かおる

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8/8/2024, 9:56:48 AM

「先輩、もう卒業ですね」
「うん」

 窓を開ければ今にも綻びそうな蕾の青い匂いの風がカーテンを揺らす。
 春めいた柔からな日差しが私達二人を包み込むように優しく照らしていた。
 いつになく穏やかな時間は嫌でも別れのときが近いことを意識させられる。

「寂しいです」
「電話するから」

 素直に溢せば、優しく笑って宥めるような言葉が返ってくる。
 それが寂しい。
 からかいと呆れの装飾が外された振る舞いは、よく知っていたはずの彼を遠くの存在に感じさせる。
 心臓から目頭へと熱が込み上げてきて、今にも涙に変わってしまいそうだ。

「お前も来るか」

 多分これが最後のチャンスなのだ。
 言葉を変えて何度も差し出されてきた、別れを遠ざけることができる選択。
 わかっているのに動けない。
 首をほんの少し動かすだけでいいのに、まるで冬が帰って来てしまったかのように冷たい日差しが私を縫い留める。

「なんてな」
「私には夢がありますから」

 何度も返した言葉を吐き出す。
 いつものように返せただろうか。
 彼を見ていることができなくて、ようやく動けるようになった体で窓の外、どこか遠くを見やる。

「電話くださいね」
「うん」
「待ってますから」
「うん」
「メールもチャットも……手紙だってほしいです」
「全部送るよ」

 優しい言葉はさよならにしか聞こえなくて、速くなる鼓動が目から涙を押し出した。
 ぼやけて何もかもが混ざり合う景色の中で、よく知っている手の温かさだけが私が縋れるすべてだった。

5/27/2024, 9:33:01 AM

 金曜日が満月だったら月を見よう。
 月を見ることを言い訳にして、ただ二人でだらだらと夜を過ごす日。
 学生時代は毎月の恒例行事だったが、お互い社会に出てしまい平日の夜更かしができなくなったことで、半年に一度開催できるかどうかの頻度になってしまったそれが今日である。
 会社からの帰り道、少し良いお酒とおつまみを買って帰宅ラッシュの電車に乗り込む。
 人混みでうんざりする心も今日ばかりは手にぶら下がる重みによって少しだけ浮き足立つ。

 いつも何をするかは決めていない。本当に月を見る日もあれば適当に映画を見る日、ゲームをする日、お互いが別々に好きなことをする日もある。
 ただ決まっているのは空が明るくなって、月が完全に見えなくなるまで起きること、もし相手が寝てしまったら叩き起こすこと、それだけ。
 防音性がそこまで優れていない部屋で、月明かりだけを頼りに夜を越す。まるで一日だけの秘密基地だ。

 ポケットに入れていたスマホが震える。
 メッセージアプリを開いてみれば、どうやら相手も仕事が終わったようだ。
 続いていくつかの写真が送られてくる。
 お酒とお菓子と何かのアナログゲーム。そういえば最近気になっていると言っていた気がする。

 今夜のお供が決まったところで、電車のドアガラスの向こうを見れば東の空に月が掛かっているのが見えた。
 まだ低い所にある丸い大きな月に、少しでも長くこの夜が続いてほしいと願わずにはいられなかった。

5/24/2024, 9:40:12 AM

 夢と夢が移り変わりるその隙間。無意識に開かれた瞼をカーテンから漏れた光が撫でた。寝起きでぼやけた世界は、一度強く目を閉じると見知らぬ部屋へと変わる。
 白いシーツはさらさらとしていて、ルームウェアは少しごわついている。背中側が温かく、ベッドが自分以外の重みで沈んでいる。
 それがどういうことなのか。都合良く忘れてしまえるほど酔っていた訳ではなかった。
 寝起きの頭が昨日の記憶を突きつける。
 やけに喉が乾いているその意味を。
 ずっと見ないふりをしていた感情を。

 背中の重みがゆっくりと撓む。
 続いて聞こえたくぐもった声に逃げられないことを悟った。

5/23/2024, 9:16:30 AM

 幾年前からやってきたどこかの星の微かな光だけに照らされた宇宙船内。重力を忘れた私はただその船内をプカプカと浮いて、窓の外の星を見ていた。
 たぶん私が地球にいた頃に見ていたはずの星もあるのだろう。
 一度目をつむり、眠ってしまった家族を起こさないよう、静かに望遠鏡を覗き込んだ夜を思い出す。
 けれどそこには何もなかった。
 黒い丸の中にあった沢山の白い点。それらがどんな風に輝いていたのか。
 眠っていた家族はどんな顔だったのか。
 無理矢理思考を断ち切って目を開く。黒い丸窓では星々が輝いている。息を吐いて今の寂寥を胸から追い出した。
 持っていけなかったものはあまりにも多い。一つ一つを悲しんでいては、悲しみの澱で体が重たく沈んでしまう。

