あたたかいね
炎は温かい、と言うよりも熱い。
焚き火の炎を見ていると飽きない。適当な距離をとって見ながら手をかざしたり、背中が寒くなって背中を向けたり、お腹が寒くなってまた炎の方を向く。
最近は、消防法かなんかで焚き火はしてはいけないので、うちの子どもたちにはそんな経験がないだろう。焚き火をしたら通報されて、消防車が来てしまう。
大晦日からお正月にかけて、近所の神社でお焚き上げが行われて、前回のお正月のしめ飾りやお札などを燃やしていただく。氏神様なので、初詣を兼ねて毎年大晦日の深夜に出かける。
消防署員も消防団員も立ち会いに来て、神社の氏子さんたちと火の番をしてくれているが、かなり高く炎が踊り圧巻だ。
お焚き上げのお願いをしてから初詣の列に並ぶと、足元に冷たい空気がまとわりつく。でも、身体は温かい。ある程度距離があるのに、お焚き上げの炎から熱気が来るのだ。
一緒に行った夫と、「あたたかいね」と言いながら並んでいると元旦だ。それからすぐに拝殿にたどり着く。
未来への鍵
僕の左手は、拳のまま開かない。両親によると生まれたときからそうだった。だから、利き手の右手だけでなんでも出来ていた。不便も感じない。
小学校、中学校時代は、からかう奴もいた。物を隠すとか壊すとか、陰湿なイジメではなかったので、かろうじて耐えられた。幸い、成績は常に良かったので、一目置かれていたのもあるだろう。
高校もトップクラスの進学校に入った。その頃、両親は僕の左手が使えるように、手術することを検討していた。レントゲンで見ると、指5本分の骨がちゃんとあるそうで、手の皮膚を切開して5本にし、お尻の皮膚を移植して、訓練すれば人並みに使えるようになる。ただ、爪は生えないので、ちょっと異様な手になるが、左手も使えると出来ることが広がるよと、医師から言われたので決心した。
左手も使える世界が、自分の中では想像し難いが、他の人たちがやっているようになるんだと思ったので、手術を承諾した。
半日以上かかった手術のあと、目が覚めると左手は拳ではなく開いた状態で包帯が巻かれていた。まだ動かせないし動かせる気がしない。でも、もう拳ではない。
夏休みの間ずっと、リハビリだった。動くことを長らくしなかった指たちは、開かれて独立しても動き方を知らない。それを1本1本、神経との繋がりを意識させ、動かしていく訓練だ。痛くはないが長い道のりだった。
両手が使えるようになったのを生かして、僕は今、歯科医をしている。細かい仕事をするにつけ、左手も使える喜びを感じるからだ。
あの手術が、僕の未来への鍵だったのだ。
星のかけら
街なかに住んでいると、星空はあまり見られない。あちこちのプラネタリウムに行ったが、やはり本物の星空が見たい。満天の星というのを見てみたい。
それで、個人で長野県の星空鑑賞ツアーに申し込んだ。次の次の土曜日から日曜日にかけての小旅行。楽しみで楽しみで、もう準備にかかっている。1泊なのに、持っていくものを用意したらけっこうな量になり、今度は荷物をシェイプしようとしている。
独り者の気楽さで、時々バスツアーに行く。自分でプランをたてるのは苦手だし、旅行会社のツアーなら間違いないと、女一人で出かけていく。それが今回は星空鑑賞だ。出発日まで仕事も頑張って、心置きなく楽しんで来よう。
ところが、出発する週の金曜日の朝、自分の身体の異変に気付いた。頭がひどく痛く、熱い、背中からバラバラになるような違和感と痛みもあった。
這うようにタクシーに乗って、内科医院に行くとインフルエンザだった。
「あのぉ、明日旅行に行くはずだったんですが…ダメですよね」
「特効薬は出しておくけど、今日の明日は無理ですね。第一、明日じゃまだ身体が辛いはずですよ」
はぁーーー楽しみにしていたのに。頭痛を押して旅行会社に電話する。前日ではキャンセル料をいただくことになっているが、インフルエンザならしょうがないですと、無料にしてくれた。
