『罪の名を呼ぶ教会で』
――第三章「救いそこねた最後の声」
外の雪は止んでいた。
でも教会の中はまだ、どこか冷えていた。
それは気温のせいではなくて、きっと、
僕たちの中に、まだ溶けないものがあるからだと思った。
茉白が火を起こし、僕はその前に座っていた。
お湯の沸く音が、教会の静けさをわずかにかき混ぜていた。
「律くん」
彼女が、ぽつりと僕を呼んだ。
「昨日、私が話したから……
今日は、君の番だよ」
僕は少しだけ目を伏せて、そしてゆっくりと話し始めた。
「葉月って子がいたんだ。
クラスでも目立たない子で、でも、どこか気になる子だった。
休み時間に本を読んでたり、ひとりで空を見てたり――
たまに、僕にも話しかけてきてさ。
……ある日、放課後に“話したいことがある”って言われたんだ」
僕の声は震えていた。
でも、話すのをやめたくなかった。
「図書室で、彼女は泣いてた。
いじめられてること、家でも誰にも見てもらえないこと、
“生きてる意味がわからない”って――」
マグカップの中のお湯が揺れた。
それは、僕の指が震えていたからだ。
「何も言えなかったよ。
“頑張って”も、“通報しよう”も、全部言いかけて……飲み込んだ。
間違ったこと言ったら壊れそうで。
自分に、そんな責任持てないって思って」
茉白は黙って聞いていた。
僕はそれが、ありがたかった。
「それでも彼女は、最後に笑って“ありがとう”って言った。
……その翌朝、彼女、ビルの屋上から飛び降りた。
何も言わずに。
でも、あの“ありがとう”が、きっと最後の言葉だったんだ」
そこまで言ったところで、言葉が途切れた。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「僕は、救えなかった。
誰かが助けてって言ってたのに、手を伸ばせなかった。
何もしなかった。
……それって、もう殺したのと変わらないよな」
その言葉を口にした瞬間、心の底に沈めていた罪悪感が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
茉白はそっと僕の隣に座った。
あたたかい手が、僕の指先に触れる。
「律くん」
彼女は、静かに言った。
「私は、自分の手で命を奪った。
君は、手を伸ばせなかった自分を責めてる。
でもね、どちらも、同じくらい苦しい。
それに――君がその子を忘れない限り、
あの子は“ちゃんと届いた”ってことになると思う」
僕は、顔を伏せたまま涙をこらえた。
でも、それでも流れてきた。
「茉白は、忘れたくない過去ってある?」
「……忘れたいって思ったことはあるよ。
でも、忘れちゃいけないって思った。
その人がいた証だから。
たとえ“罪”だったとしても、
その人の命を、この世界から消してはいけないと思ったから」
僕の胸の奥が、少しだけ、やわらかくなった気がした。
救えなかった痛みを誰かに話せたのは、これが初めてだった。
許されたわけじゃない。何も解決してない。
でも、「ここにいていい」と思える場所が、
この世界のどこかにあるかもしれないと思えた。
そして今、その“どこか”が、ここなのかもしれなかった。
『罪の名を呼ぶ教会で』
――第二章「灯りの届かない夜」
外は風の音だけが鳴っていた。
雪はいつの間にか強くなっていて、教会の窓に当たる粒が、乾いた音を立てていた。
茉白と僕は、ろうそくの小さな明かりのもとで、
毛布にくるまりながら、ほとんど言葉も交わさずに時間を過ごしていた。
彼女は、火の揺らぎをじっと見つめていた。
まるで、その揺れが記憶を照らすのを待っているみたいに。
「……話すつもりなんてなかったんだけどね」
