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5/29/2025, 2:26:16 AM

さらさら

 ドームの天井まで届くような巨大な砂時計の前で、男が顔をしかめている。
砂時計からは金色の砂が細く細く、さらさらと流れ落ちている。
 男は妻に尋ねる。
なあこれ、もう少し早くならないか?いっそ壊しちまっても…。
 ダメよ、と妻はにべもなく言う。
誓いを立てたでしょ?砂が落ちきるまでは、このままにしておくって。

 しょんぼり肩を落とす彼を、妻は優しく抱きしめる。
 さあさあ向こうで瞑想を教えてちょうだい。その前にバター茶を淹れましょうか?それとも香油を塗りましょうか?
 魅惑的な妻の誘いに、男は気を取り直して目を輝かせる。

 男は破壊と再生を繰り返すシヴァ神、妻はパールヴァティー。
巨大な砂時計はこの世の時間で、さらさら流れ落ちるのは時の砂だ。
 飽き性の彼が妻に宥められている間、どうにか世界は安泰のようだ。

5/27/2025, 4:03:38 AM

君の名前を呼んだ日

 インターネットの黎明期に、マイナーなオープンチャットルームのホストをしていた。
きっかけはよく覚えていないが、別のチャットルームで仲良くなった二人と、もっといっぱい話したいよね…となって、私が代表して開いたのだと思う。
 まったり雑談するだけの部屋にポツポツ常連さんが出来て、三ヶ月くらいするとオフ会しようという話になった。
参加者は男女合わせて二十人程で、学生と社会人と主婦。予約した店で初めて顔を合わせ、順に自己紹介してゆく。
「“しら玉餡こ”です。今日はよろしくお願いします」

 実際口に出してみると、ハンドルネームというのはとっても恥ずかしい。
SNSが当たり前の今の人たちならそうでもないのだろうが、当時は皆が同じ気持ちだったらしく、呼ぶ方も呼ばれる方も苦笑い照れ笑いだった。
 そのうちの一人とは今でも繋がっていて、世界でたった一人、私を「餡こちゃん」と呼んでくれる。

5/23/2025, 12:51:03 AM

昨日と違う私

 朝起きたら家に見知らぬ猫がいた。
母曰く、昨日私が連れ帰って来たそうだ。
スマホを見ると、バイト先の後輩から「昨日はありがとうございました。猫よろしくお願いします!」
とメッセージがきている。
 さっぱり訳が分からない。
確かに昨日後輩から、友達が猫を保護したけれどずいぶん弱っていて、譲渡先を探しているうちに死んでしまった、という話を聞いた。
可哀想に生きてたら家で引き取ったのに、とも言った。
そしてそれきりだったはずなのだ。

 「何なに?ボケたの?」
と弟が笑い、父は呻き、母は心配そうな顔をする。
皆が一斉にからかっているのでなければ、私だけが昨日とは違う世界線にいる。
そう、猫が生きていた世界線だ。
 呆然とする私の前で、猫は黒い身体をぬぅぅぅんと伸ばし、図々しくも膝に乗ってきた。
そして、いいからもう黙ってなさい…とでも言いたげに、澄んだ黄色い目で私を見つめた。

5/22/2025, 4:48:30 AM

Sunrise

 明け方ふと目覚めたら、雨が降っていた。
夜明けの雨はミルク色…
で始まる、荒井由実さんの古い曲「雨の街を」を思い出した。
 高校時代にユーミンばかり聴いていた時期があったが、その頃あまり刺さらなかった曲ほどこの歳になると好きになる。
「雨の街を」もその一つで、十代の少女の繊細さ、瑞々しさ、無邪気さ、危うさが美しい旋律と歌詞で見事に描かれていると思う。

♪誰かやさしくわたしの肩を抱いてくれたら
どこまでも遠いところへ歩いてゆけそう…
 何度も繰り返されるフレーズは、夢のような朝焼けの街で、ふわりと連れ去られてしまう少女を想像させる。
とても幻想的なイメージだけれど、現実では言葉巧みに騙された少女たちの、悲惨なニュースをよく目にする。

5/21/2025, 1:11:54 AM

空に溶ける

 角を曲がったとたん、美味しい匂いが鼻をくすぐる。
「今日は…牛丼だと思う」
同僚の一人が言って、他の皆もそれだ!と頷く。
「それか、肉じゃがかな」
と別の同僚が言うと、そっちかも!と皆が同意する。
醤油と味醂と砂糖の甘辛い香り、どちらにしても絶対美味しいやつだ。

 うちの職場の社員駐車場は車通りを一筋入った所にあって、周りを古い住宅に囲まれている。
仕事終わりのこの時間、どの家からか必ず美味しそうな匂いが漂ってきて、それが何のおかずか予想するのが私たちの日課だ。
 あれこれおかずを想像しながら、私たちは従業員から主婦の顔に変わってゆく。
今日やらかしたミスのこと、嫌なお客さんがいたこと、気になる明日の申し送り、何もかも肉じゃがの匂いと一緒に、夕暮れの空に溶かしてしまう。
 ここからは家庭のステージ。
お疲れさまーと車に乗り込むと、頭の中はもう帰宅後の段取りで一杯だ。
 さあ、冷蔵庫に肉じゃがの材料はあったかな?
 
 

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