Sunrise
明け方ふと目覚めたら、雨が降っていた。
夜明けの雨はミルク色…
で始まる、荒井由実さんの古い曲「雨の街を」を思い出した。
高校時代にユーミンばかり聴いていた時期があったが、その頃あまり刺さらなかった曲ほどこの歳になると好きになる。
「雨の街を」もその一つで、十代の少女の繊細さ、瑞々しさ、無邪気さ、危うさが美しい旋律と歌詞で見事に描かれていると思う。
♪誰かやさしくわたしの肩を抱いてくれたら
どこまでも遠いところへ歩いてゆけそう…
何度も繰り返されるフレーズは、夢のような朝焼けの街で、ふわりと連れ去られてしまう少女を想像させる。
とても幻想的なイメージだけれど、現実では言葉巧みに騙された少女たちの、悲惨なニュースをよく目にする。
空に溶ける
角を曲がったとたん、美味しい匂いが鼻をくすぐる。
「今日は…牛丼だと思う」
同僚の一人が言って、他の皆もそれだ!と頷く。
「それか、肉じゃがかな」
と別の同僚が言うと、そっちかも!と皆が同意する。
醤油と味醂と砂糖の甘辛い香り、どちらにしても絶対美味しいやつだ。
うちの職場の社員駐車場は車通りを一筋入った所にあって、周りを古い住宅に囲まれている。
仕事終わりのこの時間、どの家からか必ず美味しそうな匂いが漂ってきて、それが何のおかずか予想するのが私たちの日課だ。
あれこれおかずを想像しながら、私たちは従業員から主婦の顔に変わってゆく。
今日やらかしたミスのこと、嫌なお客さんがいたこと、気になる明日の申し送り、何もかも肉じゃがの匂いと一緒に、夕暮れの空に溶かしてしまう。
ここからは家庭のステージ。
お疲れさまーと車に乗り込むと、頭の中はもう帰宅後の段取りで一杯だ。
さあ、冷蔵庫に肉じゃがの材料はあったかな?
手放す勇気
十四夜の海岸へ出ると、波打ち際に“宝物”が落ちていた。
壊れた懐中時計、インクの出ない万年筆、曇った硝子瓶、赤い繻子の舞踏靴。
これらを“宝物”と呼んでいた持ち主を、私は知っている。
引き潮の岩場で偶然出会った、人魚の女の子だ。
そういえば、満月の夜に結婚式を控えていると言っていた。
お相手は銀の鱗を持つ、スマートな魚人なのだとか。
「古い童話のあの子みたいな、バカな真似はしないわ」
憧れは憧れ、現実を見なくちゃ…と、今どきの人魚らしくきっぱり言っていた。
結婚式の前に断捨離をしたらしい彼女が、手放した“宝物”を私は一つ一つ拾い上げる。
叶わぬ夢を思い切れない、自分への戒めに。
光輝け、暗闇で
特に輝きたいと思ったこと、ないんですよ。
そんな光ってしまったら、人目を引くじゃありませんか。
そしたらね、注目されるかわりにあれこれ言われるでしょう。
この時期輝いてるアルクトゥールスなんて、牛飼いだの大三角だのってイメージがついて、スピカと事実婚だとか噂されて。
ああいうの苦手なんです。
そもそも光るような資質もないですしね。
ぼんやりひっそりマイペース。
見られなければ気楽だし、気づいてくれる人がいれば有難い。
星の数ほど星はある。そんなのがいても良いでしょう?
そう言って、六等星の男は軽く会釈して去って行った。
酸素
その人には名前も性別もありません。
とっくの昔に生態系の壊れた古い古い星の、緑の種族の最後の一人なのです。
とても美しい種族だったので、地球で手厚く保護されて、完全管理の特別なドームで暮らしていても、なぜかいつも息苦しそうでした。
私は何人目かのお世話係で、言葉の通じないその人のために、ある日自己流のピアノを弾いてみたら、ことのほか喜ばれてしまいました。
以来お世話はそっちのけで、毎日ピアノを弾くことになったのです。
私がピアノを奏でると、横たわったその人の長い髪がするすると伸び始めます。
ベッドから溢れて床いっぱい、薄緑の髪が広がって、まるで野原にいるよう。
するとその人は深く深く息を吸い、気持ち良さそうに目を閉じて、小鳥のような言葉を呟きます。
緑の種族の寿命は分かりません。
私が通うようになって半年後、その人は枯れるように亡くなりました。
私のピアノは何だったのでしょう。
生き物のいなくなった、古い星の風の音?
それともいっそ、酸素のようなものだったのでしょうか?