【花の香りと共に】
春先のことだった。
少し遅めの桜が咲いて、私はそれを見ていた。
「もう他の桜はすっかり散ってしまったよ。
君だけが遅かったんだ。一人ぼっちさ」
自嘲を込めた笑いを浮かべてみるけど空しいだけだった。どうしたってこんなに心は空っぽなのか。
もう私には出会うものも別れるものもなくなった。
文化人としての自分が死んだようだった。
緩やかな風に吹かれて花びらが少し舞った。
仄かな桜の匂いが漂ってきている。
私も、この花の香りと共に逝けたら良い。
「花と散ろう…桜の花だけに…なーんて」
冷たい風になってきたなぁなんて…思わないけど。
ループタイを締め直してその場を去った。
風が強まって桜が咲ったように花弁を散らしていた。
【願いが1つ叶うならば】
竜と人間の争いが激化し、ついに人間である竜信仰の騎士ですら戦地に赴くことになった。
私は竜信仰側の騎士であった。だから決して勝ち目のない戦いに私も行くよ。許してくれ、姫君。
「いつかまたここで会えるまで幸せでいて。約束だ」
「ええ、必ず。必ずよ」
ああ、互いに分かっているのだろう。
私たちが二度と会う日の来ないことを。
だから、貴女との思い出を全てこの日記に認めた。
いつも貴女と会っていた木の下に埋めることにする。
願いが1つ叶うならば…貴女にまた会いたいものだ。
生きて再会して、貴女と余生を歩みたい。
それが許されぬと言うのなら、この日記が、私たちの記憶がいつまでも潰えぬことを。
遠い未来に生きる何者か託そう。
この物語を読んでくれ。
【約束】
「いつかまたここで会えるまで幸せでいて。約束だ」
そんな言葉で締められたありきたりな物語の小説。
本を閉じてため息を吐いた。どれもこれも同じ話。
続編が出る前に作者は亡くなったらしい。
この本の作者、戦地に赴く前に書いたのですって。
そんなドラマもありきたり。
こんな、私以外にもう誰に読まれているかも分からない古い古い時代の、誰の日記ですかって言いたくなるほどマイナーな小説を。
ドラゴンの騎士と許されないお姫様。
当時だって流行りもしなかったんじゃない?
物語はね、誰かに読まれなきゃお仕舞いなのよ。
永遠に開かれないカーテンの後ろで踊るみたいに。
私がこの本を古本屋で見つけなきゃ危なかった。
良かったわね。まぁつまらなかったけれど。
今いるこの場所はこの物語の舞台だったらしい。
騎士がドラゴンになって飛んでいった崖がこの場所。
はは、馬鹿みたい。ただの崖よ。
…でもそうね、続編、読んでみたかったかも。
お姫様は約束を守れたのかしら?
この物語の続きは作者が示している。
きっと、二人は永遠に会えなかったと。
【ひそかな想い】
みんな私を愛してくれる。みんな私を見てくれる。
でもそれは本当の自分ではなくて、いや、本当の自分だからと言って偽物の私などいないのだけれど。
きっと、本当のことが言えなくても築き上げてきたこの私は、確かに私であるのだけれど。
私はこのひそかな想いを誰にもさらけ出すことなく、言いたいこと、願っていることを誰にも知られないの。
知ってほしくて、分かってほしくて、そして、そんな私を愛してほしくてたまらないのに。
ああ、最初からそんな私を隠した私が悪かったの。
でも、怖かった。そんな私が嫌われること、そして、愛されること。
敵などいないのに盾を構えて自分を守ろうとしていた。
愚かだった。私は弱虫だった。
【君の声がする】
歌うのが大好きな、一人の乙女がいた。
何をしても上手くいかない彼女の唯一の趣味だった。
毎朝教会で聖歌隊の歌の練習を聞き、その足で森へ行き一人で歌を歌った。
町のみんなは彼女の歌声を嫌った。彼女の歌を聞いて何も言わないのは魔法使いだけだった。
だから彼女は魔法使いの住む森で歌ったのだった。
魔法使いは町の人達から頼りにされていた。
彼女も自分を否定しない魔法使いが好きだった。
ある日、彼女は森で魔法使いに出くわした。
彼女は楽しそうに笑って魔法使いに声をかけた。
「魔法使いさん。私の歌を聞いてください。森と歌えるほど上手くなったら、お姫様になれるかしら」
彼女の歌を遮って魔法使いは話した。
「町のみんなは君の歌が嫌いなようだ。よく頼まれるよ。あの娘から声を奪えと。」
「…あなたは?私の歌、聞いてくれますか」
「…毎日君の声がする。どうだっていいよ。穏やかな森が起きるから、もう少し静かにしてほしいけど」
彼女は少し目を見開いて、「ごめんなさい」と呟いて黙ってしまった。
その日から、彼女は静かな娘になった。
家の仕事をすること以外、ボーッと空を眺めていた。
時々少しだけ口ずさみかけては泣いてばかりいて、それで怒られてしまっていた。
ある日、魔法使いは薬の材料を取りに出ていた。
人の声がなく、陽で目覚めた森が気持ちよく歌う。
しばらく歩いていると、倒れている娘を見つけた。
近寄ると例の乙女で、酷く苦しそうにしていた。
痙攣や嘔吐をして、もう目は虚ろで呼吸は弱かった。
彼女は花冠を被っていて、手元には花と葉がちぎられた鈴蘭があった。
魔法使いは彼女が鈴蘭を自分で口にしたのだと悟った。
「どうしてこんなことを。いま君を助けるから」
彼女は薬を取り出す魔法使いの手を握って制した。
「ごめん、なさい…ごめんなさい…もう…」
彼女は弱々しい声で歌いかけてやめた。
苦しそうに己を嘲笑って呂律の回らない言葉を紡いだ。
「はは……おひめ、さま……だって…あはは………」
そう呟くと少しだけ呻くような呼吸を繰り返して、魔法使いの腕の中でぐったりとして動かなくなった。
彼女の頭から花冠が落ちた。
魔法使いはその花冠を魔法でコロネットに変えて彼女の頭に再び被せた。
彼女の亡骸を抱きしめて、魔法使いは泣いていた。
そよ風に乗った小鳥たちの歌が響いていた。