『手放した時間』
指のあいだから
静かにこぼれ落ちていったものがある。
つかもうとすればするほど、
水のように形を変えて
逃げていく時間があった。
あのときの私には
何が大切で、
何がまだ守れたのか、
きっと見えていなかったのだろう。
過ぎていく瞬間ほど、
あとになって胸の奥で
ゆっくり光りだす。
思い出すたびに
少しだけ痛くて、
でも確かにあたたかい
不思議な灯火になって。
手放してしまった時間は
戻らない。
それは残酷で、
でも同時に優しい真実だ。
戻らないからこそ、
私たちは変われるのだと
どこかで知っているから。
あの頃の自分に
もう会えないとしても、
あの瞬間がなければ
今の私も、
この心の輪郭もなかった。
だから今日は
そっと目を閉じて、
手放した時間に
ありがとうを言ってみる。
もう二度と触れられないけれど、
それでも確かに
私の中で息をしている。
——消えたのではなく、
形を変えて
未来へ続く道の
静かな礎になったのだと
やっと思えるから。
『鏡の向こうで待っていた』
僕は引っ越してからずっと、夜になると“気配”に悩まされていた。
神戸の小さなワンルーム。入口のすぐ横に姿見の鏡があり、それがどうにも落ち着かない。
朝は何ともない。
だが夜、部屋の灯りを落として寝ようとすると、鏡の表面が、ほんの僅かに――呼吸するように曇る。
最初は湿気だと思った。
でも、僕が近づくと曇りはすぐに引く。
壁も床も乾いている。
冷房もつけていない。
鏡だけが、息を吸って、吐いている。
そんな馬鹿な。
そう思いながらも、視線をそらせない自分がいた。
■1週間目
深夜2時。寝返りを打ったとき、鏡の方から「コン」と硬い音がした。
固いもの同士がぶつかるような、小さな衝撃音。
――部屋には僕しかいない。
電気をつけて確認したが、当然何もない。
ただ鏡だけが、じわりと曇っていた。
その曇りは、まるで手のひらを押し付けた跡のように見えた。
■2週間目
仕事帰り、ふと鏡を見ると、曇りは“内側”に広がっていた。
僕の部屋ではない。
鏡の奥の空間が、湿っている。
手の形だけでなく、肩、頭らしき丸みまで浮かんでいる。
まるで誰かが、鏡の向こう側で佇んでいるかのように。
ぞく、と背中に氷の爪が触れた。
鏡に近づいて息を止めたとき、曇りの輪郭が、ゆっくりと動いた。
――中の人間が、こちらに顔を寄せてきている。
そこで僕はやっと気づいた。
曇った鏡は、僕の姿を映していなかった。
鏡の表面は曇っていない。
奥が曇っているのだ。
映り込むはずの僕の影は消え、
代わりに“向こう側”の誰かだけが、輪郭を濃くしていた。
■3週間目
その夜、ついに鏡の奥の曇りが澄み、向こうの人物の形がはっきりした。
フードをかぶったような曲線の影。
顔はぼやけて見えない。
姿勢は、鏡越しの僕と同じ高さで、同じ角度。
まるで――
僕の行動を真似しているように見えた。
恐怖が喉を塞いで、声が出ない。
鏡の前から逃げようと後ずさると、向こうの影もまったく同じタイミングで後ずさる。
その瞬間、鏡の真ん中、影の“顔の位置”に、黒い穴が開いた。
ゆっくり、湿った息が漏れてくる。
「……み え て る」
聞こえたのではない。
頭の内側で、直接囁かれた。
■4週間目・深夜3時
ついに鏡が――曇らなくなった。
澄み切った表面。
でも、僕だけ映らない。
その代わりに映っているのは、
鏡の奥からこちらをのぞく“もう一人の僕”。
顔のない僕。
呼吸だけが、かすかに揺れている。
動くたび、そいつは完全に同期してくる。
ほんの半歩、僕が遅れれば、向こうが先に動く。
もう鏡ではない。
向こうに“何か”が僕の形を使っている。
逃げるために鏡を布で覆った夜、布の裏側から「コン」と音がした。
あの日と同じ、軽い衝撃。
寝られずに布越しの鏡を見つめていると、
布の中央が、ゆっくりと内側から押された。
指の形をした凹みが、五本。
布の表面に浮かんだ指先が、
ゆっくりと横にずれて、こちらに手招きした。
『君と僕の、桜日和』
春の匂いが
まだ名前を持たない朝に漂って、
ふたりの影は
やわらかいピンク色の風に溶けていく。
「きれいだね」と君が言うたび、
その声が花びらになって、
僕の胸のどこかへそっと落ちた。
桜は一瞬で散るからこそ、
人はこんなにも
大切に、そっと息をのみながら眺めるのだろう。
君と歩く並木道は
過去でも未来でもなく、
ただ“今”だけに咲いている。
指先が触れたとき、
花より先に、
僕の心がほころんだ。
風が吹く。
世界は淡く舞い上がる。
君が笑う。
世界は音もなく満ちていく。
もしも季節が巡って
桜の気まぐれが今年も僕らを追い越していっても、
今日の光だけは
ずっと胸の奥で散らずに揺れているだろう。
——君と僕の、桜日和。
それは花より先に咲いた、
小さな奇跡の名前だ。
『記憶のランタン』
夜の底で
ふと手に触れたのは、
まだ温かい——
あなたの昨日が灯した、小さな灯火。
ランタンは言う。
「忘れたくないものほど、
人はそっと置き去りにしてしまう」と。
だから光は揺れる。
涙のように、
祈りのように、
消えそうで消えない約束みたいに。
風が吹けば、
過ぎていった声の匂いがふわりと混ざり、
あの日の影が、胸の奥で静かに再生される。
でも恐れなくていい。
記憶のランタンは
過去を縛る檻ではなく、
未来を照らすための種火だ。
あなたが歩くたび、
炎は澄んでいく。
余計なものは燃え、
残るのはただ、
ほんとうに大切だった一瞬だけ。
そして夜明け前、
ランタンの光は少しだけ青くなる。
それは、新しい物語を迎えるために
心が静かに整っていく合図。
——どうか、持っていきなさい。
あなたが選んだ記憶だけを詰めた
そのランタンを。
旅はまだ続くのだから。
『仮面のまま歳を重ねて』
大人たちよ、
あなたたちはいつから
立派なふりを覚えたのだろう。
正しさを語る声は震えている。
自信を装う背中は、どこか幼い。
胸の奥では、
十二歳のままの心臓が
不安のリズムを叩いている。
社会という教室では
誰もが机を並べ
「大人とはこうあるべきだ」と
互いに答案を見せ合っている。
だが、答え合わせは永遠に行われない。
誰も正解を知らないからだ。
怒鳴る上司も、
微笑む親も、
背伸びして恋を語る人も、
みな、仮面を貼りつけたまま
“成熟の劇”を演じているだけ。
夜、家に帰ると
仮面の裏側が泣いていることを
自分たちだけが知っている。
大人は存在しない。
あるのは、
大人という影を追いかける子どもたち。
未完成のまま歳を重ね、
未解決のまま責任を背負い、
未熟なまま世界を回している。
けれど──
だからこそ、
たったひとつの真実がある。
子どもであることを恥じぬ者だけが、
本当の意味で成長するのだ。
仮面をそっと外したとき、
きみの瞳に映る世界だけが、
大人という幻想を超えていく。