kamo

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4/21/2023, 1:35:54 PM

6 雫

「給食のちゃんぽんの油のまるいのを、どうしても一つにしてみたくて、お箸でずっと雫を垂らしてたら、先生にすごく怒られちゃったの。小学校ってもっと楽しいと思ってたのに、つまんない」
「いやそりゃ怒られるだろ……給食の時間はちゃんと食べろよ…」
 十二歳年下の妹ひなたが、庭でたんぽぽの綿毛を観察しながらぶつくさ言っている。
 今月小学校に入ったばかりの我が妹は、俺に似ず知的好奇心が旺盛で頭がいい。気になったことがあるととことんまで観察したり実験しないと気が済まないたちだった。幼稚園の時は工作やら科学の絵なんやら、いろんな賞の幼児部門を総なめにしている。
 今日は、通り雨で少し濡れた綿毛がどのくらい乾いたら自然に飛ばされていくのかを確かめたいのだという。飽きずにずっと、綿毛の白いところがふんわり開くのをまっている。
「ねえお兄ちゃん。どうしてちゃんぽんの油は、一つになりそうでならないの? どういう仕組み? キッズケータイで調べても出てこないの」
「……知らない」
 なんだっけ? 油どうしは弾きあうんだっけ? 表面張力? 良くは知らない。俺は妹に似ず凡才で、中堅どころの私文にスベったしがない浪人戦士だ。ちゃんぽんの油より英単語の方が大切である。
「うーん。もっと大きな油で試したいな。四丁目の川でやってみようかな。あそこ、変な油でいつもぎとぎとしてるし」
「やめなさい。落っこちたら大変だから」
 ひなたは探求心の塊で、確かめたいことを見つけると、一人でふらふらとどこにでも行ってしまう。物騒なご時世だ。共働きの両親から「あんたずっと家にいるんだから、ひなちゃんが変な事件に巻き込まれないようにちゃんと見てなさいよ」と命じられている。両親は年の離れた末娘であるひなたにメロメロなのだ。ああ浪人生というのは、かくも家庭内における地位が低いものだろうか。
「お兄ちゃん、明日はヒマ? わたし、川に行きたい」
「やだよ……お前と歩いてると誘拐を疑われて職質されんだもん……」
「それはお兄ちゃんの身だしなみがだらしないのが悪いのよ。仕事も学校も行ってないからって、さぼっちゃだめ」
「……」
 小1ってこんなにかわいくないものだっけか。少なくとも俺の子供時代はもっと素直で愛らしかったはずだ。
 はぁ、と小さくため息をついて、ひなたはたんぽぽの観察を再開した。
 その顔が、ちょっと沈んでいる。
 こいつは入学してからこっち、まだ一度も、放課後に友達と遊んでいない。まあ理由はだいたい想像がつく。給食のちゃんぽんに夢中で雫をたらす、知的好奇心の旺盛すぎるこまっしゃくれたクラスメイト。同級生だってそうそう声なんてかけられないだろう。どれだけ苦心して一つにまとめてもぷつんとはじき出されてしまう小さな油の玉みたいに、ちょっとクラスから浮いてたりするかもしれない。
「小学校ってもっと楽しいと思ってたのになぁ」
 ひなたはさっきと同じセリフをもう一度言った。
「まあそのうち一人くらいは友達できるよ」
 面倒くさいのでそう返しておく。俺には小学生女子のことなんて分からない。
「お兄ちゃん。わたし別に友達の話なんてしてないけど」
「あーそっか、ごめんごめん」
「十八年も生きてるのに、お兄ちゃんには本当にデリカシーがないよね」
「十八なんてこんなもんだよ」
「ええー、わたしはもっと、思慮深い十八歳になりたいな」
「はいはい。がんばれがんばれ」
「またそうやって子供扱いして」
 ふてくされるひなたと、たんぽぽの綿毛をじっと見下ろした。
 天気雨で猫の毛みたいにしっとりしてしまったほわほわは、まだ完全には乾きそうにない。
「こいつはいつ飛んでいくんだろうな」
「それを今から確かめるんでしょ」
 そして綿毛が飛んだら、ひなたはどこまでも追いかけていくのだろう。俺はそれについていかねばならない。あー、めんどくせ。
 我が妹は本当に変わりもので落ち着きがない。
 しょーがねぇなぁ、本当に。

