8月31日、午後5時
帰りたくないなあと君が言って、今日がずっと続けば良いのにねと僕が言った。
8月最後の日、トンボの行き交う野道をヒグラシの声を聴きながら二人で歩いた。
ふと腕時計を見ると、デジタルの表示は午後4時67分。
君が黙って差し出した、スマホの時刻も4時67分。
僕らは顔を見合せ、声を出さずにくすくす笑う。
このまま行ける所まで、手を繋いで歩こうよ。
きっと忘れない
カレンダーに記された、覚えのない赤マル。
この日何かあるの?と夫に聞いたら知らない、書いてないと言う。
「ボーッとして自分で書いたんじゃない?」
夫は笑うけれど、確かにいつもボーッとしてるけど、これは本当に覚えがない。
でも私が書いたのかな……。
忘れちゃいけないことだったのかな。
誰かとの約束、それとも何かの決まりごと、いつかの記念日、ぽつんと付いた赤マルは知られたくない秘密の暗号のようで。
長く生きてきたから、大切なことも思い出も過去も増えすぎて、ふっと分からなくなってしまう。
「ああそれ、こっちの友達と会う日だわ」
週末帰省した長男が、あっさり白状した。
普段居ないくせになんで実家のカレンダーに書くのよ、ややこしいー!ときつく抗議しておいた。
なぜ泣くの?と聞かれたから
趣味の神社仏閣巡りの途中で迷子になった。
日も暮れたし人気もないし……と焦っていると、柴垣根のそばで泣いている女の子に出会った。
「どうしたの?何を泣いているの?」
「雀の子をイヌキが逃がしてしまったの。伏篭に閉じ込めてあったのに。おばさん、雀になってくれる?」
おや……これは源氏物語?
これでも文学少女崩れなので「若紫」の有名な一場面くらいは知っている。
ごっこ遊びだと思った私は苦笑した。
「小さいのに良く知ってるね、でも暗いからもう帰った方がいいよ。一人?お母さんは?」
「イヌキがあそこにいる。私に叱られて離れてるの」
指につられてそちらを向くと、“犬君”と称されたそれは、血の色の目を邪悪に光らせ、狼の形をした黒く蠢く何かだった。
私は悲鳴を上げ、その場を離れて駆け出した。
背中を子供の金切り声が追ってくる。
「なぜ泣くのと聞かれたから答えたのに!なぜ泣くのと聞かれたから答えてあげたのに!なぜ泣くのと聞かれたから雀にしてあげるのに!」。
足音
私の彼は猫のように足音を立てない。
そしてそれは、彼の家族も同じだということを今日知った。
紹介されたお父さんお姉さん弟さんは、彼そっくりのアーモンド型の瞳に薄茶色の猫っ毛、みんな家の中を音もなく歩く。
これってどういうこと?もしや彼って本当は猫?
ううん、そんな想像はあんまり馬鹿げてる。
もっと現実的に……そう、ご両親の出身地は確か忍者で有名な所。
お仕事はコンサルか何かで、でも深夜に出掛けることも多いと言ってた。
もしかして彼の一家は忍者の末裔?だからあんなに足音を忍ばせて歩くの?
『……どっちもハズレ』
彼の心の声である。
真相は昔住んでいたマンションの床が薄く、足音云々で下階の住民とトラブルになったから。
家族全員静かに歩くのが癖になり、それが引っ越した後も今も続いている。
しかし、思ったことが全部顔に出てしまう想像力豊かな彼女を、彼はこよなく愛しているので、ずっと微笑ましく見つめている。
終わらない夏
夏生まれなんです。
だから毎年夏が終わると、ああまた一つ歳取った……と意気消沈します。
夏の筒姫がにやにやしながら
「どうする?もうちょっと夏、続ける?」
と毎年聞いてきて、私は暑いの苦手だし
「いやいや!結構」
ときっぱりお断りしてたけど、年々決意は鈍りがち。
とうとう今年、じゃあもうちょっとだけ……と言ってしまったので、残暑厳しいかもです、ごめんなさい。