【貝殻】
巻き貝を耳にあてれば、ざぷんざぷんと波の音が響く。この音色はいつだって私に、故郷の海を思い起こさせた。
深い青色の美しくも雄大な海だけが取り柄の、何もない田舎町。それが私の生まれ故郷だ。忙しなく働く両親になかなか構ってもらえず、同世代の子供も周囲に少なかった幼い頃の私は、いつも浜辺に座って寄せては返す波の音を聞きながら、学校の図書館で片っ端から借りた本を読んでいた。
君に出会ったのは、雪のちらつく寒い寒い冬の日。マフラーに顔の下半分を埋めながら本のページをめくる私に、声をかけてきたのが君だった。
「いつもそこにいるよね。本が好きなの?」
咄嗟に顔を上げる。真冬の暗い色合いの海の中に、人影が立っていた。明らかに異様で不可思議なその存在を、だけど私は恐ろしいとは思わなかった。
少年とも少女ともつかないその子供は、私の話し相手になってくれた。それでも海から出れば良いのにという私の提案にだけは、決して頷かなかった。
気がつけば日が暮れていて、名残惜しむ私へと君は帰宅を促した。
「ねえ、また会える?」
私の問いかけに、君の纏う空気が少しだけ寂しそうなものに変わる。訪れる夜の気配に包み込まれてその表情は見えないけれど、きっと悲しそうな顔をしているのだろうと想像がついた。
「……うん、きっとまた会えるよ」
それは嘘だった。あれから何度通っても、君が私の前に姿を見せることはなかった。だけど私が大学進学を機に故郷を離れる最後の日、浜辺にひとつだけ貝殻が置いてあった。私がいつも座っていた特等席に、まるで見つけてくれと言わんばかりに。
きっとこれは、君からの餞別。今でも君はあの海で、静かに人々を見守っているのだと、そう私は信じている。
貝殻から響く波の音が、君の涼やかな声のようで。懐かしさを胸に抱いて、私はそっと瞳を閉じた。
9/5/2023, 9:54:17 PM