研究所の花壇に植えられた花々が、斜陽の下揺れている。
腕時計を見れば、針は午後5時半過ぎを指していた。
日の入りと終業時刻まで残り30分程だ。
手についた泥を払い、花壇に植えられた花々を見渡す。
赤いチューリップ、アントシアニン類+カロチノイド。
オレンジ色のチューリップ、こちらもアントシアニン類+カロチノイド。
黄色の金魚草、フラボン類。
紫色のパンジー、アントシアニン類。
まだ、若葉を出すばかりなのは
赤紫色のオシロイバナ、ベタシアニン類。
黄色のオシロイバナ、ベタキサンチン類。
緑色のアジサイ、クロロフィル。
白いユリ、フラボノイド。
春から秋にかけて花壇は彩り豊かな一角になる。
本来自分の専攻は、花の色素についてだ。
だというのに、研究の為に花を育てる延長線で肥料やら病気の為の薬やらを作っていたらそっちがメインになってしまった。
人生とは本当わからないものである。
そもそも自分は、大学の研究者になって色素の応用を研究する予定だった。品種改良や自然染色を活かした製品の開発などを夢見ていた。けれど、恩師に嵌められて、気づけば企業の研究員になっていた。
本来思い描いていた未来とは違う道を進んでいるというのに…。
小さな研究所で本来の研究とは違う仕事に向き合うのが苦でなく、寧ろ楽しいとすら思っているのだから、最早つける薬はないようだ。
企業から求められる仕事に応えて、花の色素の研究もこっそり進めて。企業の名前に隠れて自分の名前は出さず、陰ながら環境にも人にも優しいものを提供し、研究を還元し続ける──なんて自分にあった生き方だろうか。
研究所の主は、風に揺れる花々に穏やかな目を向け微笑むと、遠く沈む夕日を静かに眺めた。
君の目を見つめると…。
うーん(゜゜)
物語…。
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今日も今日とて屋上に入り浸る。
隣にいる彼女は、ぼんやりと手すりに肘をつき何かを見ている。
グラウンドで練習する野球部でも見ているのだろうか。或いは、ゴチャゴチャと姦しい街並みに何か気になるものでも見つけたのだろうか。或いは、空の向こうに思いを馳せたりしているのだろうか。
彼女は一体、何を見ているのだろう。
眼鏡の奥に隠された彼女の目を横からジッと見つめる。
長いまつ毛の影が落ちる瞳には、黒曜石のような冷たい光がある。
物事の核心を捉えるその瞳は、世界をどの様に写しているのだろうか。
綺麗なものはより綺麗に映るのだろうか。
醜いものはより醜く見えるのだろうか。
それらを見て彼女は一体何を思うのだろうか。
そんな事を思っていると、彼女がこちらを向いた。
視線が空中でかち合う。
彼女は一瞬キョトンとした後、悠然とした笑みを浮かべた。
「ねぇ、知ってる?犬や猫の目をジッと見つめることは喧嘩を売っていることと同義なのよ」
気の短い──私もまた然り。
そう言った彼女の声や口元は朗らかだが、肝心の目は本気だ。
絶対零度の瞳に動揺する俺が写っている。
ありえないことだが、彼女の目を見ていると、研ぎ澄まされた刃が喉元に突きつけられているような気がする。
蛇に睨まれた蛙とはこの事だろうか。
四面楚歌って気もしてきた。
「ごめんっ」
「冗談よ」
そう言って彼女はカラカラと笑ったが、あの目は本気だった──と思う。
あれが、演技だとしたら…。
多分、女優になれんじゃねぇかな?