4/20/2023, 12:04:36 PM

5 何もいらない 

 そこは一杯の、熱いポトフを出す洋食店だ。
 店構えは四十五年前から変わっていない。指でなぞれば筋が残るびろうどのシートに、学生の頃はひそやかなメッセージを書いて遊んだ。
 隣に座った恋人にだけ見えるように、love、なんて。携帯どころかポケベルもなかったような頃の話だ。ピンクの公衆電話やレコードプレイヤーは現役を退いて長く、片隅のボックスシートには、テレビデオと「アラジン」のテープが置いてある。こちらはまだ、たまにだけど常連客の孫やひ孫が観ている。しゃれたようでもありどこかの家の居間のようでもある、不思議な店だった。
 店主は数十年変わっておらず、すでに八十歳を越えていると思う。いつ来ても愛想のない男性で、数年前には手元がおぼつかなくなって自慢のコーヒーをいれるのもやめてしまった。メニューもどんどん減らし、揚げ物などは完全に出さなくなった。それでもポトフは出し続けている。これだけは「どれだけ耄碌しても作れる」らしい。この店はポトフがあれば他に何もいらないよ、と褒めているようで失礼なことを言うお客さんも昔から多かった。
 私は今日、四十三年務めた会社を定年退職した。拍手とともに手渡された花束は色鮮やかでみっしりと分厚い花弁をを持ったものばかりで、心遣いは嬉しかったけれど、一人暮らしの自分のマンションに飾るのには少し、大きくて強すぎる気がした。
 そのせいかは分からない。学生のころから月に一度くらいふらりと訪れているこの店に、なんとなく足が向いた。
 別に、持て余した花束を「店に飾ってちょうだいよ」と押し付けるような気はない。それはさすがに迷惑だ。
 ただいつものポトフが食べたかった。あれがふいに恋しくなったのだ。私は家庭をつくったことはなく、両親もすでにない。料理は下手だからさほどしないし、いつも時間のかからないもので済ませてしまう。じっくりと煮込まれているのに美しく透き通った、塩気と野菜の甘味がぽたぽたと胃に落ちて広がるようなあのスープ。複雑なレシピではないのに、自分では絶対に出せない味。
「……ふぅ」
 不愛想な店主が運んできたポトフはおいしかった。いつもの味だ。本当に、いつも通りの。
 視界の片隅に、うっすらとほこりをかぶったテレビデオがあった。今日に限って、私以外にお客はいなかった。夕方は幼児連れの母親がいることもあれば、レトロ趣味の若い女性がいることも多いのに。それを少しだけ寂しく感じた。私が四十五年ぶんいろいろあったように、この店にだってお客にだっていろいろあったのだろう。普段はあまり考えないことを、ふと考えてしまう。こういう思い入れも不愛想な店主には迷惑なのだろうけど。でも今日くらいは。
 よく煮込まれたジャガイモですっかりと腹はくちくなり、私は少しやすんでから、席を立った。
 ポトフだけの洋食店を後にし、満腹の穏やかな気持ちで歩き出す。お腹いっぱいになると、人は些細なことはどうでもよくなるのだろう。花束の強すぎる香りも、もう気にならなかった。私は六十五歳のおばあさんで会社も定年してしまったけど、足腰はまったく衰えてなんかいない。会社からの最後の帰り道を、ゆったりと歩いた。

4/19/2023, 12:01:47 PM

4 もしも未来を見れるなら

 もしも未来を見れるなら
 美術の時間に、そういうテーマで絵を描くことになった。
 みんなワイワイと好き勝手におしゃべりしながら、それぞれの未来を描いていく。
 将来の夢は看護師だから白衣の自分を書く子もいれば、未来の街っぽくリニアカーを書く子もいる。
中には、未来なんてありっこないとばかり真っ暗に画用紙を塗りつぶす子もいた。おいおい私らまだ小6だよ、何があったの。
「レミちゃんは何書くの?」
「ドームツアー」
 隣の席からそう聞かれて、私は即答した。
 そう。私は、自分の夢を描いた。
 そこはアイドルのステージだ。いろとりどりのライト、推しをあがめる観衆。
 清楚であると同時に躍動感も演出してくれる、くるくる広がるひざ丈のスタート。
 そして世界のすべてに愛された、だけど世界のすべてから隠されたと言わんばかりの、かわいいけどちよっと憂いを帯びた笑顔。
 私が憧れる世界、そのままだ。
 ああ本当にすてき。はやく駆け上がらなくちゃ。この世界に。
「これがあなたの思う未来なの? アイドル志望なのかな。レミさんはかわいらしいものね。きっとなれるわ」
 書きかけの絵を見せると、先生は笑顔でそう言った。
「はい。これが私の未来、私の将来の夢です」
 私は胸を張って答える。
 ……だけどね、ちがうんです。先生。
「先生、ひとつ勘違いをしていますね」
「え?」
 まったくもって先入観とは恐ろしい。
 私がなりたいのはアイドルではない。
 ファンの中でも最も熱い崇拝をささげる特別な存在。昔で言うトップオタだ。
「私の夢は、推しのドームツアーを最前列で見守ることです。ステージにいるのは推しのリサナで、私はこれです。これが私の理想の未来です」
 指さす先には、私の姿がある。両手を合わせてリサナの歌に聞き入っている。
 優しく悲しく世界を震わせる、あの子の歌声は最高なのだ。
 私は推しをもっとも近くで見て、もっとも理解できる存在でありたい。
 かけあがりたいのだ。あの子のトップオタに。
「そ、そうなの。ごめんね。早とちりしちゃった」
 先生はそう謝ってくれた。作業の時間はまだ残っている。私は自分の席に戻って、絵をもう少し書き込んでいくことにした。
 そう遠くない将来、絶対やってくれると信じてるドームツアー。夢想するだけでも幸せになれる。未来っていいものだ。私は私の思う未来を、画用紙の上で完璧にしていく。光の粒子をどれだけ書いても足りないくらい、そこはきらきらしていた。

