ルクリアの束

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6/29/2025, 3:48:47 PM

青く深く

 生まれ変わるならどんな生き物がいい?

 ふらりと旅に訪れた九十九里の食堂で、ふとそんな話になった。
「私はチューブワームがいい」
 海鮮丼の上に狂気じみた量のワサビを盛り付けながら妹が言った。
「何それ?」
「海底火山の噴き出し口に住んでるミミズ型の生き物」
 ……曰く、その生き物の体内にはバクテリアが棲んでいて、そのバクテリアが熱水中に含まれる毒ガスから栄養源を生成してくれるのだという。
「だから、チューブワームになったら口も胃もないの。食べなくても生きていけるの」
「それは生き物なの?」
「生き物だよ」
 そう言って、妹は平然と海鮮丼を口に運ぶ。私には彼女のことがよく理解できない。こんなに美味いものが食えるなら、生まれ変わっても人間のほうがいいじゃないか。そんな私の感想を見透かしたのか、妹は少しこちらを睨んだ。
「何か文句があるなら、お姉ちゃんは一度でも働いてみてから言ってよね」

 私は窓の外から見える海に遠い目を向けた。そういえば、全ての生命の起源は海だった。人間とて、あの青く深い海の底から這い出して進化した種の一つに過ぎないではないか。

6/8/2025, 3:00:34 PM

君と歩いた道

 ノブは組のなかでも有名な武闘派ヤクザだ。
 彼は僕の幼馴染で、唯一無二の親友である。ガキのころは泣き虫でいじめられがちだった僕のことをいつも庇ってくれた。それはまあ、僕が組の跡取り息子だったからかもしれないけれど。

 中学を卒業してすぐ、ノブは正式に極道の世界に入った。一方の僕は、暴力は苦手でも勉強だけはできたものだから、東京の大学に進学して法学部を出たあと、組の帳簿や契約関係を取り仕切っていた。
 けれども、この道ではそれだけでは通用しないこともある。今日、僕は偶然裏切り者を見つけてしまって、成り行きで粛清を任されることになった。だが、チャカを構えた手が震えて仕方がなくて、何度も握り直すことしかできなかった。
「相変わらず情けねえなぁ。貸せよ坊ちゃん」
 その有り様を横で見ていたノブが、僕の手からするりとチャカを奪い取る。そして、一切の躊躇なく引き金をひいた。弾丸は椅子に縛り付けられた裏切り者の脳天を貫いた。
「……ありがとう、いつもごめん」
「いいんだよ。お前は頭使う仕事だけしとけ」
 こんなふうに、僕はノブに助けてもらいながら非道の道を歩いてきた。



「びっくりした……若頭ってあんな人だったんすね」
「なにお前、初めて見たの?」
「いや、だって、普段は堅気みてぇにおっとりしてんのに、殺しのときはまるで別人」
「ああ。忍さんは、一人でインテリヤクザと武闘派の二役をこなせる若頭なんだよ」

4/9/2025, 12:57:37 PM

元気かな

 俺の実家は江戸時代から続く老舗の温泉旅館なのだが、新館と旧館をつなぐ渡り廊下の途中に「呪いの市松人形」が飾ってある。
 もともとは何の曰くもない代物だったのだが、小さいころの俺がその人形を不気味がって、窓から投げ捨ててしまったことが発端だった。
 その人形は、何度捨てても何度捨てても戻ってきた。朝、穴を掘って埋めたとする。すると、夕方には元あった場所に土まみれで髪がボサボサの人形が置かれているというわけだ。
 俺も家族もたいそう怯えたものだが、最終的にはすべて「あいつ」のいたずらだったということが判明し一件落着した。

 さて、こうして実家に帰るのは十年ぶりで、「呪いの人形」は昔と同じ場所に健在だった。
 ふと、懐かしく思う。「あいつ」は今もここにいるだろうか……いや、いたとしても、もう俺には……。

 ——元気かな?

 人形から声が聞こえた。俺は驚きのあまり素っ頓狂な声をあげて、人形がのっていた棚ごと横に蹴り倒した。すると、倒れた棚の扉が開き、中からおかっぱ頭の「あいつ」が昔と同じ姿でニヤニヤしながら現れた。
 うるせぇ俺は元気だ、と答えると、当館名物「幸運の座敷童子」は、ケタケタと笑いながら駆けていき、廊下の突き当たりですぅっと姿を消した。

4/7/2025, 6:24:54 PM

フラワー

 目を覚ますと、花畑の中だった。
 絵本のように青い空。淡い色の花々が地平の彼方まで咲き広がっている。

「先輩?」

 振り返ると後輩が立っていた。吹奏楽部の後輩だ。トロンボーン。

「あーやっぱり! よかったー、知ってる人いて。てか、うちら死にましたよね?」

 彼女は固まっているわたしの隣に腰を下ろした。
「あれ、覚えてないですか? 卒業式の最中に体育館の天井が崩壊して、演奏中のうちらのところに直撃したんですよ」
「そ、そんなことある?」
「あったんです」
 彼女は手元の花を雑草みたいに引っこ抜きながら喋り続けた。
「ここって、天国なんですかね? お花畑だし。でも、天国にお花畑って、いつ誰が言い出したんですかね? 何教?」
「いや、知らないけど」
 わたしも手持ち無沙汰だったので、とりとめのない話に適当な相槌を打ちながら、花冠を作った。後輩の頭にのせてみる。かわいい。
「似合います?」
「ミッドサマーみたい」

 *

 ここは病室。
 規則正しい心電図の音。
 カーテンの隙間から差し込む柔らかな光。
 目を覚さない少女の傍には夜を明かした母親の姿。
 窓の外には桜。風に散り葉桜。

4/6/2025, 4:08:38 PM

新しい地図

「今日からこれが、新しい地図だ」

 そう言って、彼らは粗悪な印刷の紙を配った。
 配達員たちはそれに目を落とし、もはやこの世界から我々の故郷が完全に抹消されたことを知った。
 私の実家があった県は、かつては翼を開いた鳥の形に例えられていたのだが、今は単なる味気ない長方形にされていた。よく分からないが、おそらく名前も全く違ったものに変えられているのだろう。

 ある衝動が込み上がるのを感じたが、私は息と一緒にそれを飲み込み、その地図をポケットにねじ込んだ。
 そういえば、生まれてから今まで、紙の地図なんて使ったことがないな。地図アプリで事足りていたから。だが、この新しい世界では、電子機器はおろか、文字の使用も禁じられている。
 地図に書かれているのは、定規で引いたような境界線と、彼らにすら解読できるか疑わしい謎の象形記号と、赤いバツ印だけだった。その印のつけられた地点が今回の我々に割り当てられた配達先だ。
 配達先には何も持って行かなくていいので、我々はとても身軽だ。というのも、配達物は“我々自身”だからだ。正確には、我々の身体。腎臓、肝臓、心臓。皮膚から血液に至るまで。

 それにしても、地図などあったところで、ただ先頭の指揮官について歩くだけなのに、彼らはなぜこんなものを配ったのか?
 まあ、答えはなんとなく想像がつく。たしか、新しい政権では死刑制度が廃止されたのだとか……。

「では出発、進行!」

 号令がかかった。
 我々は自らの重たい足を、自らの意思で持ち上げて、最初で最後の配達先に向かう。

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