「余光(よこう)」
我は一灯を守るものなり。
浮世の喧騒に耳を塞ぎて、
心の声にのみ従う。
人の選びし道の脇に、小径(こみち)あり。
誰ぞ踏みしめし跡もなく、
ただ草の音、風の匂い、
忘れられし価値の咲くところなり。
他人の棄てし残り物を、
我は宝と呼ぶ。
見向きもされぬ煮物の弁当に、
一人ほほ笑むを、狂気というなかれ。
思へば我が心、常に問いを抱きて歩みしなり。
解を欲せず、ただ問いの余韻に生きる。
それが癖にして、慰めなり。
人は日々を忙しげに追いしが、
我は日々の余白を拾うなり。
言葉の端、感情の片鱗、
その一つ一つに、世界を読む。
我が歩み、直線ならず。
しかし、遠回りの果てに、
我が見るものは、真にして深し。
人の目に映らぬ光なれど、
我は知る。
この静けさの奥に、確かなる熱を。
拝啓 過去の私へ
静かな午後、窓辺でふと君のことを思い出しています。
どうしているだろう。あいかわらず、不器用に悩んだり、自分を責めたりしていないだろうか。
今日は、君に伝えたいことがあって、こうして手紙を書いています。
君はずっと、「人と違うこと」を恐れていたね。
浮かないように、傷つかないように、何度も自分を抑えた。
けれど今の私は言えるよ。
その「違い」こそが、君の美しさだった。
誰にも見つけられなかったものを見て、言葉にできなかった感情を丁寧に抱えようとした、
その静かな力が、何より君らしかった。
一方で、君は自分を褒めることをほとんどしてこなかったね。
いつも「まだまだだ」と言って、前だけを見つめていた。
でも、あの日の小さな一歩や、静かに誰かを思いやった優しさは、
もっと大切にしていいものだった。
私は今、君の過ごした時間を、心から誇りに思っているよ。
もし時を戻せるなら、私は君に伝えたい。
もっと「好き」を大事にしていい。
誰に認められなくても、誰の期待に応えられなくても、
「やりたいからやる」で、十分なんだ。
それからもうひとつ。
人に頼っていい。弱さを見せても、誰も君を嫌ったりしない。
強くあろうとすることも尊いけれど、柔らかくなることも、同じくらい勇気のいる選択なんだよ。
君が過ごした日々は、決して無駄じゃなかった。
むしろ、あの時間があったからこそ、今の私はこうして穏やかに生きていられる。
ありがとう。
そして、どうかこれからの時間は――君自身のために使ってほしい。
好きなことをして、心のままに生きていい。
それが、人生のほんとうの豊かさだから。
いつかまた会おう。
きっと、君は君のままで、やさしく歳を重ねていくから。
敬具
80歳の自分より
掌に小さなカメラを握りしめ、
歩くたびにレンズは揺れる。
「これが私だ」と映すたび、
映るのは昨日の私。
川は今日も流れているのに、
映像の中の水は、止まったままだ。
そうして私は気付く。
フィルムを回す手を、一度そっと下ろしてみる。
風は、映さずとも吹いている。
光は、語らずとも射している。
「私」はきっと——
物語になる前の、名もないこの瞬間にだけ、
確かに息をしている。
『老いの窓辺にて』
世界はとうに知り尽くしたと、
薄い茶の湯をすすりながら思う。
春は過ぎ、
夏はただ眩しすぎて、
秋は遠く、
冬の手前で少しだけ立ち止まる。
窓辺には一匹の猫、
名を呼んだ覚えはないが、
いつの間にか隣にいる。
「お前もか」と声に出せば、
しっぽだけで返事をする。
人生は、
大層なものではなかったが、
こうして今日も、
風が揺れている。
――それだけで、まあ、悪くはない。
『罪の名を呼ぶ教会で』
――第三章「救いそこねた最後の声」
外の雪は止んでいた。
でも教会の中はまだ、どこか冷えていた。
それは気温のせいではなくて、きっと、
僕たちの中に、まだ溶けないものがあるからだと思った。
茉白が火を起こし、僕はその前に座っていた。
お湯の沸く音が、教会の静けさをわずかにかき混ぜていた。
「律くん」
彼女が、ぽつりと僕を呼んだ。
「昨日、私が話したから……
今日は、君の番だよ」
僕は少しだけ目を伏せて、そしてゆっくりと話し始めた。
「葉月って子がいたんだ。
クラスでも目立たない子で、でも、どこか気になる子だった。
休み時間に本を読んでたり、ひとりで空を見てたり――
たまに、僕にも話しかけてきてさ。
……ある日、放課後に“話したいことがある”って言われたんだ」
僕の声は震えていた。
でも、話すのをやめたくなかった。
「図書室で、彼女は泣いてた。
いじめられてること、家でも誰にも見てもらえないこと、
“生きてる意味がわからない”って――」
マグカップの中のお湯が揺れた。
それは、僕の指が震えていたからだ。
「何も言えなかったよ。
“頑張って”も、“通報しよう”も、全部言いかけて……飲み込んだ。
間違ったこと言ったら壊れそうで。
自分に、そんな責任持てないって思って」
茉白は黙って聞いていた。
僕はそれが、ありがたかった。
「それでも彼女は、最後に笑って“ありがとう”って言った。
……その翌朝、彼女、ビルの屋上から飛び降りた。
何も言わずに。
でも、あの“ありがとう”が、きっと最後の言葉だったんだ」
そこまで言ったところで、言葉が途切れた。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「僕は、救えなかった。
誰かが助けてって言ってたのに、手を伸ばせなかった。
何もしなかった。
……それって、もう殺したのと変わらないよな」
その言葉を口にした瞬間、心の底に沈めていた罪悪感が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
茉白はそっと僕の隣に座った。
あたたかい手が、僕の指先に触れる。
「律くん」
彼女は、静かに言った。
「私は、自分の手で命を奪った。
君は、手を伸ばせなかった自分を責めてる。
でもね、どちらも、同じくらい苦しい。
それに――君がその子を忘れない限り、
あの子は“ちゃんと届いた”ってことになると思う」
僕は、顔を伏せたまま涙をこらえた。
でも、それでも流れてきた。
「茉白は、忘れたくない過去ってある?」
「……忘れたいって思ったことはあるよ。
でも、忘れちゃいけないって思った。
その人がいた証だから。
たとえ“罪”だったとしても、
その人の命を、この世界から消してはいけないと思ったから」
僕の胸の奥が、少しだけ、やわらかくなった気がした。
救えなかった痛みを誰かに話せたのは、これが初めてだった。
許されたわけじゃない。何も解決してない。
でも、「ここにいていい」と思える場所が、
この世界のどこかにあるかもしれないと思えた。
そして今、その“どこか”が、ここなのかもしれなかった。