→クリィムソーダ
あの日の思い出。
視線の先に、
クリィムソーダふたつ、そして彼。
美味しいねって飲んだよね。
いつか一緒にこんな色の海に行こうよ、なんて盛り上がって。
スマホをグラスに近づけて海っぽく見える写真撮ったよね。楽しかったな。
私ね、あれから何度も夢に見たよ。
碧色ソーダの海とアイスクリームの大きな雲に囲まれて、あなたと豪華なホテルに泊まる夢。
結局、大シケで辿り着けなかったけど。
嵐の後は晴天とか言うけど、ホントかな?
あなたを思い出してまだ泣いちゃうよ。
あの日とおんなじ席に座って、
視線の先には、
クリィムソーダがひとつだけ。
飲んでも美味しいと思わなかった。
炭酸が喉でプチプチ
お店はザワザワ
みんな楽しそうだね。
私だけ、テーブルにひとり。
テーマ; 視線の先には
→短編・ワタシダケ
医者と患者が診察室で向かい合って座っている。
「あの、これなんですけど……」と女性患者がオズオズと右手の甲を差し出した。
一部分が抉れたように陥没し、そこから2センチほどの軸の細い灰色のキノコが生えている。
「はー、こりゃまた見事なコンナメとワタシダケですねぇ」
医者の感嘆の声に、患者が嘆き声を上げた。「どうして私だけこんな目に!」
エヘンと咳払いをして医者は診察を始めた。
「このワタシダケはいつ頃から生えてきたんですか?」
「わかりません。今日の朝、起きたときにはもうこの状態だったんです。ワタシダケって、こんなに急に育つものなんですか? それにコンナメまでできちゃって」
「人それぞれですけど、寝ている間に育ったんでしょうね。昨日、何か不満を抱えるようなことはありましたか?」
「えっと……」
患者を促すように医者は補足した。「ゆっくりでいいですよ」
患者は前日の出来事を頭でなぞるようにしながら話した。
「昨日は……仕事が忙しくて、家に帰ったら倒れるように寝ました」
「あなたの仕事で忙しかった?」
「いいえ、頼まれた仕事だったんですけど、頼んだ人は先に帰りました。それなのに私だけ残業して……、そっか! その時に思いました! どうして私だけこんな目にって!」
それまでの不安そうな顔が、突如として明るくなる。医者はその表情の変化をカルテに記入した。表情、ヨシ。
「ウオノメが皮膚の特定部位への過剰刺激から来る疾患であるのと同じく、コンナメは過剰な不満感が皮膚に芯を持って現れます」
医者はワタシダケとコンナメの境を消毒液を浸した脱脂綿で拭った。「ワタシダケには数種類ありますが、今回あなたの手に発芽したのは、コンナメを苗床とする種類ですねっ、と!」
―プチッ
「イタッ!!」
いつの間にか医者はピンセットで患者のワタシダケを引き抜いていた。
「コンナメの原因が分かれば、ワタシダケはそこに寄生しているだけなので、菌糸が少しぐらい残っていても問題ありません」
「そ、そうなんですか?」と患者は突然の痛みに目を白黒させた。
「えぇ、コンナメの最大の効果薬は『気の持ちよう』です。ワタシダケにも有効です。今回、早めに受診されたので、『気持ち』が迷ったりねじれたりせずに済んだことも大きいと思います」
「じゃあ……」
「はい、今回の診察だけで十分だと思いますよ。今日はなるべくご自身の心の声を基準に楽をさせてあげてください。うまく行けばコンナメも入浴時にふやけ落ちるかもしれません」
「ありがとうございます!」
医者は、晴れ晴れしい顔で診察室をあとにする患者の後ろ姿を見送った。
「お大事に」
テーマ; 私だけ
→短編・幻の思い出し日記
「えー、迷うなぁ」
「さっきから同じことばっかり言ってんね」
かれこれ10分近く、私たちは大きな棚の前を陣取っていた。棚板で薄く仕切られた中に、はがきサイズの紙が入っている。
「紙ってすっごい種類あるんだね~」