ひとまず安心して、薬局で買ったOS-1を飲んで横になった。何時間眠ったか分からないが、ふと目が覚めると辺りは真っ暗だった。眠っている間に、夜になったらしい。
あぁ今頃、出発前のウキウキに身を委ねているはずだったのに!半身起こしたものの、灯りをつける気にもならず、またバタンとベッドに倒れ込んだ。
その時だった。目の前に銀色の光が無数に浮かんでは消える。目をつぶっているか開いているかも分からない暗さの中で、その光は綺麗だった。「星のかけら?」そう思い、貪るように光を見ようとするが、流れ星のように浮かんでは目を凝らすと消えていく。
そのうちにまた眠ってしまったらしい。私の星空鑑賞ツアーは、それで終わった。
Ring Ring…
昔の電話はRing Ring鳴った。ジリジリンと鳴るのもあったけど、ほぼすべてが「ベルの音」だった。
いまは多種多様で、プルルル、ピロロロはまだしも、着メロや着うたも多いから、一緒にいる人の電話が鳴っても出先のお店の電話が鳴っても、一瞬何の音か分からない。
相手への発信だって、昔は丸いダイヤルの数字のところに指を入れて、留め具まで回しきって、次の数字を回したものだ。昭和の歌の一節に「ダイヤル回して手を止めた」っていうのがあるけど、平成生まれの子どもに「ダイヤル回すってなに?」と聞かれて驚いた。なるほど、ダイヤル式の電話が見られなくなって久しい。
電話のやりとりの風情も無くなった。同級生に電話するにも、固定電話同士だから、親が出るかもとドキドキしたり、貰った方もお茶の間に電話があって、家族が聞き耳をたてているところで話さなければならないことも多かった。
そもそも私のスマホは、着信音がならずバイブだけにしてある。公共交通機関に乗るので、急に鳴るのは周りに迷惑だけど、いちいち音を消したりつけたりが忘れっぽい私には無理だからだ。
お茶の間の電話がRing Ring鳴った時代が懐かしいのは、私が年をとったからだろうか…。
追い風
追い風に乗って順調に歩めれば良いのだが、追い風が強すぎて足をすくわれ、転んでうずくまるなんてこともあるから、世の中うまくいかない。ビル街の風は、いろんな意味で厳しい。
向かい風は「なにくそ!」と踏んばって立ち向かうと、少しずつでも前に進めて、歩きおおせたら達成感がある。
なんでもプラス思考で乗り切ってきた俺だから、追い風も向かい風も「どこ吹く風」と受け流す。風だけに?!
考えてみたら俺の人生、追い風が吹いたことは無かった。向かい風に立ち向かって切り開いてきた。精神的なダメージは無し!あっても気が付かないふりをする。良い方向に考える。
これからも、年を取ってしんどくなってからも、そうやって暮らしていく。それが俺だからだ。
君と一緒に
【初めて書くタイミングを外して、開けてしまった一昨日のテーマ。悔しいのでここに!】
歩くのが好きで、1時間や2時間平気で歩ける私と夫。60を過ぎてもそうだったので、2人がボケたら、手に手を取ってどこまででも行っちゃうね。都内の自宅から散歩に出たはずが、いつまでも帰って来なくて、家族が捜査願い出したら、青森で見つかりましたとか、島根にいましたとかになるのかなぁと、みんなで笑ったこともあるほど。
ところが、人間何があるか分からない。ある日、出勤の途中、何の前触れもなく右の腰から足までビーンと痛くなり、その場で立ち止まるほどだった。横断歩道の途中だったので、足を引きずりどうにか対岸まではたどり着いたけど、たいへんな痛みだった。以来、たくさん歩くと右足に痛みが出る。それと持病の影響で息切れがひどく、心臓もバクバクするのでちょっとした坂もしんどくなって、たくさん歩くことはできなくなった。
加えて、夫は年のせいか耳石が動き、めまいがするようになって、よろよろ慎重に歩く。
あーこりゃ、青森までは行けないな。と、安心したが寂しくもあり複雑だ。