4/18/2023, 11:36:41 AM

3 無色の世界

 犬には世界が白黒に見えている、と聞かされたのは五歳の時で、それを知った私は怖くなって泣いてしまった。実際には完全な白黒というわけではなく苦手な色もあるという程度で、きちんと夕空や果物の色を識別しているらしいけれど。それでもそれは確かにこわいことだったのだ。
 生まれる前から一緒にいた飼い犬のミミが、実は白と黒の世界に生きている。自分とまったく違う存在であることを、子供らしい幼さや一体感が認めたがらなかった。大げさに言えば、世界が少し、自分を置いて行ったような気持になった。
「黒だって色のうちじゃん。そんな泣くなよ」
 犬の色覚のことを私に教えた幼馴染のヒロくんは、ひどく焦ってそう慰めた。
 黒だって色のうち、という少しずれた言い方が、なぜか心地よく、少しだけ落ち着いた。
「ほら、拭きなよ」
 ヒロくんは当時にしては珍しいくらい折り目正しい男の子で、きちんとハンカチを持ち歩いていた。お父さんが小さな本屋さんをやっていて、ささやかな雑学をよく知っていた。ミミも彼によくなついていて、二人と一匹でよく川原や公園を散歩した。中学からはすっかり疎遠で、高校からは他人くらいの距離感になって、東京の大学に進学してからはほとんど会うこともなくなった。
 私は単位を落とさないだけで精一杯で「ミミがあぶないかも」と母から連絡を受けた時も、帰ることができなかった。就職が決まって数年ぶりに実家に帰ると、ミミはもう、小さな小さな仏壇になっていた。白黒よりは少しだけ鮮やかな世界で、私よりずっと早く亡くなってしまったのだなと思ったらとても悲しくなり、私はふと、ヒロくんの実家のあたりに行ってみた。小さな本屋さんはもうなくて、そこはコイン駐車場になっていた。一時間三百円と書かれた鮮やかな看板が、なぜかひどく目にしみた。


4/17/2023, 5:07:09 PM

2 桜散る


 散る桜の子と書いて散桜子。我が両親はひどい名前を私に与えたものだと思う。
 チサコという響きはかわいいと言えなくもないし、友達にチサちゃんと呼ばれるのは嬉しかったけど。
 しかし花が散るなんて、縁起が悪すぎやしないだろうか。高校大学と、桜を散らせることなく現役で第一志望に合格した私の意志の力をほめてほしいものだ。
「散桜子という名は、葉桜が好きな私が付けました。きれいな桜が散った後には、緑がいきいきと芽吹き、強い葉が幹を彩る。そんな風に、花の時期を過ぎても強い子であって欲しくてつけた名です。名は体を表してか、四十過ぎまで独り身でしたが、自分らしくたくましく生き、こうして人生の中盤、葉の時期にすばらしい伴侶とまで巡り会ってくれました。散桜子は私たちの自慢の娘です」
 今日は私たちの結婚式だ。最後の挨拶で、父がそんな風に語っている。
 名付けの由来は、子供のころからさんざん聞かされているのですでに目新しくもなんともない。しかし隣にいる夫は感動してボロ泣きしている。涙もろい人なのだ。私はまあ、いい人と結婚したのだと思う。
「チサのお父さん、いい人だなぁ」
「そうだね、あんたもね」
 四十過ぎの新郎新婦に、ぱちぱちといくつもの拍手が送られている。照れ臭いけど悪くなかった。今日は春先の、よく晴れた日だ。式場の裏に一本だけ咲いている桜は散りかけ。大きくて堂々とした木だから、きっと完全に散っても、それなりには綺麗だろう。私のこれからの人生だって、きっとそれなりに楽しくて、鮮やかなものになるはずだ。目の奥がツンとした。

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