【本気の恋】
真夜中に電話一本。呼び出されて向かった行きつけのバーの片隅で、君はポロポロと涙をこぼしていた。迷惑をかけただろうマスターへと視線だけで謝罪を向け、僕は君の隣に座る。
「またフラれたの?」
「うるさいなっ……いきなり傷っ、抉らないでよ……」
嗚咽まじりに僕を睨みつける君の潤んだ瞳が、間接照明の光を受けて宝石のように煌めいていた。はいはいとわざと雑に頷いて、君の背中を軽く撫でる。
「っ、本気だったのに、なんでいっつもみんな、はなれてくの」
「そうだね、君は本気なのにねえ」
いつだって誰かに恋をしている君は、確かに他人からは遊びで恋人を取っ替え引っ替えしているようにしか見えないだろう。その恋の全てに君が本気で熱をあげて、「本命じゃないんでしょ」なんてお決まりのセリフでフラれるたびにズタズタに傷ついていることを、誰も知りはしないのだ。
その恋が本気かどうかなんて、本人にしかわからないものだろうに。他者の恋の本気度を勝手に推量するなんて、今回の元恋人も相変わらずロクでもない人間だったらしい。
「まあきっと、次は上手くいくって」
おざなりな慰めを口にして、震える君の肩をポンポンと叩いた。……付き合いだけが長い腐れ縁の友人、きっとはたから見れば僕と君の関係性だってそんなものだろう。そう思うと少しだけ、呆れたような乾いた笑いが込み上げた。
僕の心の奥底に、ずっと燻り続けている熱。君が傷つくたびに寄り添って、慰めて、そうしていつか君が僕へと目を向けてくれる日を、僕は永遠に待っている。
君のその恋の在り方ごと愛せる人は僕以外にいないんだって、そう君が気がつく日まで、十年でも二十年でも僕は涙をこぼす君の隣で、君の背中を撫で続けよう。――それが僕の抱いた、本気の恋の形なのだから。
【カレンダー】
来月のカレンダーをめくれば、最初の日曜日に紫色の小さなシールが貼られていた。あまりにも久しぶりに見たそれに、思わぬ感慨が込み上げる。
私と君と、それぞれの予定がある日には、それぞれの好きな色のシールを貼っておく。私が青で君が紫。色の傾向が偏りすぎじゃないかと笑い合って、結局二人一緒の用事の日には赤色のシールを貼ることにしたんだっけ。
君が仕事の都合で海外へ渡ってから、もう十ヶ月になる。その間に青色のシールに埋め尽くされたカレンダーに慣れてしまった身としては、違う色彩があるという事実だけで自然と口元が綻んでしまった。
……前々から決まっていた、君の帰国予定日。そっか、来月になれば君に会えるんだ。心臓が高鳴って仕方がない。
「まったく、相変わらずバカなんだから」
小さく呟いて、シールの台紙を手に取った。紫色のシールの上から、赤いシールを貼り直す。
君を空港まで迎えに行って、二人で家に帰ってくるんだから。君一人の予定じゃなくて、ちゃんと二人の予定にしておいてよ。
妙なところで臆病で遠慮しがちな君へと心の中で軽く文句を述べながら、私は弾む気持ちで赤いシールに飾られたカレンダーを見つめた。
【喪失感】
目の前の写真をじっと眺める。焼香の煙臭さが、まだ鼻の奥に残っているような気がした。照れたように無邪気に笑う写真は、兄の友人が提供してくれたものだ。私の前ではあの人は、絶対にこんな表情を浮かべなかった。
厳格、真面目、口うるさい。それが私の中のあの人の印象だ。事故で亡くなった両親の代わりに私を育てるのが、自身の義務だと思い込んでいた馬鹿な人。
はっきり言って、あの人のことは苦手だった。もともと疎遠ぎみだった、半分しか血の繋がらない年の離れた兄にいきなり世話を焼かれたって、どう接して良いのかもわからない。だから病院から電話が来たときも、自分でも驚くくらいに冷静さを保てていたのに。
悲しいわけじゃない。涙も出てこない。だけどあの人の小言を聞くことはもうないのだと思うと、空洞が身体の中心に開いたかのような奇妙な空虚さを覚えた。
(……ああ、そうか。これで私は本当に、ひとりなんだ)
どうしようもない喪失感を抱えながら、私は兄の遺影の前でぼんやりと立ち尽くしていた。
【世界に一つだけ】
首から下げた不格好で古めかしいデザインのペンダント。ぺらぺらと聞かれてもいない噂話に盛り上がる職場のかしましい同僚たちは、私の胸元に踊るそれに不意に視線を止めた。
「ずっと思ってたんだけどさ、それ服のテイストに合ってなくない?」
「いつも同じとしてるよね、新しいの買いなよ」
鼻をつく酒の匂いがわずらわしい。酔った勢いで気が大きくなっているのか、余計なお世話を向けてくる彼女たちに、悪気は一切ないのだろう。親切の押し売り、そんな言葉が頭の片隅をよぎった。
ああ、やっぱり断ってしまえば良かった。君が人付き合いも大切だよと苦言を呈するから、大嫌いな飲み会なんかに顔を出してあげたのに。
「良いの、これが気に入ってるから」
空気なんて一切読まずに、不機嫌さを込めた声でキッパリと言い切った。場の空気が凍り、一瞬の気まずさが訪れる。それを無視して、私は目の前のビールジョッキを勢いよく傾けた。
事故で片腕の自由を失った君が、それでも私のためにと作ってくれたペンダント。上手くできなかったからとこっそり捨てようとしているところを偶然見つけて、無理を言って贈ってもらった私の宝物。
世界に一つだけしかない、君の想いが込められた大切なペンダントは、今日も私の胸元で堂々と揺れている。
【胸の鼓動】
朝起きるといつも、君の頭が僕の胸に乗っている。僕が目を覚ましたのに気がつくと、悪戯っぽく笑って身を離し、おはようと笑うのだ。
「うん、おはよう」
まだショボショボとする目を擦りながら身体を伸ばす僕を、君は穏和な笑みを浮かべて見守っている。そんな君へと手を伸ばして、僕は君の艶やかな黒髪をくしゃりと撫でた。
「え、何?」
「別に。なんか撫でたくなっただけ」
驚いたように目を瞬かせた君へと、ぶっきらぼうに応じた。朗らかで賢く優秀な人材として世間からは評価されている君が、本当は臆病な寂しがり屋だってことを、僕だけは知っている。
――朝起きて貴方の呼吸が止まっていたらと思うと怖いのだと、そう泣きながら打ち明けたかつての君の姿を思い出す。それを聞いてすぐに、僕は君に同居を提案した。そうすればいつだって、僕の息を確かめることができるから。
毎朝僕の胸に耳を当てて鼓動を確認しなければ不安に押しつぶされてしまう君の脆さが、世界の何よりも愛おしいなんて、僕もたいがい趣味が悪いのかもしれない。そんなことを思いながら、僕は君の肩をそっと抱き寄せた。