【ミッドナイト】
海の波音だけが静かにたゆたう真夜中の暗闇。都会にいた頃は夜でもネオンの光が鮮やかに瞬いて、人々の騒めきがいつだってうるさく響いていたのに、まるで別の世界にでも来てしまったようだ。
物語に描かれるミッドナイトラジオの何とも言えないノスタルジーは、きっとこういう世界で描かれるものなのだろう。少なくとも喧騒に包まれた大都会の夜では、ラジオを流したところで風情も何もあったものじゃない。
隣では君がすうすうと穏やかな寝息を立てている。いつも何かに怯えるように身を丸めて浅い眠りについていた君が、健やかな寝顔を見せてくれていることに安堵した。この海辺の町に半ば強引に君を連れて越してきたことは、間違いじゃなかったみたいだ。
「ゆっくり寝てね」
窓の向こうから響く波の音に紛れるように囁いて、私は君の額にそっと口づけを落とした。
【安心と不安】
僕の隣でにこにこと君が笑っている。ついこの前お節介で死にかけたっていうのに、相変わらず呑気な顔で。
握りしめた君の手の温もりに安心するのに、それと同じくらい不安になる。困っている人を見捨てられない君が、僕の知らないどこかで危ないことに首を突っ込んで、今度こそ死んでしまうんじゃないかと。ああ、もういっそのこと。
「閉じこめちゃおうかな……」
口の中で小さく転がした声は君には届かなかったらしい。
「え、何か言った?」
不思議そうに首を捻った君の頭をそっと撫でた。こんなことをいくら夢想したって、このアイデアを実現することは結局僕にはできないんだ。だって僕が恋した君は、あらゆる人を助けるためにあちらこちらを駆け回る、自由で力強い君なんだから。
「君が生きていて良かったよって言っただけ」
ただそれだけを口にすれば、君は僕の気持ちなんて何一つわかっていない無邪気な瞳で「ありがとう」と微笑んだ。
【逆光】
貴方の顔、貴方の表情、それらを私が思い出すことはできない。壁一面に埋め込まれた大きな窓の前、真っ白い小さな部屋の中で、貴方はいつも絵を描いていた。
窓から差し込む強い日の光が貴方を眩しいほどに照らし出して、私からは貴方の姿はシルエットでしかほとんど見えない。それでも貴方が一心にキャンパスへと筆を滑らせる姿を眺めていたくて、私は貴方の元へと足を運んでいた。
貴方が私の前から姿を消してしまった今、私に思い出せるのは逆光の中に佇む貴方の朧な面影と、むせ返るほどに色濃い絵の具の香りだけだった。
(それでも貴方を、愛しています)
【こんな夢を見た】
こんな夢を見たんだ。今日も今日とて満開の花畑の真ん中で、僕は君に語って聞かせる。退屈でロクでもない今日の夢を。
鮮やかな青空、心地の良い気温、穏やかな風が花の香りを運ぶ常春の世界。その支配者たる君は、僕の話をいつだって優しく聞いてくれる。そうして二人で手を取り合って、花畑の中に寝転ぶのだ。僕にとっての至福の空間。何よりも楽しく心安らぐ、大切な居場所。だけど。
世界がパリパリと音を立てて砕け始める。ああ、もうこんな時間だ。名残惜しさを覚えながら、君にひらひらと手を振った。
「じゃあ、また明日」
朝になって目が覚めて、そうして『現実』という名の僕のくだらない夢が今日も始まる。
【タイムマシーン】
タイムマシーンを使って、過去の恋人を不幸の連鎖から救いにいく男の物語。テレビの中で繰り広げられるフィクションを眺めながら、隣に座った君の手をそっと握りしめた。
もしも僕の手の中にタイムマシーンがあったとして、僕は過去の君を救いにいってはあげられない。だって傷つくこともなくただ与えられる幸福を享受した君は、もう君じゃない。何度も挫折して、それでも自分の足で立ち上がり続けた今の君は、僕の前から永遠に消えてしまう。そんなのは絶対にごめんだった。
(だってその君は、僕を選ばない)
輝かしいものも苦々しいものも、その全ての経験が今の君を形作って、そうして今の君だからこそ、君は僕と出会い僕を隣に置いてくれた。君の手を握る指に力を込めれば、君は呆れたように笑って僕の顔を覗き込んだ。
「また難しいこと考えてるでしょ。良いんだよ、私は私を救ってほしくないし、私も君を救おうとは思わない。私たちはそれで良いんだ」
美しく微笑んで、君はテレビの電源を消す。落とされた唇の温度が、僕の心を優しく包んでくれた。