どこまでも続く青い空
ある秋の昼下がり、私はおよそ十年間暮らした家を出た。鍵は閉めない。いや、鍵はもともと持っていないのだった。私は何も持っていない。
足の裏が地面に触れると、その感触の生々しさに一瞬怯んだが、私は慎重にゆっくりと歩み出した。大地が身体を支えてくれることの安心感。頬を緩めて、歩調を徐々に早めていく。いつしか私は駆け出していた。
前方から乾いた風が吹いている。見上げると雲のない澄み切った青空がある。背後から私を引き戻して閉じ込めようとする人は、もういない。
私は今、海の見える町に住んでいる。
上手くいかなくたっていい
夜の街に雨が降っている。電話ボックスの窓を水滴が絶え間なく伝っている。僕は震える手で受話器を握りしめている。
「もしもし……俺だけど」
こんな時間にどうしたのよ、と君が言う。話すのは久々だから、こんな状況でもつい頬が緩んでしまう。
「やっと見つけたんだよ。あいつ……」
だから何? どうするつもりなの? と君が言う。きっと心配そうに怒った顔をしている。
「上手くいかなくたっていい。それをやることに意味があるんだ。君のためじゃない。これは俺が、」
お願い待って、と君が言う前に僕は受話器から手を離して外に出た。ポケットにしまったナイフの感触を指でなぞって。今から、僕は、君を弔うために。
——外されたままの受話器からは、雨の音が聞こえる。
蝶よ花よ
ワルシャワでそのコンサートに行くことになったのは全くの偶然だった。
友人に急な用事が入ってしまい、自分の代わりに行ってくれとチケットを渡されたのだ。「君も小さい頃ピアノを習ってたって言ってたでしょ?」「ほんの少しだけよ」
赤いドレスを着た少女が整然とした拍手とともに壇上に現れた。ピアノの前に腰掛け、白い指先を鍵盤に添える。ふっと柔らかに微笑むと同時に、弾き始めたのはショパンのワルツ。
難度の高い曲でありながら技巧を感じさせない軽やかな演奏を聴きながら、楽しげな異国の少女に私は一瞬だけかつての自分の姿を重ねてしまい、苦笑いして首を横に振るのだった。
最初から決まってた
こうなることは最初から決まっていたんだ。
離婚届に名前を書き終えた夫がぽつりと呟いた。
あなた、結婚届を出すときにも同じことを言っていたじゃないと返したその瞬間。私は以前にも全く同じ出来事があったことを思い出した。
それは今の私が生まれる前の私の人生での出来事。そしてさらに前の私の人生の出来事でもあり、輪廻はみんなが思うようなシャッフル再生ではなくて、ひたすら無限に続くループ再生なのだということを私は思い出したのだった。
例えば、夏祭りですくった金魚を死なせてしまったこと。父が叔父さんの連帯保証人になってしまったこと。母があの男と再婚してしまったこと。私があなたと結婚してしまったこと。あのとき私たちがあの子から目を離してしまったこと。
そうしたことの全てが既に何度も繰り返されてきていて、これからも繰り返される。そしてそのことに気がつくのはいつも手遅れになってからだった。私はゆっくりと、自分の胸に深々と刺さったナイフを見下ろし、最後のため息をつく。
太陽
生命の存続に必要なものはまず水である。次に空気。そして太陽。
もちろんそれだけでは足りないが、挙げ出したらきりがないので割愛する。
さて、我々は実に256回の試行を経て、ついに新しい人工太陽系の生成に成功した。青い惑星にバクテリアが誕生し、やがて二足歩行の人類がよちよち歩きを始めたのを見届けた瞬間、我々は歓声を上げて飛び跳ね回った。互いに抱擁を交わし、鐘を鳴らして大喜びして、花火を打ち上げるなど、このときばかりは毎度お祝いムード一色に染まる。
しばらくして興奮の熱が冷めると、みんな真顔に戻って席に着いた。第一関門を突破したとはいえ、肝心の問題はここからなのだ。我々は持ち寄ったお菓子を分け合いながら、ことの成り行きをじっと見守る。
どうか今度こそ上手くいきますように。