「風が運ぶもの」
3月にもなったというのに、吹き付ける風はまだまだ冷たい。未来の後輩たちの合格発表や先輩方の卒業式など、桜が似合うようなイベントは既に終えてしまったというのに、季節は交代を拒むかのように素知らぬ顔である。外へ出かけるにはコートが必須だし、通り過ぎる人はマフラーや手袋に身を包んでいる。冬が特段嫌いなわけではないが、そろそろ春に表舞台の出番を譲っても良いのではないか。
3月に対する理想と現実のギャップに思いを馳せつつ、通り過ぎる冷たい風に身を縮める。冬将軍、なんて季節外れの言葉がぴったりなほど、今日は風が強い。さすがはかの有名な皇帝を打ち破ったほどの将軍、一筋縄では退いてはくれない。そんな彼に太刀打ちできるほど私は強くないので、今日も大人しく通り過ぎるのを待つのみである。
未だ硬く閉ざしたままの桜の蕾は、入学式には間に合うだろうか。今よりも幾分柔らかくなった風が、桜の花びらを巻き上げながら春を告げるところを想像して、ふと口が緩む。無情にも冬の停滞を主張し続けるこの風が、いつか春の来訪を知らせてくれるのを今日も待っている。
北風が春風に変わるまで、あと何日かかるだろうか。
「春はまだ遠そうだなぁ」
「誰かしら?」
プリンセスも楽ではない。じきにこの国を一身に担う王女となる者として、社交術にマナー、政治のあり方や護身術など、学ばなければならないものが多すぎる。これを全てお父様のお仕事のお手伝いの片手間に行うのだから、体がいくつあっても足りない。
束の間の休憩として自室へと戻ってきたのはいいが、この間にもしばしば来客があるのだ。ついさっき大臣が出ていったかと思えば、数分後にはまた扉がノックされる音が聞こえる。そんなに何度も小突かれて、扉が可哀想だと思わないのか全く。
ため息をひとつついた後返事をして、入ってきたお父様の側近は数言話してまた出ていった。扉が完全に閉められたのを確認して、またため息をこぼす。
プリンセスたるもの、常にお淑やかで、笑顔で、前を向いていなければならない。必死で身につけた社交術で、愛想笑いはマスターした。お城のみんなにはバレていないはずだ。
また扉が小突かれる音がする。お得意の笑顔を貼り付けて、声をワントーン上げて、背筋を伸ばして。しっかりしないと。私は、プリンセスなのだから。
「はい、おりますよ。誰かしら?」
「子供のように」
小さい頃は、早く大人になりたかった。小学生の時、自己紹介カードの『今いちばんほしいもの』の欄に『年齢』となんとも可愛くない答えを書いたのをよく覚えている。とにかく自由が欲しかった。自分の力だけでは何もできないのがもどかしかった。一人でできないのが悔しかった。だからなんでもできる大人になりたかった。今思うとなんと浅はかで愚かで、まっすぐな願いだろうか。絵に描いたような子供像で、未来を夢見る子供らしい子供だったのだ、私も。あの頃の私は、今の、大人にも子供にもなりきれない私を見たらどう思うだろうか。確かにあの頃より自由は手に入ったかもしれない。やりたいことを自分の力でできるようになった。だけど同時に、不自由も手に入れた。勉強、部活、進路、友人関係。やりたいことをやれない理由を、今の私はたくさん見つけてしまった。周りの友人たちは口を揃えて「小学校の頃に戻りたい」という。子供は大人に憧れて、大人は子供になりたがる。よく聞く話だが、どうしようもない。今を精一杯生きるしかないのだ。と、そんななんの足しにもならない結論を、滑り台の頂上で考える。大人でも子供でもない現在の私は今、公園で遊んでいる。子供のように。もちろん滑り台も正規ルートではなく滑る方から登った。ブランコも思いっきり立ち漕ぎしたし、あのよく分からないびよんびよんする乗り物も堪能した。違うのは今が一人で、学校帰りで、すっかり暗くなった夜の10時半だということか。あの頃の門限は確か17時、これ以上ないほど破っている。これが成長して手に入れた自由か。だとしても、私は。
「大人になんか、なりたくない」
「放課後」
学校に足を踏み入れてから8時間ほど待ち望んだ、チャイムという名の祝福の音が響く。鞄を背負い、机を後ろに下げる。放課後の時間の使い方は人それぞれ。部活に勤しむ人、勉強に精を出す人、友達と寄り道をする人。私は今日は部活がオフの日なので、このまま帰宅ルートに入る。「部活がオフ」。なんと素晴らしい響きだ。小走りで下駄箱に向かい、ローファーに履き替える。掃除担当に当たっている生徒たちに心の中で慰めの言葉をかけながら、晴れやかな気持ちで校門を抜ける。気分はまるで窮屈な鳥籠から放たれた自由な鳥だ。部活帰りの暗い道を友達と歩くのも楽しいが、まだ太陽の見える道路を意気揚々と進むのはとても気分がいい。この後どうしようか。ショッピングセンターにでも寄り道しようかと思ったが、重荷という名前が相応しいような鞄が通路を塞ぐ光景がありありと見えて断念する。大人しく直帰するか。駅の電光掲示板によると、次の電車は3分後。スマホをいじっていたらあっという間だ。同じ制服を着た人たちに続くように電車に乗り込む。行きの電車では地獄に続く渡し船のようなのに、なぜ帰りの電車はこんなにも喜びを与えるのだろう。みるみる小さくなる学校に胸がスッとする。さぁ、帰ったら何をしようか。
「私は自由の身だ!!」
「涙の理由」
理由なんてなんでも良かった。君が私の隣で泣いてくれるなら。部活終わりの夕暮れ、駅前の公園。電車の来る気配のない駅に人通りはほとんどない。カラスの声と、君の洟をすする音だけが聞こえる。友人として過ごした2年弱の期間、泣いている姿はほとんど見たことがない。そんな君が泣いている理由に、ほとんど興味はないなんて、君が知ったら怒るだろうか。だって理由なんていらない。君が涙を流す場所として、私の隣を選んでくれたのだから。地球は誰も一人で泣かないように丸くなったというが、それは隣にいることとは違うだろう。私が今隣人にできることはこうして同じベンチに座り、ただ黙っていることだ。こんな時理由を聞くべきではないということは、自分の経験上知っている。そう、私がすべきことは。落ち着いてきたようだ、深く呼吸をした隣の君の方を向いて、ニヤッと笑って一言。
「今コンビニの唐揚げ、一個増量中らしいよ。」