いろ

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9/7/2023, 10:31:18 PM

【踊るように】

 地上の青空を飛ぶ君の姿を、頬杖をつきながら眺める。神々に逆らい地上へと追放された君のことを、愚かだと評するものは決して少なくない。僕だって、もう少し立ち振る舞いを考えれば良かったのにと苦言を呈したくなるくらいだ。
 だけどそれでも、人間たちの喝采を受けながら自由に空を飛ぶ君は、天界にいる時よりもずっと楽しそうだった。
 救いを求める人間たちを助けて何が悪いのだと、神々へと堂々と反抗してみせた君の、鮮烈な意思を宿した横顔を思い出す。ああ、そうして人間たちと共に汚れた地上で泥に塗れるほうが、あらゆる栄華に囲まれた天界での生活よりも、君にとってはよほど幸せなのだろう。
 いつもつまらなそうに翼をはばたかせていた君が、踊るように空を舞う。自由で高らかなそのありようが眩しくて、天界の掟を馬鹿馬鹿しいと思いながらも逆らうだけの勇気もない僕は、ただ静かに瞳を細めた。

9/6/2023, 10:02:04 PM

【時を告げる】

 時計台の番人、時間の守り手、そんな風に呼ばれることもあるけれど僕の仕事はただ歴史あるこの時計台を手入れし、決まった時刻になったら鐘を撞き鳴らすことだけだ。日がな一日中時計台に閉じこもり定期的に鐘を鳴らさなければならないのだから、むしろ囚人のような生活だといえた。
 昔はこんな仕事は嫌だと、自分の天運を嘆いていたっけ。眼下に広がる街並みを見下ろしながら、僕は懐かしさに笑みをこぼした。
 正午を告げる鐘を打つ。昼休憩にざわめき始める群衆たちの片隅、広場で花売りをしていた少女が慌てたようにポケットから薬を取り出した。
 定期的に薬を飲まなければ生きていられない、吹けば飛ぶほどにか弱い命の女の子。時計台の鐘の音が彼女の命綱なのだと、様子を見ていて気がついた。
 薬を飲み終えた彼女は、時計台へと向けて深々と一つお辞儀をする。そこに鐘を鳴らす人間がいることなんて見えていないだろうに、それでもいつだって彼女は丁寧に感謝を捧げてくれた。
 彼女と出会って、僕は自分の仕事の意味を知った。僕がこの時計台を守ることで助かる命があるならば、一生この塔に囚われたままでも構わないと、そう心から思えるようになった。
 さあ、時計が狂うことのないように今日もメンテナンスをしなければ。明日も明後日も、君のために時を告げることができるように。
 黒パンのサンドイッチにかぶりつく君の素朴な姿を名残惜しく眺めながら、僕は時計台の機関部へと降りていった。

9/5/2023, 9:54:17 PM

【貝殻】

 巻き貝を耳にあてれば、ざぷんざぷんと波の音が響く。この音色はいつだって私に、故郷の海を思い起こさせた。
 深い青色の美しくも雄大な海だけが取り柄の、何もない田舎町。それが私の生まれ故郷だ。忙しなく働く両親になかなか構ってもらえず、同世代の子供も周囲に少なかった幼い頃の私は、いつも浜辺に座って寄せては返す波の音を聞きながら、学校の図書館で片っ端から借りた本を読んでいた。
 君に出会ったのは、雪のちらつく寒い寒い冬の日。マフラーに顔の下半分を埋めながら本のページをめくる私に、声をかけてきたのが君だった。
「いつもそこにいるよね。本が好きなの?」
 咄嗟に顔を上げる。真冬の暗い色合いの海の中に、人影が立っていた。明らかに異様で不可思議なその存在を、だけど私は恐ろしいとは思わなかった。
 少年とも少女ともつかないその子供は、私の話し相手になってくれた。それでも海から出れば良いのにという私の提案にだけは、決して頷かなかった。
 気がつけば日が暮れていて、名残惜しむ私へと君は帰宅を促した。
「ねえ、また会える?」
 私の問いかけに、君の纏う空気が少しだけ寂しそうなものに変わる。訪れる夜の気配に包み込まれてその表情は見えないけれど、きっと悲しそうな顔をしているのだろうと想像がついた。
「……うん、きっとまた会えるよ」
 それは嘘だった。あれから何度通っても、君が私の前に姿を見せることはなかった。だけど私が大学進学を機に故郷を離れる最後の日、浜辺にひとつだけ貝殻が置いてあった。私がいつも座っていた特等席に、まるで見つけてくれと言わんばかりに。
 きっとこれは、君からの餞別。今でも君はあの海で、静かに人々を見守っているのだと、そう私は信じている。
 貝殻から響く波の音が、君の涼やかな声のようで。懐かしさを胸に抱いて、私はそっと瞳を閉じた。

