3 無色の世界
犬には世界が白黒に見えている、と聞かされたのは五歳の時で、それを知った私は怖くなって泣いてしまった。実際には完全な白黒というわけではなく苦手な色もあるという程度で、きちんと夕空や果物の色を識別しているらしいけれど。それでもそれは確かにこわいことだったのだ。
生まれる前から一緒にいた飼い犬のミミが、実は白と黒の世界に生きている。自分とまったく違う存在であることを、子供らしい幼さや一体感が認めたがらなかった。大げさに言えば、世界が少し、自分を置いて行ったような気持になった。
「黒だって色のうちじゃん。そんな泣くなよ」
犬の色覚のことを私に教えた幼馴染のヒロくんは、ひどく焦ってそう慰めた。
黒だって色のうち、という少しずれた言い方が、なぜか心地よく、少しだけ落ち着いた。
「ほら、拭きなよ」
ヒロくんは当時にしては珍しいくらい折り目正しい男の子で、きちんとハンカチを持ち歩いていた。お父さんが小さな本屋さんをやっていて、ささやかな雑学をよく知っていた。ミミも彼によくなついていて、二人と一匹でよく川原や公園を散歩した。中学からはすっかり疎遠で、高校からは他人くらいの距離感になって、東京の大学に進学してからはほとんど会うこともなくなった。
私は単位を落とさないだけで精一杯で「ミミがあぶないかも」と母から連絡を受けた時も、帰ることができなかった。就職が決まって数年ぶりに実家に帰ると、ミミはもう、小さな小さな仏壇になっていた。白黒よりは少しだけ鮮やかな世界で、私よりずっと早く亡くなってしまったのだなと思ったらとても悲しくなり、私はふと、ヒロくんの実家のあたりに行ってみた。小さな本屋さんはもうなくて、そこはコイン駐車場になっていた。一時間三百円と書かれた鮮やかな看板が、なぜかひどく目にしみた。
4/18/2023, 11:36:41 AM