一尾(いっぽ)

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→短編・聞こえない。

人の心を覗きたいと思ってことなど一度もない。
でも昔から他人の心の声が頭の中に入り込んでくる。喫茶店などで聞くとはなしに周囲の会話が聞こえてくるような感じとよく似ている。
最近はマシになっていて、聞こえる声も減ってきていた。声というよりはささやきに近いものになっている。年とともに老化したのかもしれない。老化を喜ばしく思ったのは初めてだった。
それでも稀に心の声の音量が大きい人がいて、どうしても防ぎきれないときがある。
今まさに、隣の女性がそれに当たる。
―さっき食べたハンバーグ、私のだけ他の人よりも小さかったよなぁ。
―来週から新プロジェクトかぁ。新しいチーム、仕事やりやすいとイイなぁ。
―あれ? 今日の夜ってヨガのオンラインレッスンだ。忘れてた!
―夏までに痩せようって去年も言ってたっけ。なぁんも変わってないわー。
人の少ない公園の、目立たないベンチを狙って休んでいた私の横に腰掛けてきた、この女性の心の声は終わらない。
冗談じゃない。先にも言ったように、覗きの趣味はない。もう少し休んでいたかったが、私は立ち去ることに決めた。
私はベンチから腰を浮かせた。
―いい天気だなぁ。この空って、あっ…………………
それまで騒がしいくらいだった心の声が、消えた。
思わず彼女へ視線を向ける。
「すいませーん、このベンチだけイイ感じに日陰だったんで座っちゃったんですけど、もしかして私、お邪魔しちゃいました?」
私の挙動不審を訝しがることもなく彼女は明るい声で話しかけてきた。
相変わらず心の声は聞こえない。人は必ず心で何かを考えている。それがすべて消えることはない。心を完全に閉ざした? そんな事があるのだろうか? もしそうなら何故?
この女性の人当たりのよい笑顔の後ろに何が隠れているのだろう?
「もう帰ろうと思っていたところです。お気になさらずごゆっくりなすってください」
なけなしの愛想よさを振りまいて、私は彼女に背を向けて歩き出した。
空を見上げる。彼女の心の声が消える直前、彼女は空に何かを描いたようだった。一体何を思い浮かべたのだろう?
もちろんその答えは見つからない。
よくよく考えれば、それが普通なのだ。

テーマ; 空を見上げて心に浮かんだこと

7/16/2024, 4:10:39 PM