今日という日の喜びを祝福して、鐘を鳴らそう。
離れ離れになっていた、ジョバンニとカムパネルラが再会できたこの良き日に。
再会出来た二人は、これから、
離れ離れの間にそれぞれが見つけた「ほんとうのさいわい」について語り合うのだろう。
何と心温まる光景だろうか。
ここで私の文章を読んでいる皆様は「銀河鉄道の夜」を読んだことがあるだろうか。
私は中学生の時に読んだのだが、ラストの一文がどうも腑に落ちなかった。
あれほど二人で「ほんとうのさいわい」を見つけようと言い合っていたのに、何故ジョバンニはカムパネルラを諦めてしまうのかと。
幼心なりに友情とは…と、ある種虚無のような感情を抱いたのを覚えている。
その後、大人になってから漫画版の銀河鉄道の夜を読む機会に恵まれた。
子供向けに編纂されたその本を読み、
当時の自分の浅はかさを思い知った。
「ほんとうのさいわい」を見つける為には、
今できることを精一杯に行うこと。
当時の私が腑に落ちなかったラストは、ジョバンニが今の自分にできることを選択し、実行するところで物語が終わっていく。
ジョバンニは「ほんとうのさいわい」の為に動いていたのだ。
カムパネルラと交わした「ほんとうのさいわい」を見つける為に──。
もう出会えないと思っていた二人は再会し、笑顔を浮かべている。
もう、その手を離してはいけない。
今度こそ二人で「ほんとうのさいわい」を見つけてほしい。
祝福の鐘を鳴らそう。
二人の「再会」に。
祝福の鐘を鳴らそう。
二人の「さいわい」が永遠に続くように。
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鐘の音
ライオンズゲートが開かれている今。
願いは叶うのだと、宇宙も歌っている。
つまらないことでも…。
テーマ公認で、つまらないことを書いて良いとは。
さて、何を書こう。
日々推し達の投稿で笑顔をもらっているので、日常的な部分でつまらないということは無いのだが。
さて、何が良いだろうか。
…。
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毎年この時期に楽しみにしている朗読劇がある。
演者は3〜6名ほどの声優さん達で、スタンドマイクの前で演じるシンプルな朗読劇だ。
演目は、怖い話。
暑気払いにピッタリな内容ばかりを披露してくれる。
生の演技というのは凄いもので、声優さん達はスタンドマイクから動いていないのに、脳内では物語のキャラクター達が走ったり、息を切らしたりと、映像となって見える。
想像力の部分が凄く刺激されるという貴重な体験が出来るので、欠かさず参加してきた。
かれこれ4年ほど参加し続けていたのだが、残念な事に、今年の朗読劇の開催はないという。つまらないことだ。
朗読劇も無ければ、旅行の計画もしていない。
つまらない夏休みになりそうだと肩を落としていると、日帰りだが母親とSLを乗りに行くことになった。
人生初のSLである。
銀河鉄道の夜ではないか!
現金な話だが、楽しみが一つ出来ただけで、つまらないと思っていた感情などスコーンっと忘れ消えてしまう。
もし、晴れたならばSLからは日光の男体山や筑波山が臨めるという。旅情に誘われるまま山頂に向かって「おーい」と手を振ってみようか。
是非、当日は晴れてほしいものである。
さて、旅のお供に持っていく本は何が良いだろうか。
やはりここは、ベタに「銀河鉄道の夜」だろうか。
ジョバンニやカンパネルラの気持ちが、より分かるようになるかもしれない。
あとは、トランクがあれば最高なのだが、生憎持っていないので、リュックで行くことになるだろう。
SLの雰囲気に合わせ買い求めたいところだが、これも旅のため。セーブは肝心だ。
人生初のSLはどんな乗り心地なのだろうか、今からとても楽しみである。
私はSNSにもアカウントを持っているが、こちらのように毎日投稿などはせず、ほとんど見る専用と化している。
SNSというのは面白いもので、自分の興味あるものばかりではなく、興味の範囲外も目に付くようになっている。
今回は、そこで得た知識と聞き及んでいた知識を元に、ちょいと綴ってみようかと思う。
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人は恋に落ちた時、相手を美化するフィルターを手にする。
そのフィルターを通すと、あら不思議。
相手がとっても格好良く、或いは、可愛らしく見えてしまう。
恋愛で言うところの──
一緒にいられるだけで幸せ。
声を聞けただけで嬉しい。
会えたなら気持ちに花が咲いて、手を繋げたなら天にも昇る気持ち。
相手が何をしても許せてしまう。
──などなど。
恋愛中の何をしても楽しい・幸せという感情は、このフィルターが一役買っている。
恋愛中の心は、お祭り騒ぎである。
脳内でも、幸せホルモンやらドーパミンやらがドバドバと溢れている。
端的に言うと、脳異…失礼、恋愛の魔法にかかっている状態だ。
この恋愛の魔法にかかっている時こそ、結婚へのチャンスタイムなのだという。
相手が何をしても可愛く見えてしまうということは、相手が多少のボロ(致命傷はアウト)を見せたとしても、それすらも可愛いと許せてしまうということである。
「恋は盲目」と昔から言うが、近年は脳科学的にも証明されているのだから感心してしまう。
恋愛の魔法は、もって数年という。
結婚をしたい人は、魔法の期間中(自身と相手の目が覚める前まで)にゴールインすべし!
