【特別な夜】
何が楽しいのかもわからない宴会を終えて、終電に飛び乗って自宅へと戻れば。消して出かけたはずの部屋の電気が何故か煌々と点いていた。
「あ、おかえり。遅くまでお疲れ様」
にこやかに笑った君がひらひらと手を振っている。想定外の姿に思わず目を瞬かせた。
「来るなんて言ってなかったじゃん」
「うん、言ってない。でもなんか疲れてそうだなぁって思ったから、勝手に来ちゃった」
何だよ、それ。力が抜けてその場にしゃがみ込んだ。相変わらず君には敵わない。
「せめてソファに座ろうよ、ね?」
よしよしと頭を撫でてくれる君の手の温もりが心地よくて、張り詰めていた神経がゆっくりと和らいでいく。――君がいる。それだけでくだらない日常だったはずの夜が、特別な夜に変わるんだ。
【海の底】
月光の差し込む黒い海を君と二人で眺めていた。このまま暗くて深い海の底まで二人でどこまでも沈んでゆければ良いのにと望むくせに、本当にそんな道を選ぶ度胸は互いにないんだ。立場も、名声も、家族も、何一つだって切り捨てられない僕たちは、朝になればまたそれぞれの日常へと戻るだけ。
海の底の世界を夢想しながら、夜の海辺で二人きりで手を繋いでいる今この時間だけが、僕たちの交わす全てだった。
【君に会いたくて】
周囲から聞こえる耳馴染みのない外国語。手紙の住所を打ち込んで登録した地図アプリの表示する道順を凝視しつつ、知らない異国の道を進んでいく。と、なぜか不意に後ろから手首を掴まれた。
「そっちは危ないですよ!」
日本語、それも久しく電話越し以外に聞いていなかった君の声。強張った全身の力を抜いて背後を振り返れば、君の目が大きく見開かれた。
「は……? 何でここにいるの……?」
そんなの決まっているじゃないか。にっこりと笑って両手を広げてみせた。
「君に会いたくて!」
呆れたようにバカじゃないのと呟いた君の耳が、真っ赤に染まっているのが可愛らしくて仕方がなかった。
【木枯らし】
ひゅうひゅうと吹き荒ぶ木枯らしに身をすぼめる。寒さに震えていれば、呆れたような嘆息とともに背後から布が降ってきた。
「それ、使いなよ。見てるこっちが寒いんだけど」
「ありがとう!」
君が愛用している、肌触りの良い薄いブルーのマフラーに口元を埋めた。ポカポカとした温かさが首元を包んでくれるだけで、随分と木枯らしの冷たさが和らいだような気がする。
「何でいつもマフラーしてこないかな……」
「ごめんごめん、つい忘れちゃうんだよね」
ヘラヘラと軽い調子で謝罪を口にする。毎回律儀に文句を言いながらも、マフラーを貸してくれる君の優しさが嬉しくて、わざと薄着で出てくるのは、一生の秘密だ。
【美しい】
化粧もファッションも香水も、全て美しいものだけで構成していたい。そう主張するといつだって、美意識が高くて凄いねなんて言われるけれど。
「そんなたいそうな話じゃなくない? 自分が最高に美しい姿で生きていたいっていうのは、ただ私がそうありたいってだけの話なんだし」
「まあみんな、そんな風に綺麗には割り切れないってことでしょ」
昔から私の不平に付き合ってくれる幼馴染は、ティーカップを傾けながらそう薄く微笑んだ。私の思う、この世で最も美しい人。私はただ君に釣り合う私でいたくて、精一杯の美しいもので自分を飾っているだけなんだ。
いつだって堂々と背筋を伸ばして、誰のことも否定はしない。だけど自分自身の意思だけは決して曲げない、高潔で美しい幼馴染。私にとって美しさとは、周囲からちらちらと向けられる羨望の眼差しに萎縮せず、君の隣に立ち続けられるよう自分を奮い立たせるための最強の武器だ。