本を片手に星空を眺める。
本の知識曰く、
北斗七星の長い柄のカーブを延長した先にある赤い星──うしかい座のアルクトゥルスから更に延長した先にある一等星──おとめ座のスピカ──この2つの星を結んで出来る曲線を「春の大曲線」というらしい。
夏の大三角、秋の四辺形、冬の大三角は知っていたが、春は大曲線なのか。
そんな事を思いながら、本の通りに星をなぞってみる。
この緩やかな曲線を元に春の星座を探すようだが、春の星座は、あまりパッとしない。
おおぐま座。こぐま座。うしかい座。りょうけん座。おとめ座。しし座。かに座。かんむり座。かみのけ座。やまねこ座。こじし座。うみへび座。からす座。コップ座。ろくぶんぎ座。ケンタウルス座。おおかみ座。
おとめ座、しし座、かに座など黄道十二宮で有名どころではあるが、コップ座やら、かみのけ座やらは日常の話題に上がらないと思うのだが…。
本に書かれた神話を読んでみたが、
春の星座にある黄道十二宮のおとめ座を除く残り2つは、へルクルスによって退治されて出来た星座とある。
それ以外の春の星座──ケンタウルス座、うみへび座等にも、へルクルス大暴れの後があるらしい。
英雄大暴れの神話を語る星空の下。
小市民を自覚している自分としては、
神話時代に生まれなくて良かったとその幸運に感謝したくなるのだった。
それでいい…。
(´ε`;)ウーン…
最近ラボ組ばかりになってるからなぁ…。
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空から文字が降ってくる。
「今日の文字は…」
俺は空を見上げ、思考の海に降り注ぐ言葉を眺めた。
長い文章の羅列だ。
しかし、プロの文章ではないようだ。
ところどころ「てにをは」が狂っている。
どう見ても素人の文だ。
おや、空中で文字が消えていく。
どうやら本体が文章を考えているらしい。
「今日も今日とて悪戦苦闘か…」
何気なく言葉を漏らすと、
「てにをは」が直った文章が再び降ってきた。
文章作りは1日にしてならずだ。
不慣れなことは時間がかかる。
それでも──手間暇かけても楽しんでいるならば
「それでいい」
それが長続きの秘訣なのだから。
男は緩やかな笑みを浮かべながら、
空から降り注ぐ文字を静かに眺めた。
1つだけ…。
うーん…(・ัω・ั)
物語が良いかな…。
短く、短く。
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午後3時。
給湯室に置いていたお饅頭が減っている。
昨日まで未開封だったそれは、6個入りのところ4個減っている。2個しか入っていない。
昨日の夕方に一度給湯室に入った時は未開封のままだったので、無くなったのは、夕方から夜にかけてだろう。
昨日遅くまで研究所に残っていたのは一人。
…犯人はあの人に違いない。
「博士!お饅頭食べたでしょう!」
研究所のドアを開けて早々、私は博士に詰め寄った。
「あれは来客用でもあったんですよ!それなのに1人で4つも食べちゃうなんて!今日はお茶菓子抜きですからね!」
私の勢いに博士は目を白黒させると慌てた様子で手を横に振った。
「ちっ、違うよ。誤解だよ」
「何が誤解なんです?」
昨日遅くまで残っていたのは博士しかいないのに、何が誤解だろうか。
内心息巻いていると、博士は眉をハの字にしながら事の真相を話しだした。
「昨日君が帰った後、来客があってね。来客と言っても学生時代の友人たちなんだけど。4人ともバラバラなところに務めているのに駅で偶然出会ったらしくて。飲みに行こうってなったらしいんだ。で、たまたま選んだお店が研究所近くだったから顔を出してくれて。飲み会は断っちゃったけど。代わりに、お茶と一緒にあのお饅頭を出して…。あの、だから、その…。僕は、食べていないよ」
博士は力なく笑うと、
僕はそんな食いしん坊に見えるのだろうか。と小さく呟き、しょんぼりと項垂れた。
その様子を見て今度は私が慌てる番だった。
「ごっ、ごめんなさいっ!とんでもない勘違いをしてしまって…」
件のお饅頭は、駅前商店街の老舗和菓子店が手作りしているものだ。
日持ちはしないが絶品で、来客からの評判もすこぶる良い。
かくいう私も博士もあのお饅頭が大好きだ。
名目は来客用として用意してあるが、消費期限が迫れば私達のお茶菓子になっている。
今日私が給湯室で確認したのだって、賞味期限がそろそろ迫る頃だと思ったからだ。
3時のおやつに博士と食べようなんて浮かれていたからこそ、あの怒りに繋がってしまったわけで…。
でも、こんな勘違いだなんて。穴があったら入りたい。
「3時…。おやつの時間だったんだね」
博士が壁にかけられた時計を見ながらポツリと言葉を発した。
「君と3時の休憩を取るのが楽しみなんだ。…僕にもあの美味しいお饅頭を1つだけくれるかい?」
「私の分も良ければ食べてくださいっ」
私が謝罪の意味を込めて力いっぱい答えると、博士は軽やかな笑い声をあげた。
「ありがとう。けどね、僕は君と美味しいものを共有する時間が好きなんだ。だから、1人1つずつ仲良く食べよう」
博士はそう言うと優しく微笑んだ。