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5/14/2025, 3:47:25 AM

記憶の海

 メモリーダイビングの無料モニターに応募してみた。
人気のリラクゼーションサロンが新しく始めたプログラムで、懐かしい記憶の海に潜って癒されましょう!という触れ込みだ。

 カプセルの中でヘッドセットを着けて横たわると、体温より少し高い粘着性のある液体に首から下を満たされ、
ほんのり温かい海に浮かんでいるような心地になる。
 起きているのと寝ているのと中間のような状態で、柔らかい光に包まれて過去の記憶が再生されてゆく。
幼い頃の楽しい思い出、もういない祖母の声、すっかり忘れていた懐かしい場所や人々。
イヤなこともあったはずだが、そんなものは出てこない、嬉しい良い記憶ばかりに心が満たされる。
 思い出がごく最近のものになった時、そろそろおしまいなんだな…と残念に思っていると、カプセルが静かに開いて
「お疲れさまでした」
とスタッフの顔が覗いた。

 「いかがでしたか、リラックスして頂けましたか?」
 別室に案内された私は、にこやかにアンケート用紙を渡された。
「はい、とても良かったです。
でも、記憶の途中で知らない人が時々出てきて…。知らないっていうか、身近な親しい感じはするんですけど、顔がないんです」
「ああ、それは」
スタッフは頷いた。
「お客様はモニターコースですので、思考、嗜好、経歴が合う方をこちらで選び、記憶にマッチングさせて頂いております」
 えっ、と驚く私に見せられたのは、婚活会社のパンフレット。
「私どもこちらの会社も経営しておりまして…。
どうですか?とても他人とは思えない、懐かしさだったでしょう?
お客様の人生にぴったり寄り添える方、宜しければ紹介させて頂きますよ」

 無料モニターってこういうことだったのね…と悔しく思いながら、私は差し出された申込書から目が離せなかった。

5/9/2025, 3:10:04 PM

夢を描け

 今は特に思いつかないけど、いつか本当にやりたい夢が見つかった時のために、自分の可能性だけは広げておきたいんだよね…。
 そう言って、知人のT君は中学生の頃から勉強もスポーツも頑張って、良い大学に入り、資格をたくさん取って、一流会社に就職して世界を飛び回り、素敵な女性と結婚し、可愛い子供に恵まれた。
 てっきり夢を叶えたのだと思っていたら、
「いや、まだ探し中」
なのらしい。
 夢を見つけるって大変だ。

5/9/2025, 1:37:38 AM

届かない……

 ペットボトルのキャップを閉めようととしたら、指が滑って転がった。
人をダメにするクッションに埋もれたまま、落ちたキャップに向かって手を伸ばすが、あと少しで届かない。
“こっちへ来い!”
と念じると、キャップはヒュッと手の中に飛び込んできた。
 この能力は子供の頃からの横着が高じて身についたもので、サイコキネシスと呼ぶにはあまりにショボい。
届きそうで届かないものを、ほんの少し引き寄せるだけだ。

 俺はさっきから、考え込んでいる。
今日、同期の彼女を初めて食事に誘った。
「えっ、二人で?」
と驚かれ、思わず“来い!”と強く念じてしまったら
「いいよー、いつ行く?」
急に彼女は満面の笑顔になった。
 あれは俺の能力が通じたのだろうか?
俺の彼女への気持ちは、あとちょっとで届くんだろうか?それとももう届いたんだろうか?


5/8/2025, 5:05:44 AM

木漏れ日

 両側に大きな街路樹が並ぶ、見通しの良い一本道に差し掛かった。
新緑の木々が揺れて、木漏れ日がガラス越しに降り注ぐ。
 助手席では母がずっと、ある人の悪口を言っている。
運転に集中しつつも真面目に受け答えしていたが、いつまでも終わらないのでもう相槌を打つだけにした。
 細く開けた窓から柔らかい風、ラジオからは爽やかな音楽、煌めく木漏れ日。
こんなに心地好い昼下がりなのに、母の悪口は対象を代えて延々と続く。
 何かに心を囚われている人は、周りの美しさなど何も目に入らないのだなぁ…と思う。
そしてそんな母を疎ましく思う私もまた、心を囚われている。
こんなにも輝く春の日なのに。

5/7/2025, 4:42:25 AM

ラブソング

 人生で一度だけ、ラブソングの歌詞を書こうとしたことがある。
友人の彼氏がアマチュアバンドをやっていて、オリジナル曲の作詞を頼まれたのだ。
メンバーに歌詞を書ける人がいないからと、本好きというだけでなぜか私に白羽の矢が立った。
 テキトーでいいから、いつでもいいから、あ!ラブソングでお願いね!
とお酒のノリで何となく話が決まり、テープを渡されたものの、私はすぐに頭を抱えることになった。
 曲は何だかとてもガチャガチャしていて、サビもよく分からない。
夜な夜な悩んで、どうにか言葉を絞り出したころ…。

 なんと友人が突然彼氏と別れてしまった。
そのまま作詞もうやむやになって二十年。
「あの時はホントにごめん、今思い出しても腹が立つわ」
という友人は、今だに元カレの当時の浮気を許していないようだ。
 どんな歌詞を書いてくれてたの?と笑いながら聞かれるが
「覚えてないよー」
と私も笑って答えている。
 はい、本当は覚えてます。
♪真夏の恋 焼けた喉 僕を潤す冷たい刺激 君はサイダー♪
…的なことを書いてました、早く忘れてしまいたい。

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