 何もない船内にアラームが鳴り響く。
 無重力の空間を泳ぐようにして、床近くの重力スイッチをオンにする。途端に体が重さを思い出して、ドサリと床に倒れ込んだ。
 起き上がってアラームを止めれば食事が出てくる。仕組みも原理も忘れたが、この小さいキューブを食べ続ける限り明日が続いていく。
 それを一口で放り込んで、飲み込んだ。
 それから椅子に座り日報を書き始める。
 昨日のデータを振り返り、日付と地球を出てからの日数を確認し、機械的にそれに一を足した。
 昨日は日付の後はその日に目に映ったものについての記述が続いていた。
 今日もそれに倣って書こうとして手が止まる。
 どうして日報を書いているのかわからなくなってしまった。書いたところで誰が読むのだろうか。
 もう戻れない場所にいる誰かか。
 顔も思い出せなくなった家族か。
 いるともしれない宇宙人か。
 沈み込みそうになった思考を引き上げる。先ほどの記憶に引きづられているようだ。
 これ以上何かを考えてはいけないと警鐘が鳴る。
 一つ息を吐き出した。
 止まっていた手を無心で動かし始める。
 今日は唯一の読者に向けての言葉を綴ることにしよう。


××××年×月×日
地球を出て××××日目

おやすみなさい
また明日

5/22/2024, 9:51:57 AM

 遠くの山から、近くの木から他の音をかき消すようにミンミンと声が降り注ぐ。おかげで首から下げた虫かごの中はセミの抜け殻でいっぱいだ。
 こちらに背を向けるようにして咲いたひまわりがかろうじて日陰を作ってくれているが、それでも8月初めの暑さの前では汗が流れるのを止めることはできない。
 そんな暑さの中、僕はただまっすぐ伸びる何もない道をひたすらに走っていた。
 ポケットにはお手伝いをして貯めた10円玉が7枚。両手にはおじいちゃんに持っていけと言われたお酒の瓶を2本抱えている。汗で滑って落としてしまわないよう、ぎゅっと握り締めている。
 外に出る前におばあちゃんが被せてくれた麦わら帽子は、走るうちに頭から外れてしまって今や首からぶら下がるだけ。汗でびしょびしょになってしまった頭を撫でる風が気持ちいいからそのままにしていた。
 
 途中で枝分かれした道を曲がると、そこにはお目当ての駄菓子屋がある。
 店の中へと転がるように駆け込んで、息を切らせたまま駄菓子屋のおばちゃんに半ば突き出すようにお金と瓶を渡す。
「おばちゃん、ラムネちょうだい」
「はいよ」
 おばちゃんはそれらを受け取ると、裏から氷水でよく冷やされたラムネを取り出して、タオルで軽く拭いてから渡してくれた。
「ありがと」
 ガラス瓶に入ったラムネは、普段目にするプラスチック製のそれより少し重い。それが嬉しくて、息を整える間もなく店の外にあるベンチへと向かう。
 座ったベンチは太陽に温められ、思ったよりも熱かった。一度座り直してから、逸る気持ちを抑えて握りしめたラムネを見る。
 少しずんぐりとした形の瓶を太陽に翳せば、陽の光が反射して輝く。透明な瓶が青色に染まって、小さな空が手の中に収まっているみたいだ。
 ガラス瓶はひんやりとしていて、おでこにあてるだけでも気持ちいい。
 でもこのままだと温くなってしまうから、惜しく 思いながらもおでこから離し、太ももで固定してピンクの蓋でビー玉を力いっぱいぐっと押した。
 勢いのいいプシュッと少しくぐもったカランが聞こえた後、シュワシュワと泡が立ち昇る音がする。
 音が聞こえなくなってから手をどけて、ラムネに口をつける。
 手で温められて少し温くなっていた瓶の口から、よく冷やされたラムネが流れ込む。口の中にピリピリと突付かれるような刺激とスーッと澄んだ甘さが広がる。
 傾ける度にビー玉がカラコロと鳴るのが楽しくて、夢中で飲んでいればあっという間にラムネはなくなってしまった。
 飲み終わったら瓶は返さないといけない。本当は持ち帰りたくてたまらないが、それがルールだと言われた。
 だからビー玉だけでも欲しいが、自分の力では飲み口を外せないのだ。今日は一人で来てしまったから、一度持ち帰らないと取り出せない。
「おばちゃん」
 どきどきしながら駄菓子屋に戻りおばちゃんに声をかける。
 なんだい、とおばちゃんが優しく聞き返してくれたのに背中を押されるように、言葉を続ける。
「瓶返すの、ビー玉取ってからでもいい?」
「はいよ、おじいちゃんに頼みな」
 おばちゃんが笑って、また買いに来なね、と手を振ってくれる。それに手を振り返して、行きと同じように走って帰る。
 手に持った瓶からビー玉がカランコロンと音をたてる。ラムネみたいに透き通ったビー玉が手のひらに乗るのが待ち遠しい。
 ひまわりの青々とした匂いとセミの声を聞きながら、僕は浮足立った足のまま思い切り地面を蹴り上げた。
 今なら夏の空に手が届きそうだ。

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