今日のテーマは、特別な存在。
脳内に浮かんできた人物が数名いるが
自分のお気に入りともいう人達ばかりだ。
気に入る=特別の等式なのか、或いは、
何某かの変換があって特別となるのだろうか。
深く考えたことがない。
今回は、存在=人物と仮定して考えてみよう。
自分にとって特別な人の定義は、
自分と似ている
─気が合う
自分とかけ離れている
─学びがある
─尊敬できる
存在の尊さを感じる
─出会えた喜びを感じる
癒やされる
…等などだ。
定義をさらに分類すると
類似性
影響
感性
大きく3つに分かれる。
対象に対して何かを感じているのは事実であるから
思考の癖も勿論影響しているだろうが
根幹の部分は、心の琴線だろう。
そうなると気に入った時点で、特別になる可能性が高くなるということだろうか。
気になるという程度ならまだ特別とは言い難い。
しかし、気に入ったと自分の中に落とし込んだ時点で、対象は他のものと一線を画すことになる。
…なるほど。
どうやら私は、お気に入り=特別という式の人のようだ。
ならば、お気に入りが増えれば増えるほど、特別なものが増えていくということになる。
沢山のものが増えすぎると、新陳代謝のようなものが起きて、お気に入りから外れていくということもあるのだろうが…私にとってお気に入りは、お気に入りのままだ。
…通りで好きなものが多いわけだ。
それに、一度良いと思うとずっと好きであり続ける原因も多分ここにあるのだろう。
…まあ、それによって誰かを困らせたり、迷惑をかけるようなことはないだろう。
それぞれを特別な存在として認識しているからと思えば、悪いことではないのかもしれない。
毎夜毎夜、仕事で疲れていてもテーマと向き合う。
習慣化故か、はたまた一度でも休むと駄目になってしまう自分の性格を認識しているからか。
答えはまだわからない。
最近は、前以上にココの自由さに甘えて好き勝手書いている。
物語の構造や思考のメモを消さないで残すようにしている事等がいい例だ。
メモは、言葉が出てこないという事がしばしばあるので、思考の助走の為に行っている。
それ故、メモのほとんどは脳直な文だ。
そんなメモを残したままにするだなんて、バカみたいだと冷めた目をした自分もいる。
スマートな文章や作品を目指すなら、脳直な文は残すべきではないだろう。
しかし、思考が脱線しやすい私にとって、思考の跡ともいうべきメモを残すことは、文章制作中の誘導灯代わりになっている。作る文の目標或いは目的が無いと迷子になってしまいがちだ。
制作後は思考の客観視にもメモを利用している。
脳直=素直な自分なので、なかなか侮れない。
何を書くも自由。
どの様に使うも自由。
そんなココの自由に甘えて
メモを残したままにする。
スマートな文は作れない代わりに、
その分自分を知ることが出来るかもしれない。
そんなことを期待しながら。
二人ぼっち。
これまた不思議な言葉だ。
ちょいと辞書を引いてみよう。
【二人】人数が二であること。また、その数の人。
【ぼっち】一人ぼっちの略。
【一人ぼっち】仲間や肉親がいなくて
ただ一人であること
一人ぽっち
「ひとりぼうし」の転
子供のような事を言うが、二人は一人ではない。
二人ぼっちの言葉が持つ不思議な感じは、
多分この数字の違和感が原因だろう。
意味から求められないのなら
情緒的なところに落とし込んで考えるしかない。
例えば、
二人いるのに「ぼっち(一人)」と感じているから、
二人ぼっちなのかもしれない。
例えば、
「ぼっち(一人)」が二人いるから、
二人ぼっちなのかもしれない。
どちらにしろ、孤独や寂しさ、人との壁のようなものを感じるのに変わりはない。
これが二人「きり」という言葉になると、
期待や喜び、緊張等を感じるが、孤独等は感じない。
「ぼっち」
たった三文字なのに、随分強い言葉だ。
これが「ぽっち」になると
途端に頼りなくなるのだから言葉とは本当に面白い。
今日のテーマは、【夢が醒める前に】
夢が醒める──正常な精神状態にもどる。
正気づく。
目ざめる。
さーて、困った。
どうしようかな。
眠りから起きる前。
関心事(将来の夢や好きなもの)から心が冷める前。
うーん、文字で並べてもまだ決められない。
理屈で考えても答えは出なそうだ。
感覚に頼ろう。
【夢が醒める】という文字だけだと、フワフワしていたものがパチンと弾けて落ちる感覚がする。
シャボン玉や風船がわれた時のような、少し残念な感覚も伴う。
今回のテーマは、その【前】。