ぽつりと、茉白が呟いた。
「誰かに、自分の過去を。
……でも、律くんなら、聞くだけはしてくれる気がした」
僕は、黙って頷いた。
それは“慰めてほしい”とか“許してほしい”とかじゃない。
ただ、ちゃんと受け取ってほしいというような、
彼女の静かな決意がにじんでいた。
「私、ね――」
茉白は言った。
「好きだったの。ひとりの人を、すごく。
初めて、自分が誰かに必要とされてるって思えて。
その人といると、息ができるような気がした」
彼女は、一瞬だけ目を閉じた。
「……でも、その人、ある日突然、ひどくなったの。
言葉も、手も。
最初は“私のせい”だって思って、我慢した。
でも、違った。どんなに愛してても、
人は壊れていくんだって、気づいた」
僕の胸に、重いものが落ちる。
それでも、目を逸らしたくなかった。
誰かの苦しみが“重いから”なんて理由で、無視してきた自分の過去と、向き合いたかった。
「……ある夜、私は彼を突き飛ばしたの。
階段から落ちて、頭を打って。
……それで、終わり。突然。あっけなく」
彼女は泣いていなかった。
でも、泣いている人よりも、ずっと悲しそうだった。
「それが、“殺した”ってことなのかは、わからない。
でも、私は、もう普通には戻れない。
“誰かの命を終わらせた”という現実が、
私の名前に、重なってしまったから」
僕は、何も言えなかった。
言葉なんて、安っぽくて、軽すぎて、今の茉白には届かない。
でも――
「ねぇ、律くん」
彼女がふと、僕の方を向いた。
「それでも、私、まだ生きてる。
生きちゃってる。
……こんな私でも、生きてていいのかな?」
その問いに、僕は答えられなかった。
でも、同じように思ってた。
「こんな自分でも、生きていていいのか?」って。
僕たちは似ていた。
罪の重さは違う。
過去も違う。
でも、“もういらないって思われた自分”に、
どこかで折り合いをつけようとしていた。
だから、答えは出せなくても――
僕は、そっと彼女の横に座り直した。
彼女は、言葉じゃない“それ”を感じて、少しだけ目を細めた。
その夜、ふたりで見上げた教会の天井は、崩れかけていたけれど、
小さな光が、どこかから入り込んでいた。
それはまるで――
壊れた屋根だからこそ見える、星の光のようだった。
『罪の名を呼ぶ教会で』
――第一章「雪の下で待つ人」続き
彼女の言葉が空気を割ったあと、しばらくのあいだ、沈黙が降りた。
「私は、人を殺した。」
普通なら、その一言で逃げ出してもおかしくなかった。
けれど僕は、逃げなかった。というより、逃げる気力すらなかったのかもしれない。
教会の中は、外よりも静かだった。
風の音すら遠ざかって、時が止まっているようだった。
まるでこの場所が、罪も痛みも飲み込んで、封じているみたいだった。
「……怖くないの?」
彼女がそう言った。
僕に背を向けて、ロウソクの残骸を指で弄びながら。
「わからない」と僕は答えた。
「怖いっていうのも、最近よくわからなくて。
でも……君のこと、ちゃんと知りたいと思った」
少女はゆっくりと僕の方を振り向いた。
その目は、泣いてもいないのに、どこか濡れて見えた。
「名前、教えてくれる?」
「……律。栗原律」
「律くん。……私は茉白。白い真実って書いて、ましろ」
「皮肉な名前だね」と僕は言ってしまった。
でも、彼女はふっと小さく笑った。
それが、どこか救われたような笑みに見えて、僕の胸が少しだけ熱くなった。
「ねえ、律くん」
彼女は床に敷いた古い毛布を指差して、言った。
「そこ、座って。きっと、もうすぐ雪が強くなる。……今日は泊まっていって」
泊まる? この場所に? この、人を殺したという少女の傍に?
