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7/13/2025, 12:39:49 AM

風鈴の音

 南部鉄器の風鈴が、狂ったように鳴っている。
独居の伯父が緊急入院した日のまま、軒下の雨風に煽られて。
聞く人のいなくなった風鈴の音は、風の悲鳴のよう。

 お爺ちゃんが帰って来ない!
びしょ濡れで叫ぶ風鈴をそっと抱き下ろして連れて帰る。
 おいで、私の所へ一緒においで。
拭き清めて新しい短冊を付けてあげる。
悲しまないでまた涼やかに歌って。
 そして皆で、お盆を待ちましょう。

7/12/2025, 3:10:14 AM

心だけ、逃避行

 暑い。
こんな日は鱧の湯引きが食べたいな、ガラスのお皿に涼しげに盛って、酢味噌を添えて。
 焼き茄子も良いな、冷たくした翡翠色の茄子にたっぷり生姜を乗せて。
それから茗荷を混ぜた胡瓜もみ。大葉を散らした冷奴。

 どれが食べたい?と夫と息子に聞くと、即答でいや肉!肉!肉!
肉焼くだけでいいからね!野菜とか混ぜなくていいから、ガッツリ!

 28センチのフライパンを取り出しながら、私の心はじわじわと、無への逃避行を始める。


7/10/2025, 1:18:56 PM

冒険

 幸せにしますとか大切にしますとか、一生守りますとか。
どんな言葉にも頷いてくれない手強いジュリエットに、やけくそで言ってみた。
「じゃあ、一緒に人生を冒険しよう」

 彼女は満面の笑みで、月夜のバルコニーから飛び降りてきた。

7/10/2025, 3:18:44 AM

届いて……

 訳あって犬を引き取ることになった。
もう成犬で、人慣れしていなくてすぐに歯を剥く。
何かしたら噛むわよ…と言わんばかりの嫌われようだ。
 仕方がないのであまり近寄らず、ただただ好意を送ることにした。

 日に何度も「可愛いね」「賢いね」「お利口さんだね」「大好き」と笑顔で褒めちぎっていたら、なんと一月くらいで撫でさせてくれるようになった。
 そうだよね、人間だって褒められて悪い気はしないもの。
好意が届くと素直に嬉しいもの。
 犬は今、私の足にくっついて寝ています。可愛い。

7/9/2025, 1:30:44 AM

あの日の景色

 高野山の奥の院の辺りに、“姿見の井戸”と呼ばれる井戸がある。
覗き込んで自分の姿が映らないと、三年以内に死ぬのだそうだ。

 曇り空のあの日、あの人と軽い気持ちで中を覗いた。
 井戸は想像よりもずっと狭く深く暗く、水面が落ち葉に覆われてよく見えない。
ざわざわと木立が騒ぎ、どこかで鳥が甲高く鳴いた。
 言い伝えをそのまま信じるわけではないけれど、何だか急に不安になった。

 「ちゃんと映ってるよ、二人とも」
そう言って、ぎゅっと肩を抱いてくれたあの人が、世界で一番好きだった。

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