9/4/2023, 9:57:08 PM

【きらめき】

 幼い頃、一度だけ母にコンサートへ連れて行かれた。ほとんど親と出かける機会なんてなかった当時の僕は、いろいろと荒んでいた時期だったことも相まって、会場に入ってからも終始不機嫌だったことを覚えている。
 友だちとの関係、理不尽で大嫌いな先生、僕に対してほとんど無関心な両親……今となっては些細な悩みでも、当時の僕にとっては人生の全てが暗闇に覆われたくらいの心持ちだった。そんな時に関わりの薄かった母親に無理矢理連れ出されたのだから、全身で不満を表すことくらいは許されるだろうと僕は思っていた。
 だけどそんなささやかな抵抗は、ライブが始まった瞬間にどこかへと吹き飛んだ。大音量で鳴り響く音楽、華やかで色とりどりの衣装、ステージを染め上げる鮮やかなライティング……ああこの世界にはこんなにも目まぐるしく美しいものがあったのかと、僕の全身に衝撃が走った。
 気がつけば母親から押し付けられていたペンライトを夢中で振っていた。あの日以来、僕の世界はすっかりと変貌してしまった。
 歌を練習した。踊りを練習した。いくつものライブに足を運び、美しい夢に酔いしれた。そうして今、僕は。小さな小さなステージに、両足を踏みしめて立っている。

 幼い頃に見た、星よりも眩しい特上のきらめき。今日から僕は、そのきらめきを纏って生きていく。
 ペンライトの海が客席を埋め尽くすステージで、僕は大きく息を吸い込んだ。

9/3/2023, 9:58:07 PM

【些細なことでも】

 眉間のシワの深さ、1時間あたりのため息の回数、コーヒーに入れる砂糖の数。ひとつひとつは小さなことだけど、その全てを観察して統合し、私はキーボードの上を走る君の手を横から強引に掴んだ。
「はい、今日はここまでね」
「え。いや、でも締め切りが……」
「君のことだから、どうせ三日前に余裕を持って終わらせようとかしてるんでしょ。何度も言ってると思うけど、締め切りっていうのは当日中に間に合えば良いの」
 まったく、ワーカーホリックにも程がある。どこからどう見ても脳が限界を訴えているんだから、とっとと休めば良いのに。目を離すとすぐに自分で自分を追い込んでしまう君には呆れてしまうけれど、そんな君をいつまでも見捨てられない私の性分も大概だった。
「ほら、お風呂沸かしてあるから入っておいで」
 勝手に上書き保存をし、ノートパソコンをばたんと閉じる。そこまでしてやればようやく、君は小さく頷いてのろのろと立ち上がった。
 締め切り付近じゃなければ頼りになる人なんだけど、この時期だけは本当にダメだ。一人にしておいたら三日で倒れてる気がする。
 だから私はどんな些細なことでも、君の体の悲鳴は絶対に聞き逃さない。まずそうな時は無理矢理にでも休ませてあげるんだって決めている。いつもは君に助けられてばかりの私が、たった一つ君にしてあげられることだから。
 さて、君がお風呂に入っている間に、アロマを焚いてハーブティーを入れておこう。湯船で撃沈されてても困るから、10分経ったら声だけかけに行って。
 君を穏やかな眠りに導くための手順を頭の中で考えながら、私は並んだアロマオイルの中から君が一番気に入っているラベンダーの香りのものを手に取った。

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