けれど、もう一度教会の外に出て、冷たい夜の中に戻る気にはなれなかった。
誰にも見つけられずに消えたかったはずなのに、
なぜだか今、ここにいてもいいような気がした。
僕はゆっくりと茉白の隣に腰を下ろした。
彼女の髪が、少しだけロウソクの香りを纏っていた。
その夜、僕たちは何時間も話した。
時には沈黙しながら、それでも、
“話す”という行為を通して、
少しずつ、少しずつ、自分を思い出していった。
『罪の名を呼ぶ教会で』
――第一章「雪の下で待つ人」
「死にに来たの?」
その言葉は、まるで冷たい水のように、僕の胸に落ちた。
熱を奪うのではなく、麻痺していた感情を一瞬で覚まさせるような冷たさだった。
なんでそんなことを、あんなに静かに言えるんだろう。
なんで、そんなに当たり前のように。
僕はまだ、ちゃんと決めていなかった気がする。
ただ、歩き疲れて、寒くて、どこにも帰りたくなくて、
気づいたらここに来ていただけで――
「死にたい」なんて、そんな強い言葉を使えるほど、
僕の中には確かなものなんてなかった。
でも、「生きたい」なんて言葉も、もうとうの昔に失くしていた。
僕は何も答えられずに、ただ立ち尽くしていた。
少女は、動かない。こちらに歩み寄りもしないし、追い出そうともしない。
まるで、ずっとそこにいることが自然で、
僕が来ることも、予感していたかのような眼差しだった。
どこかで見たことがあるような瞳だと思った。
テレビの画面越しに見る戦場の子どもたち、
誰かを亡くした人の目、
あるいは、昔、鏡に映っていたはずの自分の目――
そういう類いのものだった。
怖かった。でも、逃げなかった。
たぶん、逃げる理由もなかった。
「……君は、誰?」
かろうじて出せた声は、自分でも情けなくなるほど弱かった。
でも、それでも話したかった。
話すことが、生きてることの証明みたいに思えたから。
彼女は少し間を置いて、ふと目を伏せた。
そして、低く、乾いた声で言った。
「……私は、人を殺した」
心臓が、どくんと跳ねた。
でも――怖いと思うよりも先に、
なぜか、「ああ」と、納得するような感覚があった。
そうか。
この静けさは、その重さだったんだ。
人の命を奪ったことがある人間だけが持つ、
消えない沈黙の色だったんだ。
僕は、立ったまま、何も言えなくなった。
でもその沈黙は、もう寒くなかった。
『罪の名を呼ぶ教会で』
――第一章「雪の下で待つ人」
足元の雪が、ざくり、と音を立てた。
白と灰の世界を、ひとりで歩いている。
冷たいのに、痛くない。感覚がもう、遠い。
そんなことに気づくのは、ふと立ち止まってしまったときだった。
人生の終わらせ方なんて、本当は知らない。
ただ、「もういいや」と思っただけだった。
家に帰らず、誰にも行き先を告げずに、
気づけば山の中を彷徨っていた。
そして、そこにあったのは、
黒く、ひっそりとたたずむ廃教会だった。
屋根には雪が積もり、十字架も傾いている。
扉は半分外れ、まるで「どうぞ」と言っているように思えた。
ここでいい。
ここなら、誰にも見つからない。
誰にも迷惑をかけない。
そんな風に思ったのは、ある種の自己満足だったかもしれない。
扉を押すと、軋んだ音とともに冷たい空気が流れ込んできた。
でも、その中に、ほんのわずかだけ、温もりの気配があった。
――人の、気配だ。
「……誰?」
声がした。
少女の声。
静かで、乾いていて、でも、何かを閉じ込めている声だった。
驚いて振り返ると、
奥の方、倒れたベンチの影から、
黒い上着を羽織った少女が、こちらを見つめていた。
その目には、驚きも、警戒もない。
ただ、ずっとそこにいたような、そんな目。
「……死にに来たの?」
彼女はそう言った。
まるで、すでに何人もの“そういう人”と出会ってきたかのように。
僕は何も答えられなかった。
なぜならその問いは、まさしく、
僕自身がまだ言葉にできなかったことだったからだ。