糸
蓮の茎から取り出した糸の束を、花や草や木の枝に掛けてゆくお姫さま。
すると不思議なことに、糸はみるみるその色に染まってゆくのです。
お姫さまはその五色の糸で曼荼羅を織り、それは「蓮の曼荼羅」と呼ばれて、今も奈良のお寺にあります。
……という「ちゅうじょう姫」の絵本が好きだったのだが、偶然訪れた當麻寺こそその“奈良のお寺”だった。
中将姫を架空の人物だと勝手に思い込んでいたので、現実の蓮の曼荼羅(複製)や姫の像を目にして
「わぁ、本物!?」
と感動してしまった。
でも賢くて信心深い中将姫自身より、子供の頃惹かれたのは蓮の糸が草木で五色に染まるシーン。
芙蓉の花の色、タチアオイの花の色、萩の花と葉っぱの色、松の枝色…。
美しい伝説に再会した後は、名物の「中将餅」を食べて帰った。
届かないのに
お皿に盛ったポテチを、これ見よがしに口に入れた。
妹がチラッとこちらを見て、ふて腐れたようにスマホへ目を戻す。
さっきケンカをしたばかり。明らかにあっちの言い掛かりだし、これは私の買ったポテチだから、一枚だって妹にあげるつもりはない。
すると目の前で、一掴み分のポテチがパッと消えた。
「あっ」と声を上げると、ソファーの陰で妹がにやにやしている。
さらにもう一掴み分。
頭にきた私は、妹のスマホに意識を集中し、ポーンと天井近くまで持ち上げた。
妹が焦って手を伸ばしても、ちょうど手の届かない絶妙な高さで宙を漂わせる。
「ちょっと、やめてよ!」
「そっちが先に始めたんじゃん!」
幼い頃から二人で競うように習得したサイコキネシス。
こんなことにしか、お互い使い道はないのだ。
マグカップ
キッチンに置かれた、不思議な古いマグカップ。
朝起きたら、金色のコンソメスープが湯気を立てている。
テレワーク中にふと見ると、熱いコーヒーが注がれている。
昼時にはチーズの溶けたミネストローネが、夜更けには蜂蜜入りのホットワインが独りでに現れる。
ある日僕はそっと語りかけた。
「長い間心配かけてごめん。もういいんだよ、もう大丈夫。ちゃんと一人で生きて行くから、今まで本当にありがとう」
心からそう告げると、亡き妻のお気に入りだったマグカップは、ほっとしたように静かに割れた。
君だけのメロディ
海辺の岩礁近くに、夭折した作曲家のアトリエがある。
昔私の弟子だった男で、その縁で遺作の整理を任された。
彼の才能を宝石のように慈しんでいたため、悲しみで私の作業は滞りがちだった。
絶筆になったのは、タイトルのない未完の歌曲である。
譜を読んでみて驚いた。
恐ろしいほどの難曲で、およそ人間が歌える代物ではなかったのだ。
彼は一体、どういうつもりでこれを書いたのだろう。
空が曇り風が吹いて、次第に海が荒れ始めた。
外を見ようと窓に近寄ると、今や珍しい翼を広げたセイレーンたちが、アトリエの周りを飛び交っている。
突然扉が開け放たれて、きつい潮の匂いと共に一人のセイレーンが中へと入ってきた。
私に目をくれようともせず、鋭い爪で例の楽譜をかき集め、胸に抱いて去って行く。
私は呆然と見送ることしか出来なかった。
あれはきっと、彼女のための曲だったからだ。
I love
長年連れ添った奥様に、普段口にしない愛を告白するサプライズ…的なテレビ番組を時々見かける。
そんな時、「ありがとう」と妻に言う男性がとても多い気がする。
えーっ、それって愛の言葉?
私はいつもそう思ってしまう。
だって「ありがとう」の前には「○○してくれて」のフレーズがくるはずで、めちゃくちゃ受け身やん!と感じるのだ。
ありがとうと告白されて、ときめく女性がいるだろうか。
「愛してます」はハードル高すぎでも、熟年夫婦ならそこは「今も大好きです」とか「大切です」とか言って欲しい。
とはいえ自分も長年夫婦をやってみると、「ありがとう」は限りなく「I love you」に近い言葉なのだと分かる。
そこには積み重ねた年月が込められていて、好き嫌いだけでは言い尽くせない想いがあるのだ。
「でもでもやっぱり、ありがとうはイヤ…」
とりあえず夫に「アイラブユー」と真顔で言ってみたら、ご飯を喉に詰まらせていた。