…とのことである。
この文章を綴りながらも「…さいですか」としか思わないのだから、私が恋愛に目覚めるのはまだまだ先のようだ。
しかし、もし、私が恋をするのなら──言葉に秘めた思いを掬い取り慈しんでくれる人が良い。
そんな素敵な人とは、いつ会えるのだろうか。
…高望みし過ぎか
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目が覚めるまでに
病室…。
多くの人にとって、始まりの場であり、終わりの場でもある。
「病室」と一括りにいっても、その中にいる人は様々だ。生まれくる命に喜びの涙を流す人がいれば、今まさに命の炎が消えようとしている人もいる。
生と死が隣り合う場所なればこその光景だ──
無機質な部屋の中で繰り広げられるドキュメンタリーは、常人では受け止めきれないほどの感情で溢れている。
その中で「病室」は、延々と人の命の重みと儚さを受け止め続けるのだろう。
泣くことも、笑うこともせず。
弱音も吐かず。
拒みもせず。
ただ、どんな人も受け入れる部屋として。
ここのところ、過去に目を向けてばかりいたからだろうか。テーマに「前を見ろ」と言われてしまった。こりゃ失敬。
自分にとって過去を振り返ることは、嫌なことが思い出されるので苦手な行為だった。
楽しい思い出を覆うように、辛かったことや失敗したことばかりが広がって、苦しみばかりが胸を襲うから極力しないようにしていた。
誰にも打ち明けたことがないソレを、見抜いた人物がいる。
前職の直属の上司だ。
私が過去というものに対してネガティブな感情を持っていることを雑談の中から見抜くと、こう言った。
「思い出は、反省とか後悔をするためにあるんじゃなくて、楽しかったと思うためにあるんだよ」
この言葉をかけてもらった時、
「そうなれたら幸せですね」と他人事のように思っていた。
あれから数年。
ここで文章化するくらいには、過去を思い出として扱える大人になった。
「大人になれば、どんな過去も思い出になるのよ」
とは、母親の言だ。
どうやら私も、そういう大人の仲間入りを果たしたらしい。
ここで文章化したものは、ささやかな事ばかりだが、言葉を紡ぎながら満ちていく不思議な感覚を味わっていた。
過去の自分と今の自分が混じり合って、爪の先まで余すことなく自分なのだと再認識するような──自分を取り戻すと言うと少々陳腐だが、本来の姿を素直に受け入れるとはこういう感覚なのかもしれない。
明日、もし晴れたら──
青空を見る度に疼くエスケープの亡霊にこう言ってやろう。
「過去を思い出にできる力を、私は持っているぞ」
エスケープの亡霊も思い出の名の下に、その姿を変えるかもしれない。
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先日書いた文章にて麦畑と書いていましたが、正しくは稲でございました。大変失礼いたしました。
勘違いに至った経緯も思い出しましたので、笑い話に一つ。
家に帰って、黄金の絶景を見たことを興奮気味に母親に語る中学生の私。
「なんかツンツンして見えたけど、アレは何だろう。稲だったのかな?」
母親「この時期だったら、稲はもう収穫されて無いわよ。黄金色でツンツンして見えたのなら麦じゃない?」
私「そうなんだ!あれは麦畑だったんだね!」
その後正しい知識を入れるもスッカリと忘れ、当初覚えてしまった麦の言葉が呼び出されてしまったらしい。
なぜこの間違いに気づいたかというと、昨日の文章を読みながら過去の景色を反芻している時に違和感があった為、間違いの発見に至った。
ちょっと折角なので、その時の脳内の言葉もどうぞ。
「黄金の波がこう、ザザーンと綺麗だったんだよなぁ…。でも、記憶の精度をあげると…なんか麦と違うような。でも、音声の記憶はハッキリと麦と言っているんだよなあ。ちょっと麦の収穫期調べよう」
ここでハッと気がつく
「待ってこれ、昔もやったじゃん!調べてああっ!ってなったやつじゃん!」
一番初めにインプットしたものが間違えていると起こる恥ずかしい弊害。
…麦も稲も美しいから良いか←
お粗末様。