距離
──『距離』が重要だ。
私はそう考えた。
いま目に見えている敵は、本体ではない。おそらく、一定の射程範囲内に侵入したものを自動的に迎撃するシステムのようなものだ。射程に入らない距離を保ちながら、通路を突破しなければならない。
奴は当然、通路の出口を塞ぐ形で鎮座している。出口から引き剥がすには……囮が必要だ。
私は奴に始末されたのであろう、打ち捨てられていた死体に術を掛けた。奴に向かって真っ直ぐ歩かせる。反応は……ない。
死体には反応しないのか。確かに奴の足元にはいくつもの死体が転がっているが……単に動くものに反応するのではなく、生きているか死んでいるか判断できるのか。……いや。
私は死体を一度戻らせ、火をつけた。肉の焦げる酷い臭いが通路に立ちこめる。私が再び術をかけると、死体は頭から煙を上げながらのたのたと敵に向かっていった。
生き物か否かを判断するのに手っ取り早い方法の一つは体温の有無を確かめることだろう。果たして、当たりだった。敵は燃える死体に光線を放ち、死体は吹っ飛んだ。まだ火のついている死体の破片を追って動き始める。
私は更にもう一体、死体を燃やし、出口と反対側に向かわせた。死体の破片を追っていた敵の射程圏内にもう一体の死体が入ると、敵は更にその死体を追って攻撃を続ける。
死体が充分に敵の距離を稼いだことを確認し、私は素早く通路を抜けた。扉を閉めると、ひやりとした空気に包まれる。
私は呼吸を整え、さらに続く道を睨んだ。本体との対決が迫っている。
夫婦
うちの両親は昔から仲が良い。還暦を過ぎた今もデートと称してしょっちゅう二人きりで出かけたりする。
子供の頃は大人になったら両親のように愛する人をみつけて温かい家庭を築くのだと漠然と思っていた。それがスタンダードなあるべき姿なのだと。成人した今となっては信じられない。途方もなく難しい、ほとんど不可能なことに思える。
恋をしたことがないわけではない。初恋の人は中学の頃の数学教師だった。三十代前半くらいで教師の中では若手だったのだろうが当時の私にとっては随分大人に見えた。彼は既婚者で、私の恋は始まる前から終わっていたが、教壇に立つ彼の横顔を見つめるのは楽しかった。
けれどある日、職員玄関で彼の奥さんを見かけたとき、私は一も二もなく逃げ出した。綺麗な女性だった。私は彼と本気で付き合えるなどと思っていたわけではなかったはずなのに、ひどく惨めだった。私はトイレに駆け込み、鏡の中で真っ赤な目をしている詰襟の少年を見つめた。これがこの先ずっと続くのだ、という実感が不意に湧いて、私は泣いた。
大学生の頃、実家の隣に住んでいた幼馴染の両親が離婚した。家族ぐるみで親しくしていたが、彼の両親が以前から不仲だったというのは聞いていた。家同士の都合でお見合い結婚した二人の間に愛情は芽生えず、利害の一致だけで息子が成人するまでは一緒にいたということらしい。
「正直、きみん家がうらやましいよ」と快活な彼が珍しく溢した弱音に、私はなんと返して良いか分からなかった。
両親のような夫婦でいるのはかなり奇跡的なことでは?と私が言うと、歳の離れた兄は大きく頷いた。それから、「両親は確かに素晴らしいけれど、ああいう人生が全てでもないと思うよ」と苦笑した。「俺は好きに生きてるし、お前もただお前らしく幸せになってくれれば親だって文句ないだろ」
私は下手くそな笑い顔を作って、眩しく兄を見つめた。
冬になったら
冬になったら炬燵を出そうと言っていた通り、狭い居間の真ん中にそれは鎮座していた。
「おお……」
私が思わず感嘆の声を上げると、既に炬燵の住民となっている部屋の主は「ふふん」と鼻を鳴らして得意顔をした。炬燵のある家に住んだことがない私は、炬燵でみかんを食べるという冬の風物詩らしい行為に多大な憧れがあった。因みに実家のダイニングはテーブルと床暖房だった。
そろそろと足を炬燵布団に忍ばせると、寒風の中を歩いて冷えた身体が足先からじんわりと温められていく。わたしはほう、と息をついた。そして欠かせないものを要求した。
「みかんは?」
「あるぞ」
「どこに?」
「冷蔵庫の隣の段ボール」
「取ってきて」
「お前が行け」
「炬燵から出たくない」
「気が合うな、俺もだ」
攻防は暫く続いたが、結果として私は炬燵に入ったままみかんを入手することに成功した。口でなんと言ってもこの男は私に甘い。みかんの皮を剥いて、白い筋も取って、とお願いする度にぶつくさ言いながら結局全部やってくれる。
そうしてぬくぬくしていると、半身浴をしたときのように身体の芯まで溶かされていく感覚がした。今年の冬は炬燵に囚われて過ごそう。私は夢見心地で思った。
はなればなれ
お前とはなればなれで過ごした時代は何度もあった。数百年会わなかったことだってある。それでもお前を失ったと思ったことはそう多くない。ああ、勿体ぶるのは止そう、今回で二度目だ。
最近の俺たちはあまりに近づき過ぎていた。出会ってからの時間を思えば、あまりにも急な変化だった。人間の愛に下手に関与しようとしたせいで影響を受けたなら、我ながら情けない。しかしそれは否定できないだろう。
俺は俺が何者かなんて本当はどうでも良い。ただお前の横で日々をやり過ごせれば他に何もいらなかった。これほど長くそばに居て、お前がそのことを知らなかったなんてどうして思える?
分かっている。俺が言葉にしてこなかっただけだ。お前は遠くに行ってしまった。未練の一つもなく、あるべき正しい行いとして。
俺はお前の許しなんかいらない。お前が俺の思いに何かを返してくれるなら、それが怒りでも欲望でも構わなかったのに。
子猫
微睡みからふと意識を取り戻すとキーボードの上を黒いふわふわの毛玉が陣取っていた。画面には意味をなさない文字が無尽蔵に並んでいる。
「あー……」
私は一人天井を仰いだ。机の上のマグカップが空だったことは救いと言えるだろう。
小さな侵略者は私の嘆きなどどこ吹く風といった様子でのんびりと丸くなっている。その場から動く気配はまるでない。ため息をついて壁に目を移すと、時計は午前二時を指していた。
私はキーボードを叩くのを諦めて、代わりに子猫の背中を撫でた。柔らかな毛並みが私の冷えた手のひらをじんわりと温めていく。それだけで犠牲になった進捗を許してしまえるのだから、子猫とは恐ろしい生き物である。