対象に対し舵取り可能、または、不可能な状態を選ぶことが出来る。
例えば
純粋な眠りから覚醒前までを物語にするのなら、
「夢が醒める前に、夢からまた夢へと誘われた」
(二度寝オチ)
「夢が醒める前に、〇〇を見た」
(幻想的または現実オチ)
関心事から心が醒める前を物語にするのなら、
「あれほど夢中になっていたはずなのに、心が置いてけぼりをくっている」
(困惑オチ)
「興味を失いそうな時は、一旦距離を置く」
(対処オチ)
ザックリ書いてもこれだけオチがある。
もっと考えれば、さらなるオチも出てくるのだろう。
四差路や五叉路を前に「どのルートにしますか?」と尋ねられているような気分だ。
なるほど。
優柔不断な自分にとって、このルートの多さは決めかねる。
上記全てのルートを通る方法は…文字数がヤバくなりそうだ。
しかし、試してみたい…
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私には、好きなものを好きなままでいられるよう心がけていることがある。
それは、「興味を失いそうな時は、一旦距離を置く」という方法だ。
どんなに好きなものでも毎日毎日摂取していると、偏りが生じ、食傷気味になる。そうなると、好きだったはずなのに好きでなくなるという悲劇に繋がってしまう。
人間の「飽き」の恐ろしさというやつだ。
それを回避する為に生み出したのが、先の少し飽きを感じた段階で好きなものと敢えて距離を取るという方法だ。
好きなものと敢えて距離を取ることにより、自分の中がフラットに戻るようにする。
フラットに戻ったところで、再び好きなものに向き合う。そうすると、新鮮さや有り難みを再び感じたりすることができるようになる。
存在の尊さは離れてこそ、ということなのだろう。
私の最近の楽しみは、推しを動画サイトで観ることである。
仕事終わりの至福な時間だ。
今日もいつものように布団の中で推しの動画を見ていた。
いつもならば「素敵」とか「カッコいい」とか、心がキャーキャーと黄色い悲鳴をあげるのに、今日は何故か悲鳴は疎か声すらあがらない。
頭ではカッコいいと思っても、心が置いてけぼりをくらっているような、変な感覚だ。
画面に推しがいる。
カッコいいはずだ。
それなのに以前のように魅力的に見えない。
何でだろう。
疑問符が頭の上に何個も浮かぶ。
食傷気味にならないように気を付けていたはずなのに。いつの間になってしまったのだろうか。
困惑している間に、動画は終わってしまった。
画面にいた推しの姿はなく、広告が流れ始めた。
「飽きないように気をつけていたのになぁ…」
誰に言うまでもなくポツリと呟く。
狭く寒い部屋に自分の声が寂しく響いた。
今日は疲れているから、心が動かなかったに違いない。
早く寝よう。
スマホの電源を切り枕元に放ると、部屋の扉が開く音がした。
一人暮らしの為、私以外に人はいないはずだ。
泥棒?
内心焦りながら扉の方へ目を向けると、そこには推しの姿があった。
動画と同じ衣装を着ている。
私はパニックで声にならない悲鳴をあげ、飛び起きた。
目をかっぴらくと、枕カバーが目に入った。
枕のそばではスマホが煌々とした明かりを放っている。チラチラと変わる色の向こうに推しの姿があった。夢で見た時と同じ衣装を着て、笑っている。
カッコいい。
やっぱり自分の推しはカッコいい。
さっきのは変な夢だったようだ。
こんなにカッコいい推しを見て心が動かないなんて、あり得なすぎる。
あっ、カメラ目線キタコレ。カッコいい。
心がキャイキャイと喜んでいる。
そうそう、推しを観ている時はこの感覚だ。
緩む頬のまま画面に釘付けになっていると、動画の推しが目の前にいた。
周囲は動画の中のスタジオに酷似している。
手の届く距離には、推しがいる。
「これは夢だ」と呟く誰かの声に私は、素早く耳を塞いだ。
昨日は【不条理】で、今日は【胸が高鳴る】。
テーマの寒暖差で風邪引きそうだ。
胸が高鳴る…。
感覚的な解釈では、
「胸が高鳴る」は、まだ体験したこと無いものをこれから体験するという時に起きている気がする。
「わからない」または、「知らない」からこそ期待値が高く、未知を知る喜びのようなものもそこには加味されているのかもしれない。
既に体感してしまったものの場合では、自分の好ましい、または快感をなぞる事に喜びを感じる為、期待値という感覚は意外とない。
胸が高鳴る=未知を知ることの喜びであるならば、その中心にあるものは人間の好奇心なのだろう。
人の本質とは、「知りたがり」なのかもしれない。