夕暮れの帰り道。遠く、潮騒が聴こえる。
「……」
道の向こう、その先の海へと沈む太陽。それを、私は一人眺めていた。
「まあ、しょうがないか……」
今日は、「彼女」はいない。もしかしたら、今日だけでなく、しばらくいないかもしれない。そう考えると、少しだけ憂鬱になる。
「はーやく帰ってこないかなー……」
おどけて、節をつけてそう呟く。そして、大きくため息をついた。
「寂しいな……」
海へと沈む太陽を横目に、わたしは走る。うん、久しぶりに街の鵬に出ると、やっぱり迷子になる。
「て言うかわたしいくつになっても迷子なのか…… 」
『迷子』なんて可愛いもんじゃない。それに、『可愛い』なんてわたしには似合わない。きっと、その言葉はあの子の方がしっくりくる。あの、寂しがり屋さんにこそ。
「ああ、もう帰ったかな……」
走りすぎで脇腹が痛い。けど、それをこらえて、勢いよく漁港の三叉路を走り抜ける。そこに、あの子はいた。
「寂しいな……」
「そんなこと、言ってると思った」
「え、あ、お帰り……」
私は思わず目を擦る。本物……だよね? 大分早いけど。
「あんたが寂しがると思って、早めに帰ってきたのよ。三便ぐらい早いバスで」
「あ、ありが…とう?」
その言葉と一緒に、堰を切ったように涙がこぼれる。そんな私に、彼女はなだめるように少ししゃがんで視線をあわせる。
「泣かないの。ったく、ホントにあんた何歳よ……」
涙を拭いながら、私は考える。
「多分、明日で十四歳かな……」
「そうだね、明日誕生日だったわ」
覚えてる。親戚の誕生日なんて、そうそう忘れるものじゃない。ましてや、それがわたしと二つしか歳の離れてない、大事な姪ならば。
まだ言葉にはするつもりはないけど、あなたがいたから、わたしは頑張れるんだ。妹みたいな、あなたがいるから。
雨粒が、緑の葉を揺らす。聴こえてくる蛙の混声合唱に、私は窓の外を見やる。
「はぁ……」
そのご機嫌そうな声と裏腹に、私は小さくため息をつく。この天気じゃあ、多分お客さんは来ないだろうなぁ。それに、何よりも棚の本が湿気るし。
「君たちはいいよねぇ、雨の日に楽しそうで」
私は思わずそう一人ごちる。まあ、雨の日なんて楽しいわけでもないんだけど。
そう呟く私の視線の先には、紫陽花が雨に濡れて鮮やかに色付いていた。
朝なんて来なければ。ずっと、そう思っていた。こんな思い通りにならない世界なんて、もうどうでもいい。
「はっ、はっ」
私は走っていた。何故かは分からないし、そもそもここがどこかも分からない。ただ、止まってしまうことだけが怖かった。
「…っ!」
不意に、何かが右腕を撫でる。その瞬間、腕の感覚はなくなって、ただ、冷たさだけが残る。
逃げなければ。
何から?
分からない。
ただ、この場所から。
「…誰、か…!」
喉の奥から絞り出した言葉は、誰にも届くこともなく、ただどこかへと流れていく。それが、最後の瞬間だった。
「……ん……」
何だろう、体がすごく重い。それに、周りがなんだか騒がしい。ぼんやりとした視界には、見慣れない、白衣を着た女性。
「……ああ、そっか」
そうだ。確か、何かがぶつかったんだ。それも、すごい勢いの何かが。と、言うことは。
多分、もう少しで、私は死んでいた。
……何てわがままなんだろう。朝なんて来なければ、ってずっと思っていたのに。こんなに、目覚めたことが嬉しいなんて、思うことなんてなかったのに。
窓の外を見やる。カーテン越しの朝日の温もりを、嬉しいと思ったのは、きっとこれが、初めての朝だった。
「最っ悪…」
天を仰いで、私はそう呟く。そして右手には、ぷすぷすと煙を上げるフライパン。
うん、ちょっと整理しよう。確かに私はゴーヤチャンプルーを作ろうと思ったんだ。それで、昨日の買い物の時にちゃんとにがうりと豆腐、卵は買ってきた。それに、だしの素と醤油も家にあった。
そして、今日の晩ご飯。にがうりのへたとお尻のところを落として、半分に切って。それから、中のわたを大きめのスプーンでがりごり削ったんだ。それを、三ミリぐらいに半月切りにして、ボウルに放り込んで塩でもんだ。それから、フライパンを温めながら卵を溶いて、そこからだ。
豆腐が、なかったんだ。冷蔵庫の中を探してもない、買ってきた時の買い物袋にも入ってない。大慌てで探してたら、いつの間にかフライパンが焦げてたんだ。
「この焦げつき、落ちるかな……」
意外に、高かったのにな。肩を落として、キッチンペーパーである程度焦げを落とす。冷めててよかった。そのごみを、捨てようとしたとき。
「……ほんっとに、最悪だわ……」
ごみ箱の中にあったのは、開封済みの豆腐のパック。それを見て、昨夜の記憶がうっすらと蘇る。
昨夜、ちょっとお酒飲んだんだ。そしたら、何となく何かを口にいれたくなって、冷蔵庫に岩塩があったからそのまま豆腐を……。
うん、自業自得だ。でもな……晩ご飯、どうしよう。
一人暮らし、アパートの狭い部屋。それが、私を守る世界だった。
「……」
カーテンの隙間、窓の向こうから、鈍い光が射す。時計を見れば、時刻は七時四分。この寒さだし、きっと外は雪なんだろう。
学校に行かなくなってから、どれくらい経ったんだろう。まあ、カレンダーを見れば分かるんだけども。最初の方は、同級生も気にして時たま様子を見に来ていたけども、それもいつの間にか来なくなった。
ただ一人を除いては。
「っ!」
不意に、携帯電話が鳴る。ああ、メッセージか。
『起きてる? ご飯食べた? ちゃんと食べないと、倒れても誰も分かんないから気をつけてね?』
それは、どこかお母さん染みた文面の、『彼女』からのメッセージ。小さな頃からずっと側にいた、幼なじみからの。
「……ふふっ」
思わず、小さな笑みがもれる。そして、私は携帯電話の、メッセージ履歴を眺める。
毎日、どこまで行ってもそこには彼女の名前が並ぶ。それは、私を気遣う言葉で溢れている。
「……頑張って、みるかな……」
この部屋から出てみようか。彼女の顔を見るために。彼女に、「ありがとう」と言うために。