5 何もいらない
そこは一杯の、熱いポトフを出す洋食店だ。
店構えは四十五年前から変わっていない。指でなぞれば筋が残るびろうどのシートに、学生の頃はひそやかなメッセージを書いて遊んだ。
隣に座った恋人にだけ見えるように、love、なんて。携帯どころかポケベルもなかったような頃の話だ。ピンクの公衆電話やレコードプレイヤーは現役を退いて長く、片隅のボックスシートには、テレビデオと「アラジン」のテープが置いてある。こちらはまだ、たまにだけど常連客の孫やひ孫が観ている。しゃれたようでもありどこかの家の居間のようでもある、不思議な店だった。
店主は数十年変わっておらず、すでに八十歳を越えていると思う。いつ来ても愛想のない男性で、数年前には手元がおぼつかなくなって自慢のコーヒーをいれるのもやめてしまった。メニューもどんどん減らし、揚げ物などは完全に出さなくなった。それでもポトフは出し続けている。これだけは「どれだけ耄碌しても作れる」らしい。この店はポトフがあれば他に何もいらないよ、と褒めているようで失礼なことを言うお客さんも昔から多かった。
私は今日、四十三年務めた会社を定年退職した。拍手とともに手渡された花束は色鮮やかでみっしりと分厚い花弁をを持ったものばかりで、心遣いは嬉しかったけれど、一人暮らしの自分のマンションに飾るのには少し、大きくて強すぎる気がした。
そのせいかは分からない。学生のころから月に一度くらいふらりと訪れているこの店に、なんとなく足が向いた。
別に、持て余した花束を「店に飾ってちょうだいよ」と押し付けるような気はない。それはさすがに迷惑だ。
ただいつものポトフが食べたかった。あれがふいに恋しくなったのだ。私は家庭をつくったことはなく、両親もすでにない。料理は下手だからさほどしないし、いつも時間のかからないもので済ませてしまう。じっくりと煮込まれているのに美しく透き通った、塩気と野菜の甘味がぽたぽたと胃に落ちて広がるようなあのスープ。複雑なレシピではないのに、自分では絶対に出せない味。
「……ふぅ」
不愛想な店主が運んできたポトフはおいしかった。いつもの味だ。本当に、いつも通りの。
視界の片隅に、うっすらとほこりをかぶったテレビデオがあった。今日に限って、私以外にお客はいなかった。夕方は幼児連れの母親がいることもあれば、レトロ趣味の若い女性がいることも多いのに。それを少しだけ寂しく感じた。私が四十五年ぶんいろいろあったように、この店にだってお客にだっていろいろあったのだろう。普段はあまり考えないことを、ふと考えてしまう。こういう思い入れも不愛想な店主には迷惑なのだろうけど。でも今日くらいは。
よく煮込まれたジャガイモですっかりと腹はくちくなり、私は少しやすんでから、席を立った。
ポトフだけの洋食店を後にし、満腹の穏やかな気持ちで歩き出す。お腹いっぱいになると、人は些細なことはどうでもよくなるのだろう。花束の強すぎる香りも、もう気にならなかった。私は六十五歳のおばあさんで会社も定年してしまったけど、足腰はまったく衰えてなんかいない。会社からの最後の帰り道を、ゆったりと歩いた。
4/20/2023, 12:04:36 PM