「老猫、恋を語る」
おやおや、また誰かが泣いておる
縁側のこの席は、恋に破れた者の定位置になって久しい
わし?
わしはな、恋などとうに卒業した……と言いたいが
まあ、毛布のあたたかさには まだ未練があるわい
恋とはなんぞ、とよく聞かれる
人間たちは知りたがる
けれど、知ったら最後、うまく動けんものさ
若い頃は、
あの子の尻尾にじゃれたり
深夜の屋根で「にゃあにゃあ」喧嘩したりしたものじゃ
それでもな、
一緒にひなたぼっこして
黙って目を閉じる時間がいちばん幸せだった
恋は 騒がしゅうて
愛は 静かじゃ
忘れるな、若造
「触れたい」と「そばにいたい」は、似て非なるものじゃぞ
触れるのは衝動
そばにいるのは覚悟じゃ
そういうものを
毛づくろいのように
毎日少しずつ重ねていくのが、
――本当の“好き”というやつじゃろうて
さて、わしはそろそろ昼寝に戻るとするわ
おまえも、恋に敗れてうずくまるなら
まず日なたを見つけることじゃ
心は案外、温かさでほどけるものよ
『空を落とした鏡』
誰かが落とした
空のかけら
それは 舗道の隅に眠る
割れそうな鏡
青い羽をまとったまま
地上で息をひそめていた
雲は 綿菓子のように溶け
風は 秘密をささやいては
水面にひとしずく
魔法を落としていく
そこに映るのは
天ではなく 想いのかたち
忘れられた祈りや
誰にも言えなかった夢が
ゆらりと波紋を描いて漂っている
わたしはそれを
飲み水のように見つめていた
踏みこめば壊れる
触れれば消える
それでも、確かにそこに在る
小さな水溜まりは
空が地上に残した、
ひと夜のまぼろし
風がやめば
光が満ちて
その鏡は
静かに 空へと戻っていった
恋か、愛か、それとも
名前のない何かだったのか
胸が痛んだのは確かだった
でも、それが執着か、優しさか
あの日の自分にも、答えられなかった
手を伸ばしたのは
寂しさからか
君を信じたかったからか
見つめ合った瞳に
映っていたのは
君だったか、それとも自分だったか
恋は一瞬の光
愛は深く沈む海
そして
そのどちらでもない、
名前のつかない想いが
ときに人を一番強く揺らす
忘れられないのは、愛ゆえか
忘れたくないのは、恋ゆえか
それとも
あの夜の静けさに
心を委ねた、
たった一人の自分ゆえか
『代わりと、かけがえ』
コインは落ちれば音がする
手にすれば価値がある
失くしても、また稼げばいい
誰かの代わりに、また誰かが来る
名前は消せる
居場所は変えられる
物は壊れて、買い直せる
言葉も着替えのように取り替えられる
でも──
初めて泣きながら笑った夜
呼吸の音さえ聞き逃したくなかった瞬間
差し出された、たった一度きりの「ありがとう」
それは、代わりがない
似た言葉では埋まらない
似た誰かでは誤魔化せない
かけがえのないものは
握りしめれば壊れ
離せば遠ざかる
だから怖くて
だから愛しい
金では買えない
けれど金でしか守れないこともある
代わりのあるものが支えてくれる
代わりのないものを、大切にするために
僕はその狭間で
今日も生きている
「火種」
ただ 生きているだけの毎日が
ひどく 静かで
どこか 濡れている気がした
飯を食い
寝て 起きて
働いて また 眠る
誰もがそうして生きている
けれど
どこかで 小さな声がした
「ほんとうに これだけか?」
その声に
名はない
色もない
けれど 奥の方で ずっと燃えている
退屈は 怠けではない
それは
燃やせる薪を探している証
「ただの火」ではない
「灯す火」
誰かの闇を そっと照らす
小さな 人間の火種だ