ナツメグ

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夫婦

 うちの両親は昔から仲が良い。還暦を過ぎた今もデートと称してしょっちゅう二人きりで出かけたりする。
 子供の頃は大人になったら両親のように愛する人をみつけて温かい家庭を築くのだと漠然と思っていた。それがスタンダードなあるべき姿なのだと。成人した今となっては信じられない。途方もなく難しい、ほとんど不可能なことに思える。
 恋をしたことがないわけではない。初恋の人は中学の頃の数学教師だった。三十代前半くらいで教師の中では若手だったのだろうが当時の私にとっては随分大人に見えた。彼は既婚者で、私の恋は始まる前から終わっていたが、教壇に立つ彼の横顔を見つめるのは楽しかった。
 けれどある日、職員玄関で彼の奥さんを見かけたとき、私は一も二もなく逃げ出した。綺麗な女性だった。私は彼と本気で付き合えるなどと思っていたわけではなかったはずなのに、ひどく惨めだった。私はトイレに駆け込み、鏡の中で真っ赤な目をしている詰襟の少年を見つめた。これがこの先ずっと続くのだ、という実感が不意に湧いて、私は泣いた。
 大学生の頃、実家の隣に住んでいた幼馴染の両親が離婚した。家族ぐるみで親しくしていたが、彼の両親が以前から不仲だったというのは聞いていた。家同士の都合でお見合い結婚した二人の間に愛情は芽生えず、利害の一致だけで息子が成人するまでは一緒にいたということらしい。
 「正直、きみん家がうらやましいよ」と快活な彼が珍しく溢した弱音に、私はなんと返して良いか分からなかった。
 両親のような夫婦でいるのはかなり奇跡的なことでは?と私が言うと、歳の離れた兄は大きく頷いた。それから、「両親は確かに素晴らしいけれど、ああいう人生が全てでもないと思うよ」と苦笑した。「俺は好きに生きてるし、お前もただお前らしく幸せになってくれれば親だって文句ないだろ」
 私は下手くそな笑い顔を作って、眩しく兄を見つめた。

11/23/2023, 10:43:39 AM