄貴!」
嬉しそうに彼が外を覗く。
グラウンドで上級生が駆け回っていて、そのうちの一人は彼の兄だ。人気者兄弟はどこにいても目につく。
でも今はお兄さんのこと置いといてね。
「やらないなら帰るよ」
「えー!?待て、待て!やるからさ」
校内中に友達がいるのに、勉強を教えてほしいと昨日の放課後に懇願された。
私は今、君が頼んだから残ってるんだけど、と言外に伝えれば、慌てて雑にカーテンを揺らして戻ってくる。
彼は前の席の椅子にまたがりペンケースを取り出して「よろしくお願いします」と殊勝に頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします」
まずは参考書、ですらない。授業の振り返りも先の話。彼の場合は第一に一年時の学習内容を確かめることからだった。
「──というわけで、この公式に見覚えはある?」
「ねェ!」
「そんな気はしておりました」
「面目ねェ、です」
行儀悪く鉛筆を唇の上に乗せて変な顔をしている。難しいことを考えている顔だ。
予想の範疇であるので私は用意していた小さい冊子を手渡した。
「一年の時使ってたワーク。答え書き込んでないから使って」
「ありがとう!」
嬉しそうに受け取る姿に、もや、と心に妙な気持ちが落ちる。
私はこんなふうに君のお手伝いをするけど、それって私じゃなくていいよね。
君は人気者で、お兄さんもいて、賢い人の伝手は山ほどいる。教師とだって仲が良い。
黒髪が風に吹かれて差した陽から逃れるように影を揺らすこの瞬間を、私だけが見てていいの。
「ねえ」
公式をひとつふたつ指示してやってようやく大問が3割自力で解けたとき、結局私は聞いてしまった。
「一昨日の告白、もしかしてわかってない?」
ぱちり、ぱち、ぱち。
丁寧に三度まばたきをしてから彼はにっこり笑う。
「告白ってあれだろ?俺が好きってやつ」
「そう。わかってたんだ」
「モチロン」
じゃあどうしてこうやって勉強会をするの。きっと避けられると思っていたのに。
重ねて聞きたくても、再びワークに視線を落とした彼には聞けなかった。自分から早く取り組むよう声をかけた手前、中断させるのは気が引ける。
そもそも昨日了承したのが間違いだったかもしれない。あの時はどういう意味かわからなくて引き受けたけど。
胸中に惑いを抱えても埒があかないのにいつまでも考える私の悪い癖だ。君の友達にそんな子はいなさそうだなァ……。
そういったどんよりした気持ちから現実に引き戻すのは、相変わらず彼の快活な声だった。
「できた!できたぞ!」
急に眼前にワークを掲げられる。あまりに近すぎて顔に黒鉛がつくかと思った。
「……答えと合わせるね」
目の前で、合ってると信じて疑わずにあぐらをかいた足ごと揺れて楽しみにしているので、単位を間違えているのは少しおまけしておく。
それで補修テストで数点落としたって知らない。なんでだ!って、また私に聞きにくればいい。
「うん、できてる」
「よし!終わり!」
「え?」
乱暴につかんだ鉛筆をケースに、ケースを机の中に突っ込んで勢いよく立ち上がる彼を目を丸くして見上げた。
「終わりって、時間はかかったけど全然やってないよ」
「いーんだよ。お前と帰りたかっただけだし」
「は、あ?」
何もわからないような顔で見下ろしてくるけれど、私の方だって負けじと何もわからなかった。
「お前が言ってたんだろ。恋人ができても一緒に帰るのは恥ずかしいって。もう誰もいねェし、いいだろ?」
外からお兄さんたちの声は聞こえない。カーテンだけが騒がしくわめいている。
「あと賢いやつがよくて、勉強するやつがいいってのも言ってた。だから、マァ、チョットダケド、やった」
最後は尻すぼみになる真相に、それって一年の時の話じゃない?覚えてたの?だとか、もうそんなことは言えなかった。
黙って顔を覆って俯く。風が止んで下校予告のアナウンスが鳴っても正面をまともに見れなくて、馬鹿らしくなってくる。
やがて深呼吸を三回。それからそうっと指の隙間から覗いたら、彼は椅子に座り直して私を見つめていた。
目が合って、一秒。何も言えない私に仕方なさそうに。
「勉強しなくていいなら最後までいよーぜ」
と言って綺麗に笑うものだから、たまらず私は話題を逸らすことになる。
悪いけどまだ勉強に逃げさせてよ。
「さっきの、本当はマイナス1点だから……」