感心する私に、「全部名前がついてる!」と彼女は商品タグを指し示した。
「どれにしようかな~」
再び彼女は迷い始める。これは時間がかかりそうだ。
友人と私は彼女の要望で画材屋を訪れていた。それはカフェでランチをしていたときのこんな会話で始まった。
「遠い日の記憶帳、作ろうかなぁ」
ランチプレートのキッシュを頬張りながら彼女は言った。
「何? どうしたの? 急な文具女子的発言」
「実家でアルバムの整理してたらさぁ、思い出の大事さに目覚めたんだよね~。でも写真以外の思い出って記憶の中じゃん? 書き出してアルバムみたいにしたいなって」
「思い出し日記って感じ?」
「おー、何かいいね。それ、表紙に書くわ」
具体的なアイディアを画材屋に求めて来た結果、彼女ははがきサイズの紙をファイルにしようと決めた。
そして多種類の紙を前に唸っているのである。
「よし! 決めた!」
彼女は1枚の紙を棚から抜き出した。
「1枚だけ?」
「紙、種類多すぎ。とりあえず1枚。これに思い出を書いたら、また新しい紙を買いに来るってしたほうが無駄がなくない?」
あれ? この流れって……。
「そもそも書き出したい思い出ってあるの?」
「あー、紙を選ぶのよりも面倒臭そう」
やっぱりな、もう飽きてんじゃん。
「その記憶帳、完成しなさそう」
「私もそう思う」と彼女は笑った。
テーマ; 遠い日の記憶
→短編・聞こえない。
人の心を覗きたいと思ってことなど一度もない。
でも昔から他人の心の声が頭の中に入り込んでくる。喫茶店などで聞くとはなしに周囲の会話が聞こえてくるような感じとよく似ている。
最近はマシになっていて、聞こえる声も減ってきていた。声というよりはささやきに近いものになっている。年とともに老化したのかもしれない。老化を喜ばしく思ったのは初めてだった。
それでも稀に心の声の音量が大きい人がいて、どうしても防ぎきれないときがある。
今まさに、隣の女性がそれに当たる。
―さっき食べたハンバーグ、私のだけ他の人よりも小さかったよなぁ。
―来週から新プロジェクトかぁ。新しいチーム、仕事やりやすいとイイなぁ。
―あれ? 今日の夜ってヨガのオンラインレッスンだ。忘れてた!
―夏までに痩せようって去年も言ってたっけ。なぁんも変わってないわー。
人の少ない公園の、目立たないベンチを狙って休んでいた私の横に腰掛けてきた、この女性の心の声は終わらない。
冗談じゃない。先にも言ったように、覗きの趣味はない。もう少し休んでいたかったが、私は立ち去ることに決めた。
私はベンチから腰を浮かせた。
―いい天気だなぁ。この空って、あっ…………………
それまで騒がしいくらいだった心の声が、消えた。
思わず彼女へ視線を向ける。
「すいませーん、このベンチだけイイ感じに日陰だったんで座っちゃったんですけど、もしかして私、お邪魔しちゃいました?」
私の挙動不審を訝しがることもなく彼女は明るい声で話しかけてきた。
相変わらず心の声は聞こえない。人は必ず心で何かを考えている。それがすべて消えることはない。心を完全に閉ざした? そんな事があるのだろうか? もしそうなら何故?
この女性の人当たりのよい笑顔の後ろに何が隠れているのだろう?
「もう帰ろうと思っていたところです。お気になさらずごゆっくりなすってください」
なけなしの愛想よさを振りまいて、私は彼女に背を向けて歩き出した。
空を見上げる。彼女の心の声が消える直前、彼女は空に何かを描いたようだった。一体何を思い浮かべたのだろう?
もちろんその答えは見つからない。
よくよく考えれば、それが普通なのだ。
テーマ; 空を見上げて心に浮かんだこと
→叶えたい夢は未だに遠い。
怠惰な自分が耳元にささやく
「終わりにしよう」
その誘いは
まだ終わってないことの証
諦めるな
テーマ; 終わりにしよう