洗面台の鏡に映る自分が笑っている。
私はこんなに悲しいのに、なぜあなたは笑っているの?
その釣り上がった口角が、細長く伸びた目尻が憎くて。私は近くにあった焼き物のコップを全力で、鏡の中の私に投げつけた。
うるさい音がして、コップと鏡の破片が飛び散る。洗面台の上に散らばる。
複数枚の鏡のカケラのそれぞれに私がいる。頬に赤い線が入った顔でこっちを見下して、やっぱり嫌な笑顔を浮かべて。
「何がしたいの…!!!」
私がそう叫ぶと同時に、鏡の中の無数の私は口を動かす。
(((なにかしたいの)))
もう耐えられなくて、私は私たちに背を向け、洗面台の前から逃げた。
ベッドに潜り込んで、息を整える。
それから私は、自分の頬に触れてみた。
……ニュッと持ち上がっている。あの鏡の中にいた、たくさんの私のように。ああ、悲しむべき時なのに、私は笑っているのだ。これは、私の意思なのだ。
自分の立てる笑い声を聞いた。
それは、今までの私が崩れ落ちていく音だった。
(お題 : あなたは誰)
遺書として送り出したあの手紙。
妹の元へ届くはずだったのに、配達トラブルで届かず仕舞いになった。
この手紙の在処に気づいて欲しいあまり、幽霊になってしまった私は、今日もここで泣き続ける。
見つけて、私の想いを見つけて。
「おまえはもう成仏するんだ」
ふと声がして顔を上げると、そこには見た事のある人物がいた。
「あなたは、死神……」
黒い布を纏った人物は、それを否定しない。
死神は続けた。
「今年この世から去ると決められている魂の数と合わない。妹を予定より早くあの世行きにした上におまえが地縛霊になる、なんてことになりたくなければ、さっさと成仏しなければならない」
「なんで妹が出てくるのよ!!」
「この世にひきとどまる諦めの悪い人間への罰として、関わりの深かった人間を連れていく約束になっているからだ」
感情のない声が、淡々とそう告げた。
彼女は最初は取り乱したものの、無事この世を去る選択をしてくれた。
「お疲れ〜!先輩の死神が刈り残した魂を送る役割なんて、いかにも下っ端って感じで嫌だよね」
同期の死神見習いが、ヘラヘラと声をかけて来た。
「別に」
そいつに背を向ける。
「ていうかあんた、本当はもう、こんな下っ端の仕事なんてしなくていいくらい魂送ってるんだろ? 早く昇進したらいいのに」
「それはこっちの自由だ」
「ふぅん、変なやつ」
人間の魂にとっては、死神などどれも同じに見えるから、会った瞬間に「あの時の死神め」と恨み言葉を言われることも少なくない。だからこの仕事を嫌がって、とっとと昇進していく者は多いと聞く。
だが、自分は気にならない。それどころか、幽霊になって彷徨って、人として味わえる喜怒哀楽をほぼ忘れ、固執する事柄だけを頼りにかろうじて魂を保っている哀れなその姿を見るのは、とても面白い。
……なんて本音を言おうものならば、あっという間に昇進させられて、現場から外されてしまう。そんな勿体無いことはしたくない。
「あんた、本当はめっちゃスゴイやつなのに勿体無いね」
自分はそれを無視し、絡んできた死神見習いの前から立ち去った。
地位と満足が比例していると思いこんでいる、救いようのない新人にかけるべき言葉を探すのは面倒だった。
と、ふいに視界へ、一枚の手紙が入った。
(ああ、遺書か)
さっきの魂が言っていたものに違いない。魂が最後の願いとして、自分にこれを送りつけてきたのだろう。
それをパッと燃やすと、
『どうして燃やすのよ?!』
と、さっきの魂が叫ぶ声が聞こえた気がして、思わず口の端がニッと上がる。
そう、こういうことがあるのも、この仕事の面白いところだ。
人間の願望通りになんでもうまくいく。そういう甘い空想を打ち砕くのは実に愉快であった。
(お題 : 手紙の行方)
今日もポストに絵葉書が。
短い言葉、小さな絵。
その一つ一つが輝いている。
送り手があなたからだから?
宛て先がわたしだから?
空白のハガキにペンを踊らせて
郵便局へ跳ねて行く。
これを送ったら、もう一度読もう。
あなたから来た大切なメッセージ。
(お題 : 輝き)
言葉散らかる私のお部屋。
外を走る君を窓の外に見つけて、何かを渡さなきゃと大慌て。
手当たり次第にかき集めて、袋に詰めて、窓を開けて呼び止めた。
びっくりする君に袋を放り投げると、恥ずかしくなってきて窓とカーテンを閉めた。
君が窓をノックする音が聞こえる。
その瞬間、わたしの胸にはぶわっと後悔が押し寄せた。
もっと丁寧に選んで、袋に詰めればよかった。わたしはなにを渡したかったんだろう。
ぐるぐる考えて、でも何を渡したのかはもうわからなくて、ようやくカーテンを開けた頃には……君の姿はもうなかった。
わたしは一体どうすれば。ドアから外へ、追いかけていっていいんだろうか。でもその先でどうしたらいいんだろう。
こうしている間にも、君はどんどん見えない遠くへ行ってしまうのか。それとも私の乱雑な詰め合わせで、怪我をしてしまっているのだろうか。
私に愛想を尽かしてしまって、もう二度と会えなくなるのだろうか。
──怖い。
君がどうしているのか知りたいのに、君の姿を見るのが怖い。
いっそのこと、時よ、止まれ。
(お題 : 時よ止まれ)
「ねぇ、ここ行きたい!」
ソファーの左隣で僕に体を寄せ、スマホ画面を見せてきた君。君の髪の毛はくすぐったかったけれど、僕は我慢しながら答えた。
「いいね、そこにしよう」
ここから車で1時間半の場所にある水族館。それが僕たちの決めた目的地だった。
同棲生活8ヶ月目。僕たちはジャージとパーカーで過ごすことが増えていた。今更おしゃれなんかしなくてもいいのに、君は服選びに1時間もかかったよね。
鏡の前でハンガー付きの服を体に当てながら、
「これどう?似合ってる?」
「いいと思うよ」
「うーん、でもなぁ…」
僕に聞いておきながら、君ってば、色がどうとか形がどうとかぶつぶつ言って、一向に決められなかった。
「あれ?さっき決めたんじゃなかった?」
「着て見たらやっぱり違ったの」
あの時、本当は内心ちょっと鬱陶しいくらいだったけど……いや、本当にちょっとだけだから、怒らないで。
それからメイクやら髪の毛のセットやらを終えた君と一緒に、僕は玄関を出た。
「今日香水つけたの?」
「あったり〜!さっすが気づくの早いね、ほめてつかわす」
そんな会話を交わしながら。
……ソファーに座り、膝を抱え、頬を涙が伝うのを僕は感じた。
水族館、連れて行けなくてごめん、葵。
もう、彼女はこの世にいない。
あの日、葵を乗せて運転していた僕の車は、事故にあった。信号待ちしている間に、別の車に突っ込まれたのだった。
事故の瞬間のことは、あまり思いだしたくない。後悔と、恨みと、苦しみが、僕を一気に襲うから。
その代わりにこうしてぼんやりと部屋の中を見渡すようにしている。そうすれば、君の姿が、声がそこに現れる。
ごめん、葵。
だけどそんな僕の声に応えてくれる君はいない。
…僕は慌てて涙を拭い、再び、かわいい彼女との記憶を部屋の中から探し出すことに集中し直すのだった。
(お題 : 君の声がする)