Sasha

Open App
7/21/2023, 3:51:10 AM

その日、私はいつものように家を出た。そしてコンビニの前の交差点を右に曲がり、路地を抜けて駅に向かった。

本当に、いつものように。しかし今日は、なんだか様子がおかしい。道を行く人が、みんな私の姿など見えないというように、真っ直ぐに私に向かってくるのだ。

私はかろうじて、右に左に身をかわす。

「武道をやってなかったら、ぶつかってるやん…。」

私はブツブツと文句を言いながら会社に向かい、会社のすぐ手前のコンビニでアイスコーヒーを買って、デスクに座った。

パソコン仕事が中心になってから、同僚とはほとんど会話もしなくなった。私の挨拶に応えてくれる人なんていない。

私がノートパソコンを開けたとき、向かいの山本朋子が、真っ青な顔をして私を見ているのに気づいた。ふだん会話なんてまったくしないのに、珍しいこともあるもんだ。

「どうしたの?」

私は話しかけた。しかし声が聞こえないのか、彼女は口をパクパクさせたままだ。

「岡山さん…。」

彼女は私の名前をかろうじて口にした。

「?」

不思議に思いよく見ると、机の上には白い花を飾った花瓶がある。山本朋子は、手に一万円札の束を持っている。机の上には、何かの名簿があるようだ。

身体を伸ばして名簿を見ると、「岡山さん お香典」と書いてあった。チェックボックスには、社員の半数ほどの名前にチェックが入っている。

「お香典?私の?」

何を言ってるんだ。と私は自分の手を見た。向こうの壁やカーテン、観葉植物が透けて見える。足元を見ると、うっすらと靴の向こうにグレーの床が透けている。

そこで突然思い出した。私は、ゆうべ車に轢かれたのだ。コンビニのドアを出て、急いで家に帰る途中に。電気自動車の気配を消したエンジン音に、全く気づかなかったのだ…

そうだ、私は死んでしまったんだ。そのことに今初めて気付いた。まったく、なんてこった。死んでまで会社に通ってしまうとは!

息子はどうしているだろうか。思うやいなや、フッと身体が、いや意識が移動した。息子は、大学病院の霊安室にいるようだ。

【私の名前】

7/19/2023, 11:33:28 PM

「今日は何時までに帰ればいいの?」

物憂げにつぶやく視線の先には、ダッシュボードの上の時計がある。

「今日は子どもが早帰りだから、遅くても3時かな。」

「それだけあれば余裕だね。」

彼はそう言いながら、背後から激しく抱きしめた。待ちきれないようにブラウスの隙間から手を入れる。

かすかな罪悪感が頭をよぎった。

【視線の先】

7/17/2023, 12:55:57 PM

「これが、猪。これは、ウサギ。ほんでこれは、鹿の足跡やな。」

手を繋いで土手の上を歩きながら、父は一つひとつの足跡の主を教えてくれる。これは、私の遠い日の記憶だ。

薄く白い霧の中。土手は集落の端で途切れている。ふだんなら、絶対に足を運ばない寂しい場所だ。

こんなところにわざわざ来る必要があったのだろうか。どうして父は、わざわざこの場所に私を連れてきたのか。

もしかしたら、あれは幻だったのかもしれない。意識のない父の横で、私はそんなことを考える。身体には、いくつかのチューブがつながれている。

私を支えてくれた日灼けした肌が、少ししぼんで見えるのが悲しい。父は、いつの間にこんなに歳を取ったのだろう。

無音の病室に、かすかに蝉の声が響いてくる。それを聞くと、故郷での遠い日の出来事が、まるで夢のように思い出される。

いや、もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。あまり良好とは言えなかった父との関係を埋め合わせるために、仲の良い風景を脳が捏造したのではないか。

そんなことも考えた。しかしその記憶は、私の心にしっかりと根を下ろしている。

【遠い日の記憶】

7/15/2023, 10:32:48 AM

「もう、終わりにしよう…。」

「は?」

私は手にしたフォークを落としそうになった。せっかく雰囲気のいいレストランに来ているのに。

今日はせっかく、ちゃんとお化粧もして、お気に入りのワンピースも着てきたのに。

「もう、こういう曖昧な関係は、よくないと思うんだよね。」

曖昧な関係…そう、私たちは籍も入れずに、同棲生活を続けている。一緒に暮らし始めて、もう3年になる。実家の母親からは、どうなっているのかと年中電話でせっつかれている。

「それはもう、この関係をやめるっていう意味?」

ついに来た。私は身体が、鉛のように重くなるのを感じた。やはり、腕利きのパティシエとして、雑誌の取材も来るようになった彼と、一介のOLである私とは、住む世界が違うのだ。

「そっか…。」

別れの話を切り出すために、わざわざこんな綺麗なお店を予約するなんて。女性には誰にでも優しい彼らしいけど、それがかえって人の心を傷付けるのだ、と少し腹が立った。

お皿に残ったルッコラを、どうやって食べようかとフォークとナイフで突っつき始めたとき、彼が紺色の小箱をテーブルの上に置いた。

「もう、曖昧な関係は終わりにしたいんだ。」

「…はあ。」

私はよく意味が分からず、素っ頓狂な声をあげた。

「俺と、結婚しよう。」

「は?」

よく見ると、それは宝石を入れる小箱だ。彼はそっと小箱を開いて、それからていねいに、キラキラと輝く指輪を私の薬指にはめた。

「!?」

驚きで、咄嗟に言葉が出ない。ようやく顔をあげて彼の瞳を見つめた。瞳がやさしそうに微笑んでいる。

「俺と、結婚してください。」

再度、低い声で告げた。私はつられて微笑んだ。テーブルの上に置いた薬指と、それにはめられた指輪を見つめる。

「…は、はい。」

私はほとんど声にならない返事をして、ぎこちなく微笑んだ。


【終わりにしよう】

7/15/2023, 2:22:19 AM

「わしらは浜松の国衆と、手を取り合って進むんじゃ!」

殿は、興奮して叫びながら、部屋の中をグルグルと歩き回っている。きっとアドレナリンが出まくっているんだろう。

しかしこの後起きることを知っている俺は、迂闊には賛同できない。徳川はこの戦で、コテンパンにやられる。それが史実だ。

この戦の戦死者は、たしか3000人くらいいたはずだ。三方原で武田軍に待ち伏せされた徳川軍は、文字通り惨敗に終わる。その中に俺が加わるのはゴメンだ…

「と、殿!岡崎へはいかが知らせましょうか?」

おずおずと俺は声をかけた。出来れば、何とか出陣を思い止まらせたい。しかしそれでは、歴史への干渉になってしまう。出来ることは、そう逃げることだ。

俺は伝令として、城を出ることにした。

【手を取り合って】

Next